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第十三章 影錆と閃光編
第185話 残った場所
【現実世界・駅周辺対応点/規制区域内・朝】
駅前には、二つの境界線が引かれていた。
一つは、警察が張った規制線。
もう一つは、白い光の細い線。
警察の規制線は、人を止めるためのもの。
白い光の線は、戻った場所と戻らなかった場所を分けるものだった。
戻った人々は、すでに医療班の確認を受け始めている。
意識があるか。
名前が言えるか。
家族の名前を覚えているか。
ここがどこか分かるか。
そこまでは確認できた。
だが、木崎が今見ているのは、戻った人々ではなかった。
その外側だ。
駅前ロータリーの中央。
現実の白線の上に、異世界の石塔がまだ重なっている。
石塔の輪郭は前より薄くなっているが、消えてはいない。
根元の紋様が、アスファルトの下から浮かび上がるように見えた。
駅舎の外縁も不安定だった。
柱の一部は現実のコンクリートに戻っている。
だが、隣の柱は、まだ半透明に揺れている。
その根元には、赤茶けた錆の筋が残っていた。
ラストの置き土産だ。
「中央部、まだ入るな」
木崎が言った。
「戻った人の確認が終わっても、駅舎側へは動かすな」
近くの隊員が頷く。
「外側の固定が終わるまで、ですか」
「終わるまでじゃない」
木崎はカメラを構えたまま言う。
「まだ始まってもいない」
その言葉に、隊員は黙った。
半分戻った。
だが、駅全体が戻ったわけではない。
いま現実の地面に立っている人々のすぐ外側には、
まだ異世界の構造と錆と黒い影が残っている。
木崎はカメラのレンズをロータリー中央へ向けた。
石塔の輪郭。
割れた白線。
赤茶けた粉。
黒い影の残滓。
レンズ越しに見ると、石塔の根元に細いノイズが走っているのが分かった。
肉眼ではほとんど見えない。
だが、確かにそこだけ映像がざらつく。
「……まだ生きてるな」
「何がですか」
「ラストの錆だ」
木崎は答えた。
「本人はいない。だが、食った跡がまだ動いてる」
その直後、バス停の支柱が小さく鳴った。
ぎ、と。
古い扉が勝手に開くような音だった。
木崎が即座に振り向く。
「そこから離れろ!」
隊員が飛び退く。
支柱の根元から、赤茶色の粉が落ちた。
支柱は倒れなかった。
だが、ほんの少し傾いた。
誰も触れていない。
風もない。
それなのに、金属だけが時間を早送りされたように弱っていく。
木崎は通信を開いた。
「駅外縁、腐食継続」
「ラスト本体は確認できない。
だが、残留した錆がまだ駅構造を食ってる」
「戻った人の導線は安定。外側はまだ危険領域」
城ヶ峰の声が返る。
『戻った人の導線と、駅外縁を完全に分けろ』
『人を動かす時は、光の内側だけを通せ』
『駅舎側には誰も出すな』
「了解」
木崎はもう一度、ロータリー中央を見た。
石塔はまだそこにある。
ラストの錆も残っている。
駅は、戻ったふりをしているだけだ。
「……ここを戻さないと、また食われる」
木崎は低く言った。
◆ ◆ ◆
【現実世界・湾岸方面/資材ヤード・朝】
資材ヤードでは、感傷の時間は終わっていた。
日下部の前には、半界反転後のデータが並んでいる。
《CIVILIAN FLOW CORE / FIXED》
《RETURNED PERSONS / CONFIRMED》
《STATION OUTER AREA / UNSTABLE》
《RUST RESIDUE / ACTIVE》
《ROLE SHADOW / REDUCED》
《SCHOOL AREA / UNRETURNED》
日下部は、その表示を順番に読み上げた。
「人流中心は固定」
「戻った人の確認も継続」
「役割影は減少」
「ただし、駅外縁は未安定」
「ラストの腐食反応は、本人がいない状態でも残っています」
「学園は未帰還」
佐伯が資料へ書き込む。
「戻った人の導線は安定」
「駅外縁は危険」
「腐食は残留型」
村瀬が顔を上げる。
「残留型ってことは、ラストが離れても錆び続けるんですか」
「そう」
日下部は答えた。
「正確には、ラストが触れた場所に腐食の処理が残っている。
それが駅の戻りかけた構造に絡んでいます」
城ヶ峰が腕を組む。
「放置した場合は」
日下部は画面を切り替えた。
駅前の簡易図。
中央に白い固定域。
その外側に赤い腐食点。
ロータリー中央、バス停、駅舎外縁に赤い線が走っている。
「最悪の場合、戻った人流中心の外側が崩れます」
「光の内側はすぐには食われません。
でも外側の構造が落ちれば、避難導線が狭まる」
「さらに腐食が光の節の設置場所まで進むと、次の反転ができません」
「つまり」
城ヶ峰が言う。
「駅周辺を完全に戻す前に、ラストの錆を止める必要がある」
「はい」
日下部は頷いた。
「駅完全復元の前提条件は三つです」
佐伯がペンを構える。
日下部は一つずつ言った。
「一つ。
駅外縁に残った腐食反応を切り離す」
「二つ。
ロータリー中央の石塔重複部を現実側の座標から外す」
「三つ。
主鍵と副鍵二つを再同期し、駅全体へ光路を広げる」
村瀬が不安そうに言う。
「でも、光路を広げると、また影も入るんじゃ……」
「その通り」
日下部は答えた。
「だから今度は、先に外側の影と錆を削る必要がある」
「半界反転の時は、人を優先して内側だけを戻しました」
「次は、外側を安全にしてから駅全体を戻す」
木崎の声が通信で入った。
『安全にするには、ラストをどうにかするしかないな』
日下部はすぐには答えなかった。
逃げる。
避ける。
交差光路で鈍らせる。
ここまではできた。
だが、駅全体を戻すには、ラストの錆が邪魔になる。
つまり、今度は逃げているだけでは駄目だ。
「ラストを駅外縁から引き剥がす必要があります」
日下部は言った。
「できれば、腐食反応ごと止めたい」
城ヶ峰が低く返す。
「倒せるか」
日下部は画面のラスト反応を見つめる。
「現時点では不明です」
「ただ、拘束候補ならあります」
木崎が短く聞く。
『金属は使えないぞ』
「使いません」
日下部は答えた。
「交差光路を、複数重ねます」
「それに、名前確認と役割剥がしを組み合わせる」
村瀬が首を傾げる。
「役割剥がし?」
「ラストは警官の姿を借りている」
日下部は言った。
「その役割を外す」
「警官として誘導することも、守る側に紛れることもできない状態にする」
「その上で、交差光路の内側へ閉じ込める」
佐伯が呟く。
「錆を、光と名前で止める……」
木崎の声が、低く返ってきた。
『面白い』
『逃げるよりは、ずっといい』
城ヶ峰が言う。
「まだ決定ではない」
「だが、方向はそれだ」
「ラスト対策班を組む」
「木崎、現場側の目は任せる」
『了解』
『あいつを見失わない』
日下部は画面の赤い腐食反応を見ながら、静かに息を吐いた。
駅を完全に戻すためには、
まず錆を止めなければならない。
◆ ◆ ◆
【異世界・駅周辺/臨時防衛線・朝】
異世界側の駅周辺では、戻った人々の跡を片づけていた。
落ちた布。
踏まれて潰れた水袋。
子どもが落とした小さな飾り。
それらを兵士たちが拾い、別の場所へまとめている。
それは、弔いではない。
戻った人々の痕跡を、次の導線から外すための作業だった。
指揮兵が命じる。
「光の内側に残った物は回収」
「次の試行で足を取られる」
「持ち主が分かるものは記録しておけ」
若い兵士が、小さな布袋を拾い上げる。
「これ、現実側に戻った人のものですかね」
「かもしれない」
指揮兵は答えた。
「記録しておけ。次に通る時、渡せるかもしれない」
兵士は頷き、布袋を大事そうに置いた。
そこへ、術師が光具の反応を見ながら言う。
「導線の残りは細いです」
「無理に広げると切れます」
「なら広げるな」
指揮兵は即答した。
「ここは次のために残す」
駅前の外側には、まだ現実のロータリーが薄く重なっている。
だが、人が戻った場所だけは、少し軽くなっていた。
空気が違う。
人の密度が減ったぶん、影も入り込みにくくなっている。
それでも、完全に安全ではない。
広場の端で、黒い役割影が一つ、立ち上がりかけた。
兵士の鎧のような輪郭。
だが、すぐに近くの兵士が気づく。
「名前は」
影は答えない。
兵士は槍を構えた。
「名前のない者は、ここに立つな」
光具が明滅し、影は薄くほどけた。
指揮兵はそれを見て、低く言った。
「名前確認を続けろ」
「戻ったあとも、影は残る」
この場所もまた、まだ戦場だった。
ただし、次は違う。
逃げるためではない。
戻すために、この場所を守る。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館脇・朝】
学園の体育館では、半界反転の余波がまだ残っていた。
床に走っていた光は細くなっている。
完全に消えたわけではない。
だが、さっきまでの強い光ではなく、
呼吸を整えているような淡い明滅になっていた。
ハレルは壁にもたれて座っていた。
主鍵はまだ熱を持っている。
だが、手の中で暴れるような震えはない。
リオは少し離れた位置で、右腕の副鍵を押さえている。
サキはスマホと紙を見比べながら、戻った人々の報告を読んでいた。
「戻った人、意識あり」
「名前確認、成立」
「現実側の地面に固定」
「医療班が確認中」
読み上げながら、サキの目にはまた涙が浮かぶ。
「本当に、戻ったんだね」
ハレルは頷いた。
「うん」
その一言だけで、胸が少し熱くなった。
だが、すぐに体育館の空気は重くなる。
ダミエが、レアの外箱の前に立っていた。
顔色が悪い。
肩も、わずかに落ちている。
サキがそれに気づく。
「ダミエ、大丈夫?」
「問題ない」
リオがすぐに言った。
「その言い方は問題ある時の言い方だ」
ダミエは少しだけ眉を寄せた。
「本当に問題はない」
「嘘だな」
リオが返す。
ダミエは答えなかった。
外箱の光は、前より薄い。
半界反転の揺れが、レアの拘束にも影響していた。
ダミエはそれを一人で押さえ続けている。
レアは箱の中から、じっとダミエを見ていた。
「無理してるね」
「黙れ」
「怖いなあ」
レアは笑う。
けれど、その目はダミエの結界線を見ていた。
「でも、さっきより薄いよ。外側、ちょっとだけ呼吸してる」
サキの顔が強張る。
「呼吸?」
レアは箱の中で指を動かした。
「結界って、閉じてるように見えて、完全には閉じてないでしょ」
「光とか圧とか、ほんの少し出入りしてる」
「今の外箱は、その出入りが少し大きい」
ダミエが低く言う。
「お前には関係ない」
「あるよ」
レアは静かに答えた。
「私、その中にいるから」
ハレルは身体を起こした。
「ダミエ、交代はできないのか」
「できない」
ダミエは即答した。
「この箱は、私の結界を基準にしている。別の術師が触れば、内側が揺れる」
「でも、このままだと」
「分かっている」
その声は、いつもより少し強かった。
ハレルは言葉を止めた。
ダミエも、状況を分かっている。
分かった上で、今は自分が保つしかないと思っている。
ノノの声がイヤーカフから入る。
『ダミエ、外箱の数値、少し落ちてる』
『イデールに追加光具を頼む。それまで無理に締めすぎないで』
ダミエは短く答える。
「了解」
レアは箱の中で小さく笑った。
「みんな、次は駅全部と学園を戻したいんでしょ」
ハレルがレアを見る。
「そうだ」
「じゃあ、私を置いたままそれをやるんだ」
「何が言いたい」
レアは膝を抱えたまま、少しだけ首を傾げた。
「別に」
「ただ、箱の中からだと、見えないものもあるなって思っただけ」
サキはその言葉に、前の会話を思い出した。
戻る場所がない。
自分で選んでいるかもしれない。
箱の中にいるだけでは分からない。
サキは少し不安になった。
「レア」
「なに?」
「今、変なこと考えてないよね」
レアは一瞬だけ黙った。
そして、いつものように少し笑った。
「変なことって、どんなこと?」
その返しが、サキには少し怖かった。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/臨時分析拠点・朝】
ノノは、学園から送られてくる外箱の数値を見ていた。
赤ではない。
警告ではない。
だが、青でもない。
ぎりぎりの黄色。
「……持ってるけど、薄い」
セラが横から画面を見る。
「ダミエさんの負荷が大きすぎます」
「学園の固定点、レアの拘束、半界反転の余波。
全部が同じ結界に乗っている」
ノノは端末に指を走らせる。
「追加光具を回す。
でも、北西も余裕ないんだよね」
通信を開く。
「イデール、聞こえる?」
「学園のレア外箱が薄い」
「小型光具、回せる?」
少しノイズが入って、イデールの声が返った。
『回す』
『でも北西の予備を削ることになる』
「分かってる」
ノノは答える。
「最低限でいい。ダミエがかなり無理してる」
『本人は問題ないって?』
「言ってる」
イデールは即座に言った。
『じゃあ問題あるね』
ノノは苦く笑った。
「だよね」
『小型光具二つと結界杭一本を送る』
『ただし、学園側で受け取る術師を決めて』
『ダミエ本人に調整させないで。また負荷を抱え込む』
ノノは頷く。
「分かった」
「学園の先生たちと、リオにも手伝わせる」
セラが静かに言う。
「急いだ方がいいです」
「うん」
ノノは学園側へ通信を戻す。
「ハレル」
「追加光具が来る」
「でも、ダミエに全部触らせないで」
「外側の固定は分担する」
ハレルの返事がすぐに来た。
『分かった』
ノノは画面を見つめた。
駅を完全に戻すには、学園も安定させなければならない。
学園を安定させるには、レアの箱を保たなければならない。
レアの箱を保つには、ダミエの限界を超えさせてはいけない。
全部が繋がっている。
そして、どこか一つが緩めば、そこから影が入る。
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/薄い演算空間】
白い配置図の上で、駅周辺の中心だけが現実側へ固定されていた。
その外側には、まだ黒い揺らぎが残っている。
ロータリー中央。
石塔重複部。
駅舎外縁。
錆の残る金属導線。
そして、転移した学園。
パイソンは、その配置を静かに見ていた。
「人を戻した」
「場所を残した」
それは、彼らの成長だった。
同時に、隙でもある。
光が戻した場所には入りにくい。
名前で固定された人流中心は、今は固い。
ならば、使うべきはその外側。
残った場所。
諦めた場所。
まだ戻せていない場所。
パイソンの指が、学園の位置で止まった。
そこには、レアの箱がある。
ダミエの結界がある。
主鍵がある。
リオの副鍵もある。
そして、結界は少し薄くなっている。
「次の盤面は、そこですね」
その声には、焦りも怒りもない。
ただ、計算だけがあった。
黒い影が、学園の周囲へ細く伸びる。
◆ ◆ ◆
半分戻った世界には、喜びがあった。
だが、喜びのあとには、残った場所がはっきり見えた。
ロータリー中央。
駅舎外縁。
錆びた導線。
黒い影。
そして、まだ異世界にある学園。
戻った場所を守るには、戻らなかった場所を放置できない。
駅を完全に戻すには、ラストの錆を止めなければならない。
学園を戻すには、レアの箱を保たなければならない。
ハレルたちは、次の目標を見た。
現実側は、ラストへの反撃の必要を知った。
ノノたちは、学園の結界が限界に近いことを掴んだ。
そして、白い光の外側で、影錆はまだ静かに残っている。