「西尾さん」
「ん?」
言ってから、今じゃなくても、と思った。
「あ、いえ」
「どうしたの?」と、わざわざ私の背後までやって来た。
「すみません。この、Excellent《エクセ》O駅前店が気になって……」と、手元のファイルを見せる。
「ああ、そこね。私も気になったの。毎週のように退職者がいるわよね」
「O駅? 毎週どころか、昨日の面倒な離職票がそこですよ!」と、寺田くんがこちらに顔を向けた。
「去年の新卒採用なのに、失業保険の受給資格がギリギリで。休みと遅刻早退がやたら多くて、数えるのに苦労しました」
「処理が終わったら、ちょっと見てみようか」
「そうですね」
「はい!」
今日くらいの件数であれば、通常は午前中に終わる。
が、今日はやたらと電話が鳴り、その対応をしていたら、処理終了後の記録簿を入力し終えたのは午後二時三十三分だった。
それから、至急のメールを確認する。
基本は前日に届いたメールの処理だけなのだが、稀にどうしても今日中に処理して欲しいと言うメールが届く。
店長、副店長が処理依頼のメールをし忘れていて、退職した従業員が次の職場で保険をかけられないと連絡してきた場合や、早く失業保険を貰う手続きをしたいと急かされた場合など。
今日は至急メールはなし。
私たち三人はそれぞれ飲み物を片手に、寺田くんが印刷してくれたO駅前店の人事記録簿を眺めた。
「やっぱり、ちょっと異常じゃない? この出入り」
「ですよねぇ。在籍している従業員でも、欠勤や遅刻早退が増えてます。てか、前からこんなんでした?」
「ううん。ここ一年? 去年から?」
「店長代わってから?」
「店長? 誰でしたっけ?」
「閉店したY町店の店長じゃなかった?」
「ああ……」
思ったことを言い合ったのち、三人が同時に口を閉じた。
Y町店は、高齢化が進み、町内にあった唯一の高校が隣のO市の高校と統合され、それに伴ってバスの運行本数も減少し、集客率がガタ落ちになって閉店した。
そのY町店の店長は、昨年春の異動でO駅前店の店長となっていた。
長く田舎町の店で地域に根付いた接客をしてきた店長は、とにかく人柄がよく、事務仕事は副店長に丸投げで、朝から晩まで店に立っている人だった。だから、Y町店では雇用するアルバイトが極端に少なく、そのお陰でY町店は何度も閉店候補に上がりながらも免れてきた。
平日のランチは、店長一人でフロアを回していたとも聞く。
売り上げが少なくても、人件費も少なければ利益率は悪くなかったのだ。
そんな店長が理由で従業員の欠勤や退職が続くだろうか。
「てことは、副店?」
「かなぁ……」
「主任に報告しとくかぁ……」と、西尾さんがため息交じりに言った。
「大丈夫ですかね……」と、寺田くんも口元に引きつった笑みを浮かべる。
権田《ごんだ》主任は、つい三か月前に春の人事で函館支部からやって来た人で、この異動にかなりのご不満があるらしい。
函館支部では、エリアマネージャーとして店舗の管理をしていたらしいのだが、必要以上に店舗の運営に口出しし、店長たちからの苦情が相次ぎ、内勤業務に回されたらしい。
元々、店舗スタッフとしてアルバイトから正社員となった人で、現場が大好きらしく、私たちのように一日中パソコンと睨めっこは性に合わないらしい。
決して悪い人ではないのだが、エリアマネージャーか店舗スタッフに戻れる機会を求めていて、異動早々にある店舗内でいじめがあると聞いた彼は、何の権限もないままその店舗に乗り込み、説教を始めたのだ。
で、自分も説教される羽目になった。
「主任を差し置いて課長に報告もマズいでしょ」
「けど、主任のことだから、課長に上げる前にO駅前店に乗り込みそうじゃないです?」
「まさか……ねぇ?」と、西尾さんが私を見る。
ありそう……。
「朝礼かミーティングで二人揃ってる時に言いますか」
「そうね」
三人同時に飲み物に口をつけた時、電話が鳴った。
「はい。本社人事二課、乾です」
「あ」
お決まりの文句で電話に出た時、寺田くんが短く、けれどハッキリと声を発した。
『北〇条店です! すみませんが、今送ったメールの件、至急でお願いします!』
私より少し若いくらいの男性の声。
顔を上げると、寺田くんがやれやれと言った表情をしていた。ほどなく、プリンターが唸り出す。
電話の相手が言った『メールの件』をプリントアウトしてくれたのだろう。
「わかりました」
『こんな時間にすみません! よろしくお願いします!!』
受話器を置くと、既に内容を確認していた西尾さんが給与明細の印刷を始めていた。
「離職ですよね」
「そ。今週中に離職票が欲しいんだって」
「今週中って、今日木曜日ですよ!?」
私はディスプレイに表示されている時刻を見る。
午後二時五十八分。
「ほい。じゃーんけーん――」
当然のように西尾さんが右手を上げた。
私と寺田くんも手を上げる。
「――ぽん!」
三人が一斉に手の形を変えた。
「やった! 俺、今日は明日の合コンに備えて、新しいシャツを買いに行こうと思ってたんですよ」と、寺田くんが割とどうでもいい用事を嬉しそうに話す。
対して私は、肩を落とす。
西尾さんと寺田くんがチョキ、私がパー。
「てことで、乾さんよろしくね」
「はーーーい」
今日はついていない。
スカートの染み……ちゃんと落ちたかなぁ。
乾かして確認する時間まではなかった。
せめて、朝ご飯を食べ損ねた成果があって欲しいと願うばかりだった。
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