狩野さんは、尊さんをからかうのが本当に好きなようだ。
そんなことを考えていると、突然狩野さんが大げさな身振りで俺に訴えかけてきた。
「うわーん尊が冷たいよ~助けて恋くん~」
言いながら狩野さんは、俺に子犬のような瞳で見つめてくる。
「えっ?えっと…!」
思わず固まってしまった。
どう対応したらいいのか困っていると、尊さんが動いた。
「人の男に絡むな下衆が」と言いながら、俺の肩を引き寄せ、自分の腕の中に閉じ込めるように抱き寄せてきた。
「た、尊さん、ここ電車ですから……!」
俺は慌てて小声で言う。
こんな混んでいる車内で、密着するのは恥ずかしすぎる。
「わかってる」
尊さんは、そう言って俺の耳元で囁いた。
彼の体温が、熱を持って俺に伝わってくる。
そんな俺たちを見て、狩野さんは狙ったように悪戯っぽく笑いを見せた。
(か、確信犯すぎる……!)
二人の様子に、俺はただ戸惑うしかなかった。
◆◇◆◇
その後
(あっ、そろそろ尊さんの降りる駅だ)
車内アナウンスが流れ始めると同時に
「じゃあ、恋、またあとで連絡する」
そう言って尊さんは立ち上がった。
俺も慌てて立ち上がり
「はいっ、今日は本当にありがとうございました!すごく楽しかったです!」と言って
いつもの癖か頭を軽く下げた。
お辞儀をするたびに、尊さんの視線を感じる。
「ああ、俺もだ」
優しく微笑んで、尊さんは俺の頭をポンポンと撫でてくれた。
その手つきは本当に優しくて、まるで幼い子どもを扱うようだ。
尊さんの優しさに釣られ、俺も自然と笑みがこぼれた。
(良かった……尊さんも楽しんでくれてて)
彼が楽しんでくれたのなら、俺も心底嬉しい。
そう素直に思えた。
しかし次の瞬間、突然真剣な眼差しになった尊さんは、狩野の方へ向き直る。
そして
「無いと思うが──」
一呼吸置いてから、尊さんはゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「こいつに変なこと吹き込んだり変なことしたら───」
狩野を真っ直ぐに睨みつけながら
「すぐわかるからな」
低く、鋭い声色で忠告する様子に、俺の背筋が思わずゾッとした。
これは、冗談ではない。尊さんの本気の威嚇だ。
「おお怖~い……」
狩野さんは肩をすくめながら、苦笑いする。
「てか信頼してって~、俺そんなチャラくないって分かるでしょー?」
尊さんは短く「ああ」と納得したように答えて背を向けると、ホームに降りて行った。
その足取りは、いつものように堂々としていて迷いがない。
その後ろ姿を、俺は窓越しに見送った。
尊さんの姿が完全にホームの向こうへ消えたのを確認すると、狩野さんは小声で呟いた。
「はぁ~相変わらず独占欲強いねぇ、てかやっぱ過保護じゃない?」
「そ、それだけ尊さんは俺のこと大事にしてくれてると思うので…!過保護でも嬉しいですよ、あはは」
「ふふっ、愛されてるわけだ」
電車がゆっくり走り出し、景色が流れ始める中
狩野さんはニヤリとしたあと、気が抜けたように真剣な顔で続けた。
その表情の変化に、俺は少し驚く。
「…そういや例のケーキ通り魔殺人事件、終息したっぽいね」
「あっはい!ニュースで見ました、本当に捕まって良かったですよね」
事件のことは、もちろん知っている。
連日報道されていた、恐ろしい事件だった。
「結構な凶悪犯だったし、尊も心底安心してるんじゃない?」
「はいっ、本当に心配してくれていたので…!俺も捕まって心底安心できましたし、尊さんも安心してくれたと思いますよ」
尊さんがこの事件について、どれほど神経質になっていたかを知っている。
彼の優しさ、責任感の強さが、俺の心に深く刻み込まれている。
「仕事関係でも、少し迷惑かけることになってしまったんですけど、やっぱり尊さん優しくて…危ないところで守ってくれたんです、それが本当にかっこよくて…」
気づけば俺は、尊さんのことを夢中になって話していた。
「ふっ、楽しそうに話すね」
「すっすみません!俺ってばつい…」
顔がまた熱くなるのを感じた。
自分の恋心を、こんなにも隠せないなんて。
「ははっ、尊が好きになるのも納得かな。恋くんのこととなると別人みたいだし?」
狩野さんの言葉に、俺は思わず首を傾げる。
「えっ、そんなに他の人と変わらないですって」
「いやいや恋くんに関しては超絶甘々だと思うよ~あの鉄仮面が崩れるなんてね」
鉄仮面。
確かに、尊さんは仕事中は隙を見せないけれど
俺に対してはあんなに優しい。
そのギャップが、俺はたまらなく好きなのだ。
「そういえば前にも狩野さん、気になること言ってましたよね?」
「ん?気になることって?」
「確か、あの…尊さんは本気になればなるほど壊れるタイプ…?って、言ってませんでしたっけ」
俺は恐る恐る尋ねてみた。
あの時の言葉が、ずっと頭の片隅に引っかかっていたからだ。
「あーね…」
狩野は少し考えるような素振りを見せたあと、再び口を開けた。
「その様子だと、尊から過去の話とかまだ聞いたことない感じか」
その目つきは、真剣そのものだ。
「え……あっはい…過去って…尊さんのですか?」
尊さんの過去。想像もしたことがなかった。
彼はいつも、完璧で揺るぎない存在に見えるから。
「そう。それで質問するけどさ、尊に噛みつかれたことある?」
「え?か、噛みつかれたことですか……?…凄く優しい甘噛みならあった気しますけど…」
俺は記憶を辿る。
甘い夜の時間に、尊さんは俺の体に歯を立てたことは一度だけあった気がする。
しかし、それは全然痛くなく、甘噛みというか…
俺を味わうときのフォークの側面を見せる尊さんは
いつもより、より一層壊れ物のように扱ってくれる。
だからあまり噛まれたという感覚も記憶も無い。
「やっぱりか~」
狩野さんは、何か納得したように頷いた。
「でもそんなことが尊さんの過去と関係してるんですか……?」
「まあ、ね。ああ見えて尊にも色々あってさ」
「それって一体なんなんですか…?」
「うーん…聞いといてなんだけど、こればっかは俺の口から話すと尊に怒られそうだからなぁ…はは…」
狩野さんは、困ったように頭を掻いた。
尊さんの怒りを買うほどのことなのか。
「そ、そんなにですか…、尊さんが話したくない過去ってことなんですかね…」
「ま、気になるなら本人に聞いてみたら?口割るかはわかんないけど」
「わ、わかりました。そうしてみます…!」
そう言うしかなかった。
尊さんのことなら、尊さんから直接聞くしかない。
◆◇◆◇
電車が俺の自宅最寄駅に到着し、扉が開く音とともに降車して改札口を目指す。
狩野さんは、俺と別れてすぐに夜の
(……尊さんにも、聞かない方がいいことってあるのかな)
『尊にも色々あってさ』
狩野さんの言葉が、脳内でリフレインする。
(色々って何だろう……過去ってどんなこと?)
改札口を抜けて、夜の静かな帰路を歩きながら
答えの出ない思考がグルグルと回り出す。
今日の最高の思い出に、影を落とすようなモヤモヤとした感情だ。
(でも確かに…尊さん、えっちしてても、全然俺に噛み付こうとしないし、なにか抑えるような素振りをするときもあった気がする…多分、だけど)
快感に溺れているはずなのに
時折、尊さんの表情に苦悶のようなものが浮かぶ瞬間があったような気がする。
それは、快感のせいだとばかり思っていたけれど。
(いやいや、深読みしすぎかな。そもそも狩野さんの冗談かもしれないし…でも……)
尊さんの心に土足で踏み込むような真似はしたくないが
でも、彼の過去が、彼自身を縛っているものだとしたら、どうにかして力になりたい。
とりあえず考えすぎは良くないと思い
機会があったら尊さんにさりげなく聞いてみよう、と今日のモヤモヤを心の中に片付けた。
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