翌日の昼休み───
今日の空は驚くほどの晴天だった。
まるで夏の始まりを思わせるような、深く澄んだ青。
空気まで洗われたように感じられる、まさしく絶好の屋外日和だ。
(それにしても気持ちのいい日だなあ……)
雲ひとつない青空の下で、優しく心地よい風がそよいでいる。
ビル風特有の冷たさはなく、頬を撫でる風が体温を少しだけ下げてくれるのが心地よい。
こんな日にオフィスの中に閉じこもっているのはもったいない。
「せっかくなら、会社の屋上で食べるか」という話になり、俺と尊さんはコンビニへ向かった。
俺が買ったのは、いつものツナマヨのおにぎりを2つと、冷たいペットボトルのミネラルウォーター。
対して尊さんは、具材がぎっしり詰まったサンドイッチと、苦味の強いブラックコーヒーを1つ。
尊さんらしいといったららしい、スマートで大人びたチョイスだ。
オフィスの屋上には、簡素なベンチがいくつか設置されている。
俺たちは、そのうちの一つに横に並んで座り
それぞれの袋を開けて昼食を取り始めた。
「それにしても今日の空、本当に綺麗な青ですよね」
俺がそう言って、手にしたおにぎりを食べるのも忘れて見上げると
隣の尊さんは小さく笑って頷いてくれた。
その横顔に射し込む日差しが、いつもより眩しく見える。
「だな。空気が美味い」
尊さんは、そう言いながら、サンドイッチのパンの端を綺麗に食べきり、一口コーヒーを流し込んだ。
そのまま暫く、俺たちは無言のまま食事を進める。
聞こえるのは、風の音と、時折遠くから聞こえる車の音だけ。
だけど、不思議と居心地の悪さはない。
むしろ、この穏やかな時間が、日々の仕事で張り詰めた心をそっと解してくれるようだ。
(こういう穏やかな時間もやっぱり好きだなぁ……尊さんと二人でいると、何も話さなくても心が落ち着く)
ふと、尊さんに視線を向けると、丁度尊さんもこちらを見つめていて目が合う。
途端に照れ臭くなって、俺は反射的に視線を逸らしてしまった。
顔が少し熱くなるのを感じる。
しかし、尊さんは特に気にした様子もなく
再びサンドイッチに齧りついた。
(なんか、いつものことなのに、慣れない…こういう些細な瞬間も幸せだって思えて…。ただ一緒にいるだけで、こんなに満たされるなんて)
そんなことを考えていたら、ふと、昨日飲み屋で交わした狩野さんの言葉が脳裏に過ぎった。
〝尊に噛みつかれたことある?〟
〝こればっかは俺の口から話すと尊に怒られそうだからなぁ…〟
「…………」
あの時の会話の意味が、いまいち掴めなかった。
ただの冗談にしては、狩野さんの目が真剣に見えた気がする。
もしかすると、尊さんには、俺の知らない秘密があるんだろうか……。
いや、尊さんと出会って付き合ってまだ数ヶ月だし
知らないことの方が多いのも事実かもしれない。
〝気になるなら本人に聞いてみたら?口割るかはわかんないけどね〟
…狩野さんはそう言ってたけど、今、この和やかな雰囲気で
「尊さんが俺に噛みつかない理由ってなにかあるんですか?」なんて聞くのもなんかな…
過去のことに触れるのは、失礼にあたらないだろうか。
どうしよう……。
答えが出ないまま、ミネラルウォーターを飲み干す。
そんなことを考えているうちに、スマホのアラームが鳴り響き、昼休みはあっけなく終わりを迎えてしまった。
「そろそろ戻るか」
尊さんが立ち上がり、俺も慌てて残りのおにぎりを口に詰め込んだ。
結局、何も聞けずじまいだ。
◆◇◆◇
その後、会社での仕事をこなし、無事に定時を迎えた。
(あぁ、疲れた……)
オフィスビルを出た後は、いつものように二人で駅に向かって歩き出す。
夕暮れのオレンジ色が、アスファルトに長く影を落としていた。
(結局、昼に尊さんに聞けなかった……聞くって言っても、過去のことを?どう聞いたらいいのか、なんて切り出したらいいのかわかんないし……!)
「噛みつき」なんていう物騒な単語に、妙に引っかかりを覚えながら、歩幅を合わせるように隣を歩く。
そんな風に色々と頭の中で思考を巡らせていたら、隣を歩いていた尊さんが急に立ち止まった。
「?どうしました?」
俺もつられて足を止め、尊さんを見上げる。
「ちょっと飲み物買ってくる……いや、恋も来い」
「え?」
次の瞬間、考える間もなく、尊さんは俺の手首を掴むと
近くにあったコンビニの自動ドアを押し開け、店内へと入っていく。
「たっ、尊さん!手……痛いです」
「わ、悪い」
俺が思わず声を上げると、尊さんはパッと手を離してくれたが
掴まれた手首にじんわりと熱が残った。
それにしても、なにかいつもと様子がおかしい。
焦っているような、少し落ち着かない雰囲気だ。
「あの、大丈夫ですか……?そんなに急いで」
「ああ、すまん。コーヒーが買いたかっただけだ。売り切れているかと思ったら、つい、な」
尊さんはそう言って、缶コーヒーの並ぶ棚の方へ視線を向けた。
「そ、そうですか……?ならいいんですけど」
(尊さん……どうしたんだろう?仕事のストレスかなにかかな……それとも、体調が悪いとか?)
心配が募るが、これ以上聞くのは余計なお世話かと思い、言葉を飲み込む。
◆◇◆◇
数分後
コンビニを出たあとはすぐに駅に向かった。
数十分電車に揺られ、あっという間に尊さんの下車する駅に到着した。
自動ドアが開くと、尊さんはいつものように俺の方を向いてくれた。
「それじゃあ、恋も気をつけて帰れよ」
「はい、尊さんも──」
俺はそう返事をしながら、尊さんの顔を見る。
普段は颯爽としている尊さんの足取りが、いつもより少し重いように見える。
歩幅もわずかに狭く、何か深く考え込んでいるのか
こっちを向いているのに目線が定まっていない。
焦点が合っていないようで、どこか遠くを見ているようで—
(なんだか……元気がないように見える)
俺がじっと見つめていると、尊さんが先に気づいた。
「どうした、そんなジロジロ見て」
尊さんの声には、普段の張りがない。
少し掠れているようにも聞こえる。
「あ、いえ……なんでもないです!」
言葉に詰まってしまった。本当は「どうしたんですか?」と理由を聞きたいけれど
踏み込む勇気が出ない。
もし、デリケートな問題だったら。
再び、狩野さんの言葉が頭をよぎる。
過去の秘密。
噛みつき。
(もし……俺が触れてはいけないことだったら……?もし、俺の不用意な一言で、尊さんを傷つけてしまったら…)
「恋?」
名前を呼ぶ、心配そうな尊さんの声に我に返る。
尊さんの、心底から心配しているような優しい瞳と目が合った。
その瞳を見たら、聞きたい衝動が湧き上がるが
やはり言葉が出てこない。
「あの……」
喉元まで出かかった問いを飲み込み
代わりに、精一杯の笑顔を作った。
「明日も、一緒に帰りましょうね」
それは、現状を維持したい
明日も尊さんと笑って話したい、という俺の精一杯の願いだった。
「?…ああ」
尊さんは不思議そうな顔をしたものの、微かに頷いてくれた。
「じゃあな」
軽く手を上げて、ホームの人混みへ消えていくその背中を見送りながら、俺は胸の内で繰り返した。
(今度にしよう……今度、話せるときに、改めて聞いてみよう……)
今日はもう遅い。こういうのは焦ってはいけない。
◆◇◆◇
家に帰ると、玄関で靴を脱ぐなりどっと疲れが押し寄せてきた。
(今日はいつも以上に疲れたな……)
リビングのソファに沈み込むように座り込み、深く、大きな溜め息をつく。
(結局なにも聞けなかったな……尊さん、明らかに様子が変だったけど、俺に話すほどのことじゃなかったってだけかな。それならそれでいいんだけど……)
天井を見上げてぼんやりしているうちに、心身の疲労が限界に達し、急速に瞼が重たくなっていく。
そのままずるずると、俺は深い眠りに落ちていった。
コメント
1件
尊さんが様子違うのも気になるし、それと噛みつきの件も気になる( > < )