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第20話「夕立と傘と音の記憶」
ぽつ、と。
頬にひとしずく、落ちた。
空は、知らない間に暗くなっていた。
雲はまだ遠くにあるのに、音もなく、雨だけが先に降りてきた。
ナギは、薄く透けたグレーの傘をさした。
それは、ユキコが手渡してくれたもので、骨が少し歪んでいた。
透明な生地の端に、手描きの花の模様が描かれている。
だけどその花は、全部、逆さまを向いていた。
ナギのTシャツはもう少し色がくすみ、
髪も湿気で頬に張りついていた。
胸ポケットに入れた鉛筆が、知らないうちに芯だけになっていた。
「ユキコは?」
どこを見渡しても、姿がない。
でも、傘の中には、誰かの“声だけ”が残っていた。
《濡れた音って、ひとの記憶に残るんだよ》
水たまりの上を歩くたび、ナギの靴がやわらかい音を立てた。
それは現実の音というより、心の奥のどこかに届いてくる、昔きいた音に似ていた。
ふいに、風が吹いた。
傘が軽く持ち上がり、バランスをくずしたナギの肩が、木の枝に触れる。
そのとき──
「ぴ、ぴぃ……ぴいぃ……」
鳴き声だった。
けれど、それは鳥の声ではなく、ずっと遠い記憶のなかの音だった。
赤ちゃんの泣き声。
もしくは、テープが切れるときのような、ちぎれた音。
ナギは、胸のあたりをぎゅっと押さえた。
自分でも、理由がわからなかった。
ユキコは、傘をささずに立っていた。
真っ白なワンピースが、雨に透けて、
その奥に肌の輪郭が見えそうで見えない。
でも、その輪郭すらも、“いまだけ”の存在に見えた。
「ナギちゃん、その音、ずっと探してたんだよね」
「……なに、それ」
「さっき聞こえたでしょ? あの音、ナギちゃんがいちばん最初に忘れた音」
ナギは傘を閉じた。
雨が髪に、まぶたに、肩に、ぽつぽつと刺さってくる。
でも冷たくなかった。
その代わり、“音”がじわじわと染みこんでいく。
ふたりで、雨の中を歩いた。
足音だけが、遠ざかっていった。
やがて、音もなくなった。
雨がやんだのではなく、耳がその音に慣れてしまったのだ。
「ねえ、ナギちゃん」
「うん」
「今聞こえてる音も、いつか忘れるよ」
「でも、それでいいの。忘れても、また思い出せるから」
ユキコの声は、水の中で聞こえるみたいだった。
にじんで、ぼやけて、でもやさしくて。
ナギは、ただ、目を閉じた。
傘の音、雨の音、鳴き声、遠い記憶の木の枝の音──
ぜんぶ混ざって、ただひとつの“懐かしさ”に変わっていた。