テラーノベル
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僕の仕事は、ピアノの調律だ。
音を失った僕が、音を整える。矛盾しているようだけれど、指先に伝わる振動と、専用の測定器が示す数値だけを頼りに、僕はピアノの「狂い」を正していく。
かつての僕は、この耳だけで完璧な和音を作り出せた。けれど今の僕には、鍵盤を叩いた瞬間に指から腕へ伝わってくる、冷たい微振動しか残されていない。
「……あ、終わりましたか?」
依頼主の老婦人が、部屋に入ってくる。僕は無言で頭を下げ、手帳に『作業完了』と書いて見せた。
彼女が試しに弾いたショパンのノクターン。僕にはメロディは聞こえない。ただ、ピアノの蓋がわずかに震え、空気が揺れていることだけがわかる。
帰り際、彼女が僕の手にそっと温かい缶コーヒーを握らせた。
「あなたの調律したピアノは、なんだかとても、静かで優しい音がするわ」
僕は愛想笑いすら上手くできず、また短く会釈をしてその家を出た。
夕暮れの街を歩く。人々は喋り、笑い、クラクションを鳴らす。
喧騒に満ちた世界の中で、僕だけが深い水底を歩いているようだ。
アパートに帰り、またあのテープを手に取る。
調律師の意地だろうか。何度も聴き返したせいで、彼女の声がわずかに歪み始めているのがわかる。
それが、彼女の存在そのものが薄れていくようで、僕は恐ろしかった。
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