テラーノベル
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昨日の痛みがまだ体に残っている。
階段一段一段を踏みしめるたびに、腹部の奥がずきんと疼いた。
それでも笑顔の仮面は、今日も崩さずに顔に貼りつける。
「行ってくるね、ドリーム。」
弟は笑顔で手を振り返す。その顔はどこか、少しだけ寂しそうだった。
──心配だ。あとで、何があったのかちゃんと聞かないと。
僕は軽く手を上げて応え、扉を開けて外に出る。
ひんやりとした空気が肌に触れる。
音のない朝だった。風もなければ、鳥の声もない。
それが不気味なはずなのに、不思議と落ち着く。
今日は……路地裏へは行かない。
どうしてだろう?
理由は僕にも分からない。ただ、足が勝手に違う道を選んでいた。
迷路のような小道を、ゆっくりと歩いていく。
……少しだけ、また彼女に会えるんじゃないかと、そんな期待がどこかにあった。
少し歩いた先、まるでそれが当たり前であるかのように、あの子はそこにいた。
「おはよう!」
「…………おはよう」
自然に言葉が出た。
その声がいつもより少しやわらかかったことに、自分でも驚いた。
冷えた空気の中に、自分の声だけがほんのり温かかった。
チミーは今日も手に何かを持っていた。
小さな包みを差し出して、笑顔で言う。
「今日はね、ガトーショコラだよ。出来たてのやつ!」
包みを受け取ると、ほわっと温かさが伝わってくる。
湯気が指先に触れて、くすぐったくて、でもどこか心地よい。
「どうして……」
「ん?」
「どうして、僕にそんな優しくできるの!? だって……僕は……!!」
感情がこみ上げる。
聞きたかったこと。聞きたくなかったこと。
それでも、言わずにはいられなかった。
チミーは少しきょとんとして、それから微笑んだ。
「んー……困ってる人がいたら助ける。それって、当たり前のことじゃない?」
……その“当たり前”が、僕には一番遠いものだった。
「そんなの普通でも当たり前でもないよ。だって……誰もそんなこと、僕にしてくれなかったもん……」
その言葉にチミーはなにも言わず、ただ僕の隣に並んで座った。
沈黙。だけど、居心地の悪いそれじゃない。
風の音、遠くで木の葉がこすれる音、どこかで小さく鳴く鳥の声。
世界は音に満ちていた。でも、そのどれもが静かだった。
──こんなに静かな時間を、穏やかに感じたのは初めてかもしれない。
風が少し冷たくなる。
チミーがふと顔を上げて、ぽつりとつぶやいた。
「雨になるかもね。」
僕も空を見上げる。
雲が低く垂れこめていた。空は灰色だけど、どこか優しい色をしている。
「……でも、今日は悪くない日だな。」
言葉が自然とこぼれた。
嘘でも演技でもなく、心からそう思った。
いつの間にか、身体の傷の痛みは消えていた。
それだけじゃない。
ずっと奥に刺さっていた、誰にも言えなかった痛みまでもが、少しだけ和らいだ気がした。
チミーは黙ったまま、ただ微笑んでいた。
この世界に、こんな静けさがあったなんて…僕は知らなかった。
ふと気づけば、空の雲が少しずつ流れていた。
雨が降る前にチミーと別れを告げ、帰路につく。
今日は、路地裏に行かなかった。代わりに、少しだけ自分の心に触れられた気がした。
家の扉を開けると、ふわりと温かい香りが鼻をくすぐった。甘いミルクティーの香り。ドリームの好物だ。
「おかえりナイトメア!」
キッチンの奥から、ドリームが顔を出す。いつもの明るい声。けれど、どこか少しだけ、疲れているように感じた。
……気のせいだろうか?
「ただいま、ドリーム。」
いつもより少しだけ、ゆっくりと言葉を選ぶ。
笑顔を作らなくても、不思議と自然に言葉が出た。
「ミルクティー淹れたんだ。飲む? 今日は……雨が降りそうだから、あったかいのがいいかなって。」
そんな小さな気遣いが、胸に染みた。
「うん。ありがと。」
テーブルを挟んで、向かい合う。
ふわりと湯気が立ちのぼるマグカップを両手で包みながら、二人はしばらく黙っていた。
けれどその沈黙は、居心地が悪くなかった。
言葉にしなくても、伝わることがある。そんな気がした。
「……なんか、今日のナイトメア、ちょっと優しいね」
ドリームがふと微笑む。
「そっちこそ。いつもより落ち着いてる。」
僕も笑って返す。
窓の外で、ポツリと雨粒が音を立てた。
それはまるで、この短い穏やかな時間を包み込む静かな拍手のようだった。
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