テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#そのじん
笑う門には福来る
1,757
1,337
#nmnm注意
nanana

9,826
66
電話が切れた。
部屋には、静寂だけが残る。
仁人はスマートフォンを握ったまま、その場から動けなかった。
耳にはまだ、勇斗の声が残っている。
『仕事が減ったら、また頑張る』
『信用を失ったら、また積み上げる』
『もし仁人が俺の手を離すなら、また握ってもらえるまで頑張る』
そして。
『もし別れたとしても、また付き合ってもらえるように頑張るよ』
仁人はしばらく黙っていた。
やがて。
「……ばっかじゃないの」
ぽつりと呟く。
声に出した途端。
なぜか、少しだけ笑ってしまった。
「何だよ、それ」
別れようとしている恋人に。
別れても、また付き合ってもらえるように頑張るなんて。
普通、言うだろうか。
「……しつこすぎだろ」
呆れたように呟く。
けれど。
口元に浮かんだ笑みは、なかなか消えてくれなかった。
嬉しかった。
認めたくないくらい。
嬉しかった。
自分は。
手を離せば、そこで終わると思っていた。
自分がいなくなれば。
勇斗はいつか前を向いて。
仕事をして。
M!LKを続けて。
そのうち、自分のいない未来にも慣れていくのだと思っていた。
だから。
どれだけ苦しくても。
それが勇斗のためなら、自分が離れればいいと思っていた。
なのに。
勇斗は、その未来を選ぶつもりがなかった。
別れたところで。
諦めないと言った。
もう一度、自分に好きになってもらえるまで頑張ると。
まるで。
別れることなんて、二人の終わりにはならないと言うように。
「……ほんと、ばか」
もう一度呟く。
今度の声は、少しだけ震えていた。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
嬉しい。
けれど。
嬉しいと思ってしまう自分が、少し怖かった。
だって。
あんなことを言われたら。
手を離したくなくなる。
ずっと隣にいたいと思ってしまう。
昨日まで必死に固めていた決意が。
勇斗の言葉ひとつひとつで、簡単に崩れていく。
仁人はソファへ深く腰を下ろした。
天井を見上げる。
『俺は別れたくない』
『M!LK諦めない』
『仕事も諦めない』
『仁人のことも諦めない』
――全部大事だから、全部守るために頑張りたい。
仁人はゆっくり目を閉じた。
「……欲張りなんだよ」
小さく笑う。
本当に。
勇斗らしい。
昔からそうだった。
失敗しても。
思うような結果が出なくても。
そこで終わりだとは考えない。
次にどうするかを考える。
無くしたものを嘆くより。
もう一度手に入れるために動く。
勇斗はずっと、そうやって歩いてきた。
今回だって。
きっと同じなのだ。
仕事を失うかもしれない。
信用を失うかもしれない。
今まで通りではいられなくなるかもしれない。
仁人が怖がっている未来を。
勇斗だって、何も考えていないわけじゃない。
それでも。
失うかもしれないからといって。
先に大切なものを手放すつもりはないと言った。
「そんな簡単な話じゃないだろ……」
仁人は小さく呟く。
けれど。
昨日までと違って。
その言葉には、もう以前ほどの確信がなかった。
本当に。
勇斗が間違っているのだろうか。
勇斗のためだと思っていた。
M!LKを守るため。
俳優としての未来を守るため。
今まで積み上げてきたものを壊さないため。
だから。
自分から離れることが、一番正しいと思っていた。
それが。
一番の愛情なのだと。
でも。
もし。
その選択で、一番傷つくのが勇斗だとしたら。
自分がいなくなる未来を。
勇斗自身が望んでいないのだとしたら。
「……俺」
ぽつりと声が落ちる。
「本当に、勇斗のためを思ってんのかな」
誰も答えてくれない。
仁人は膝の上で手を組んだ。
自分が怖かっただけなのかもしれない。
男同士だと知られたあとの世間の反応が。
勇斗が傷つくところを見ることが。
仕事を失って。
笑えなくなって。
いつか自分との恋を後悔する勇斗を見ることが。
怖かった。
だから。
その未来が来る前に。
自分から終わらせようとしていた。
でも。
『仁人がいない未来が、俺にとっていい未来だって、勝手に決めないでよ』
胸が痛む。
確かに。
自分は勝手に決めていた。
勇斗のためだからと。
自分がいない方がいいと。
勇斗本人が何度否定しても。
それでも、自分の考えの方が正しいのだと思っていた。
「……最悪」
仁人は片手で顔を覆った。
「俺、めちゃくちゃ勝手じゃん」
苦く笑う。
リーダーとして。
M!LKを守ることばかり考えた。
恋人として。
勇斗の未来を守ることばかり考えた。
なのに。
そのどちらにも。
勇斗本人がどうしたいのかという、一番大切なことを置き去りにしていたのかもしれない。
そして何より。
自分自身の気持ちまで。
「……別れたくない」
昨夜。
電話越しに口にした言葉。
言ってしまった瞬間。
もう誤魔化せなくなった。
本当は。
ずっとそうだった。
別れたいなんて。
一度も思っていない。
勇斗のためだと思ったから。
無理やり、自分にそう言い聞かせていただけだった。
「……俺だって」
仁人は小さく呟く。
「離れたくないよ」
声にすると。
胸の奥に押し込めていた気持ちが、一気に溢れてくる。
隣にいたい。
これからも。
一緒に笑いたい。
一緒に仕事をしたい。
誰にも知られなくてもいい。
今まで通りでいい。
ただ。
勇斗の隣にいたい。
そして。
また勇斗の声を思い出す。
『もし別れたとしても、また付き合ってもらえるように頑張るよ』
「……ほんと何なんだよ」
仁人は思わず笑った。
「俺がどんだけ覚悟して別れようとしてると思ってんだよ」
文句を言っているのに。
どうしても。
頬が緩んでしまう。
あんなふうに言われたら。
まるで。
何度離れても、自分を選び直してくれると言われたみたいだった。
嬉しくないわけがない。
「……ずるい」
静かな部屋に。
小さな声が落ちる。
勇斗は。
別れないでくれと泣いて縋ったわけじゃない。
未来は大丈夫だと、無責任に言ったわけでもない。
何かを失う可能性も認めた。
怖いことだってあると認めた。
その上で。
それでも、また頑張ればいいと言った。
そして。
もし仁人が手を離しても。
またその手を取りに行くと。
そこまで言われて。
それでも自分だけが。
勇斗のためだからと離れることが。
本当に正しいのだろうか。
仁人は長い息を吐いた。
昨日までは。
別れるしかないと思っていた。
でも。
今は、そうは思わない。
何が正しいのか、全部分かったわけじゃない。
それでも。
離れることだけが答えじゃないことは、分かった。
この先何が起こるのかも。
本当に二人で全部を守れるのかも。
分からない。
それでも。
一つだけ。
はっきりしてきたことがあった。
――離れることだけが、勇斗を守る方法じゃない。
仁人はゆっくり目を開ける。
もし勇斗が。
失ったらまた積み上げると言うのなら。
もし。
どちらも守るために頑張りたいと言うのなら。
自分が隣にいることだって。
勇斗を苦しめるだけじゃないのかもしれない。
一人で勇斗の未来を決めるんじゃなくて。
一緒に考えて。
一緒に守る。
そんな選択があってもいいのかもしれない。
「……別れない、か」
初めて。
その言葉を口にしてみる。
胸が大きく鳴った。
怖い。
もちろん怖い。
でも。
昨日まで感じていた絶望とは、少し違った。
その先に。
ほんの少しだけ。
未来が見えた気がした。
窓の外を見ると。
いつの間にか、空が少しずつ明るくなり始めていた。
結局。
一睡もできなかった。
けれど。
仁人はもう、昨日と同じ答えを持ってはいなかった。
翌朝。
支度を終えた仁人は、鏡の前で立ち止まった。
映った自分は。
ひどく疲れた顔をしている。
「……最悪」
そう言って。
少しだけ笑った。
答えは。
もうほとんど決まっていた。
ただ。
それを口にするには。
もう一度、自分自身の覚悟が必要だった。
勇斗の隣に残るということ。
これから何があっても。
一緒に背負うということ。
自分だけが守るんじゃない。
勇斗にも。
自分を守らせるということ。
仁人はゆっくり息を吐いた。
そして。
事務所へ向かった。
今日もまた。
みんなで話し合う。
昨日。
自分が口にした答えを。
今度は。
自分自身の手で、変えるために。
仁人は会議室の前で足を止めた。
一度だけ目を閉じる。
頭に浮かんだのは。
昨夜の勇斗の声だった。
――また付き合ってもらえるように頑張るよ。
「……ばか」
小さく笑って。
仁人は扉に手をかけた。
コメント
3件
心情描写がめちゃくちゃ好きです! ぎゅーっと心を掴まれました…😭✨
うわ、もう仁人の心情がぐちゃぐちゃに揺れてて泣ける…。「別れたくない」ってやっと声に出せた瞬間、一緒に息を止めてたわ。勇斗の「別れてもまた付き合ってもらえるように頑張る」って台詞、強すぎるだろ…ずるいよなあれ。仁人が「ばっかじゃないの」って笑いながらも、目が離せなくなる気持ち、めちゃくちゃ分かる。最後の扉に手をかけるシーン、もう決意は固まってるんだなって伝わってきて、次が待ちきれない🔥