小学生の頃、父の日本酒を水と間違えて口に含んだとき、あまりの不味さに咽せながら吐き出した。
あれを飲む権利が与えられるのが20歳になることなのだとしたら、私は大人になんてならなくてもいい。
そう思っていたかわいい時期が、私にもあった。
無事高校での教育実習過程が終わった。
期間はたったの2週間だったが、年下からの視線に耐える日々は、まあ精神に来るものだった。
それが一旦終わりを告げることへのささやかなお祝いとして、今夜は酒を買うことにする。
コンビニで今の気分に合った酒を厳選して、ビニール袋いっぱいに詰め込んだ。
帰り際、自動ドアから一歩踏み出したところで、私と彼は相対する。
「先生、ですよね。」
部屋着であろうラフな格好とそぐわぬ、汗ひとつかいていないサラサラな髪。
誰?というのが私から彼への第一印象だった。
先生と呼ばれるということは、私が教育実習に行っていた高校の生徒なのだろう。
しかし緊張していた上たった2週間の実習期間だ。生徒の顔なんて覚えていない。
酒の入ったビニール袋を覗き込んで、彼は笑った。
「へえ、授業ではお酒は体に悪いから、とか何とか言ってたのに、先生結構飲むんですね。」
残念ながらこんな私が保健教科担当だ。
酒を飲むくせに生徒の前では酒の害悪性を説いている。でも皆、そんなものだろうと思う。
化粧をしてはいけないと言うくせに口紅を塗りたくっている先生、遅刻するなと言うくせに授業に遅れてくる先生。
「未成年には体に悪いからダメだけど、私は成人してるから大丈夫なんだよ。」
と、言ってみる。
説得力のない言葉だ。この買った酒の本数からして、どう見ても酒に飲まれている大丈夫じゃない人だろう、と自分で思った。
「20歳になったら大丈夫って、皆言いますけど。お酒が飲めない19歳が、お酒が飲める20歳になるまでの間に、何か革新的な変化があるとは思えませんけどね。」
それには私も同感だ。19歳と20歳の間で人が劇的に変化出来るとは思えない。体の作りにもほぼ変わりはないだろう。それでも、19歳には酒を飲む権利は与えられず、20歳には与えられる。未成年と成人の明確な線引きは難しい。
成人したと思った人が役所に行って手続きをする、みたいな、自己申告制にすればいいのにと思う。
そういう制度が出来たら、私はずっと、責任が追いかけてこない未成年のままでいたい。
ああでも、それだとお酒が飲めないから、やっぱり私は申告に行くのだろう。
先生、と呼びかける声に、やっと私は遠くに飛んでいった意識を戻した。
「先生、ちょっとだけ僕と話していきませんか?」
「え?」
思いもしなかった提案に、私は間抜け面を晒した。
「近くに公園があるので、そこでいいですか?
僕お菓子買ってくるので、ちょっと待っていて下さい。」
Noを言わせる間もない速さで、彼はコンビニの中に入っていってしまった。
ええぇ…と、動揺の声が漏れる。
彼がお菓子を買っている間に逃げれば良いだけの話だったが、何故か私の足は「待て」をされた犬のように、一歩も動いてはくれなかった。
干し梅やビーフジャーキーなど、お菓子というよりおつまみを買ってきた彼と一緒に、公園のベンチに腰をかける。
20時の公園は、頼りない街灯の光で照らされていた。
「ゲームをしませんか?」
またしても彼は唐突だ。
「僕の名前を当てられたら先生の勝ちです。」
何回トライしてもいいですよ、と彼は微笑む。
「先生が勝ったら、もう家に帰っていいです。
負けたら負けた分だけお酒を飲んでください。」
「何その飲みゲー、無理強いする昭和の忘年会みたい。…やらないよ?」
「教え子の最後の頼みを聞いてくれないんですか?」
「あー、わかったわかった。」
ヤケクソになって思わず承諾してしまった。
とりあえず勘で当てにいこう。
「えーっと…。山田、くん?」
「擦りもしてないですね。はい、一口飲んで下さい。」
「ちょっと待って、本当にやるの?」
「約束は絶対ですよ。」
普通なら生徒の前で酒なんて飲まないだろう。しかし、生徒にだらしない姿を見せてはいけないという責任感が欠如していた私は、既にこの異質な状況に酔っていたのかもしれない。
空気が抜ける音と共に缶を開け、ええいままよ、と口元に運んだ。独特の苦味と辛味が舌と喉を刺激する。美味い。
「うわ…ほんとに飲んじゃった。」
「山田くんが飲めって言ったんじゃない。」
「山田じゃないです。」
「佐藤くん。」
「違いますね。」
「当てるの無理ゲー過ぎないかな?鈴木くん、高橋くん、田中くん、伊藤くん。」
「多い苗字順番に言っていけば当たるとでも思ってます?」
思わず吹き出して、それに彼もつられて、2人して子供のように笑った。
山田くん(仮)が差し出してくれたビーフジャーキーをひとかじりして、負けた分の酒を飲む。うん、美味い。
「僕、先生のことが気になってたんです。」
うん?と言ってから、言葉の意味を噛み砕いて、残りのビーフジャーキーを手からぽろりと落とした。
「年齢もさして変わらないくせに、一生懸命大人ぶっちゃって、頑張ってて可愛いなって。」
私は黙り込んだ。黙り込む以外に選択肢がない。
「でも、ろくに会話も出来ないまま、先生の実習期間が終わってしまって。
一度でいいから、話してみたかった。」
これ、生徒をたぶらかした罪とかで捕まるんじゃないか。涙が出そうになった。
いやいや、普通に考えて手を出した訳でもないのに捕まるはずがない。
酒のせいで既に思考能力が低下してきているようだ。
そんな私に彼は畳み掛ける。
「だから今日、会えて嬉しかったです。」
オーバーキルだ。くそ、私を見ていたずら気に微笑まないで欲しい。
彼の言葉に羞恥心やら何やらで掻き回されて、私の情緒はもうぐちゃぐちゃだった。
「結局、僕の勝ちでしたね。」
彼は満足そうに立ち上がった。
「門限があるのでそろそろ帰ります。」
ここで帰るか?と腹が立ちそうになった私を横目に、彼は微笑んで続けた。
「先生、どうかお元気で。」
彼は私と目を合わせたあと、踵を返して惜しげもなく歩いていく。
ゆっくりと遠ざかっていく彼の背中を呼び止めたい衝動に駆られたが、何を言えばいいのか分からなかった。
今日、正式に高校教師として学校に行った。
初日なのでどっと疲れた。疲れたから、酒を飲もう。
空気の抜ける音と共に缶を開けた。彼のいたずら気な笑顔を思い出す。
あの異質な夜から、一年ほど経っただろうか。
当たり前だが、彼としては、あれはただの遊びだったのだろう。
私自身に魅力を感じていたのではなく、年上の女という称号に彼は魅力を感じていたはずだ。
メアドも聞かれなければ、愛しそうに名前で呼ばれることすらなかった。終始彼はいたずら気なあの笑顔で私に微笑んだ。
彼は私という存在を忘れてしまうだろうが、私はきっともう、彼を忘れられない。酒と一緒に、あの夜の全てをこの身に流し込んでしまったからだ。
私だけが無意味な過去に振り回されるなんて、こんなのフェアじゃない。
ふと、酒が大好きだった父を思い出す。
平日は晩御飯の後に、休日は朝から、必ず飲んでいた父。まるで何かに取り憑かれているようだった。
いや、取り憑かれていたのかもしれない、と思った。過去の思い出に。
酒を飲む間は全てを忘れられると父は言っていた。
無意味な過去を振り払うため、父は酒を飲んでいたのではないか。
でも私はもう手遅れだなと思う。酒を飲む度に、私は名も知らぬ彼と過ごした最初で最後の時間を思い出してしまうだろう。
どうあがいても、私はかわいいあの頃には戻れないのだ。酒を不味いと思ったあの頃には。
それならば、ぼやけた輪郭でもいいから、彼が私を覚えていてくれることを願って
私は今日も酩酊する。
コメント
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久々ですね♪感動しました🥹
え、天才ですか……? フォロー失礼しますm(*_ _)m