旅は三日目に入った。砂漠と山が続く。健太はギアをドライブから二速に落とした。レンタカーのカムリは擬人表現をすれば、汗をかきながら坂を登っている。室内はクーラーが効いていて、灼熱大地を移動する避暑地となっている。車窓を影なく照らす太陽の様子を補足説明するように流れるラテン音楽は、マレナが持ってきたCDだ。
「ねえ」マレナのサングラスに青空と黒い直線道が映っている「この国って車の免許、簡単に取れるの?」
他の州のことは知らないけれど、我々の住んでいる州の場合は簡単だよと健太は答えた。
「マレナちゃん、免許取りたいの?」キヨシが後部座席から首を伸ばした。
マレナは聞いていないようだった。
「ちょっと健太の免許、見せてくれない?」
後でねと健太は言った。
「ねえったら」
今運転中。
「運転中でもいいのよ、ねえ」
マレナに助手席側の腕を捕まれている。
行く手の空にはソフトクリームのような入道雲が浮かんでいる。
健太の頭には、管理人のバアチャンの言葉がむくむくと浮かんできた。
いいかい、どんなに仲良しになっても、この街で絶対に人を信用してはダメよ。冷たいように聞こえるかもしれないけど、いつかバアチャンがいいこと教えてくれたっていう日が来るわよ。
健太は開きかけたウェストポーチのチャックを閉じた。
「あんた、そういう人なの?」マレナはそう言ったっきり、無口になった。
「健太さんはね、あまり人にそういうの見せたがらない人なんだよ」とキヨシがフォローした。
旅はまだあと三日ある。せっかくの夏休み。健太は車を路肩に止め、ポーチから免許証を取り出した。
「これでいいだろ」
「も一回」とマレナは言った。
「聞くけど、どうしてそんなに免許見たがるわけ?」
「あなたの写真が見たいのよ」
「健太さんは写真より実物の方がカッコいいよ」健太の眉がハの字になったのを見て、キヨシが言った。マレナは笑わなかった。
「じゃ、いいわ。なら、ソーシャル・セキュリティ見せて」
ソーシャル・セキュリティ・カードは免許を取るときも、銀行口座を開設するときも、社会保障税を払うときにも使われるカードで、在留異邦人にも交付される。
「どうしても見たいの」
何考えてるんだろね、と健太は日本語でキヨシに言った。キヨシは「なかなかこのコ、聞かん坊ですな」と、やはり日本語で返した。
マレナはギアに手をかけた健太の手の甲を押えた。
「今度、伯父さんが取得を手伝ってくれるのよ。だから、どんなものか見たいだけなの」
健太はソーシャル・セキュリティ・カードを取り出し、すぐに財布に戻した。
「も一回」と、マレナは言った。
「ダメ」
「お願い。もう一回だけ」
「やだ」
「あんたって、そういう人だったの。知らなかったわ」
「今度は写真ついてないよ」
「私、この国に来てまだ半年でしょ。見るもの聞くもの新しくて、好奇心一杯なのよ」とマレナは言った「だから、見せて」
健太は首を横に振った。
「じゃ、キヨシ君の見せてよ」
「俺、持ってきてないよ」とキヨシは答えた。そう答えればよかったのかと、今更ながら健太は思った。
灼熱大地の上の空間が、ピンと張りつめだした「そこに出ている小さな番号を見たいのよ」とマレナは言った。キヨシは「ヘンな趣味もった人ですね」と日本語で言った。
健太はマレナを不機嫌にさせておくことにした。アクセルを踏むと、車は走り出した。
マレナはわめき出した。
「ドケチ! あんたなんて、地獄の底へ落ちればいいんだわ!」
今回の旅は、そもそも健太とキヨシの二人で行くはずだった。お金はないけれど旅に出たい、バイトしてお金は必ず返すからというマレナの願いを受け入れたのは、健太とキヨシの側である。
マレナはそのうち、運転中の健太の右腕をつかみ、揺らし、つねりだした。キヨシが必死に止めている。
「降りる?」
健太はもう一度車を止めた。エンジンを切ると、ラテン音楽も止まった。
遠くに見える山まで、見渡す限り不毛の大地が続いている。
「わかったわ。私がわがままだった」
サングラスを外したマレナは、大粒の涙を流し始めた。