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「気をつけてください!」
朝からお気に入りのスカートに醤油の染みをつけてしまい、染み抜きしていたら朝ご飯を食べ損ね、憂鬱な気分と空腹で泣きそうになりながら地下通路を歩いていた私は、なぜか始業時間五分前にもかかわらず、見ず知らずの男性に詰め寄っていた。
もちろん、男性は身体を引き気味で、目をパチクリしている。
本当は冷静に話した方がいいのだろうけれど、私にはその時間はない。
「私、霊感があるんです!」
同じ『カン』でも、『勘』よりは信じてもらえそうだと思った。
「今日のあなた、運勢最悪です!」
これでは、占い師だ。
だが、そんなことはどうでもいい。
「とにかく気をつけてください! 車とか自転車とか電車とか。火事とか強盗とか転落とか。とにかく、今日は細心の注意を払って生き延びてください!!」
「は……あ……?」
当然だが、男性は信じていないどころか、不信がっている。
よく見ると、とてもイケメンだ。
ハリネズミのハリが立っていない時のような、きちんとしていそうで遊び心のある髪型に、シャープな顔立ち、キリッとした眉と目。
身長も高い。
艶のあるスーツは高級そうだ。
そんな、私の中で最上級の男性に、こんなことを告げなければならないのが心苦しい。
だが、まじまじと観賞している時間も、言葉に配慮している時間もない。
「し、死相が出ています!!」
だから、これは占い師だ。
あると言った霊感はどこへ行ってしまったのか。
「死相!?」と、言った男性の声は私好みの低音ボイス。
彼にしてみたら、朝の忙しい時間に髪を振り乱したぽっちゃり女の霊感やら占いやらに付き合わされて、まさに運勢最悪だろう。
だが、何も言わずに通り過ぎるには、彼に感じる『嫌な勘』が強すぎる。
せめて、このイケメンさんが、今日を生き抜いてくれればと願う。
「では、幸運をお祈りいたします!」
私はそう言って、目の前の階段を駆け上がって、地上に出た。
私の、朝ご飯抜きの全速力も虚しく、タイムカードの打刻は九時八分だった。
私は課長に寝坊したと謝罪し、気をつけるようにと指導を受け、九時十五分に仕事を始めた。
私は、株式会社奥山《おくやま》商事の人事部二課に所属している。
奥山商事は北海道を拠点に、ファミレス『Excellent《エクセラン》』やコンビニ『HARU《ハル》マート』事業を展開している。
私の所属する人事部には課が二つあり、一課は人事採用や異動、評価を決定し、二課はそれに伴う手続きを行う。
入社時、退職時の社会保険や雇用保険、福利厚生関係の事務手続きだ。
道内外含め、ファミレスで三十店舗、コンビニで五十八店舗を運営しているから、毎日誰かが雇われ、毎日誰かが辞めている。
私の一日の始まりは、メールのチェック。
手続き依頼のメールと添付ファイルを印刷し、不足情報や書類がないかを確認し、不備がなければ手続きに進み、不備があればその旨をメールで知らせる。
手続きは電子で行うから大した手間はないが、従業員簿への入力や、従業員への入社又は退職時に関する資料の送付なんかもあるから、毎日それなりに忙しい。
六月末の現在は、三月から四月の退職と入社手続きも終え、ひと段落したところだ。と言いたいところだが、意外にも、四月に入社して六月頃に退職する人は多い。
正社員にしろパートやアルバイトにしろ、三か月ほどで辞める人が一定数いることから、私の仕事も多い。
人事二課には、五十代前半の男性課長、三十代後半の男性主任の他に、三名が所属しており、この三名で実務を行っている。
「今日の入社は五名、退職が八名。手続き完了が十二件」
私の三年先輩である西尾《にしお》さんが印刷した書類を挟んだクリアファイルを数えた。
本当は、メールの件数は倍ほどあったのだが、マイナンバーが不足していたり、履歴書の字が読めなかったりして、保留となった。
ここまでで、十時三分前。
「しっかし、何回言っても不足が減らないですね」
そう言ったのは、私の二年後輩の寺田《てらだ》くん。
「手続きに必要なものは伝えているだろうけど、提出されたもののチェックはしてないんだろうからね」と、私が言った。
「さて、じゃ、誰が何をやる?」と、西尾さんがファイルをトランプのように扇形に広げた。
「俺、今日は入社で! 昨日は面倒臭い離職票でひどい目に遭いましたから」
「はいはい。じゃ、寺田くんは入社五名ね」
「はーい」
西尾さんが寺田くんに、入社のファイルを渡す。
「乾《いぬい》さん、退職お願いしていい?」
「はい」
「よろしく」
私は西尾さんからファイルを受け取ると、経理部の給与計算ソフトにログインし、退職者の給与明細と出勤簿を印刷する。
給与計算ソフトにログインするにはIDとパスワードが必要なのだが、我が人事二課に与えられているのは一つだけ。同じIDで同時に複数台からのログインは出来ない。
退職者が多い時は、この印刷だけでかなり時間がかかってしまう。
私は退職者の所属店舗と氏名を入力し、退職手続きに必要な分の給与明細と出勤簿を印刷していく。
退職後に失業保険の申請のために必要な離職票を作成するためだ。
退職日から遡って六カ月分の給与額や一年分の出勤日数が必要で、それも一定の勤務日数に満たない月は除外しなければならないなどの規定があるので、全員が六か月分の給与明細と一年分の出勤簿でいいわけではない。