テラーノベル
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おまる
「……ええ、わかったわ。楽しんできて」
土曜日の朝
高瀬くんは、大学時代の友人たちの結婚祝いに顔を出すため、珍しく朝から出かける準備をしていた。
いつもなら一緒に朝食を摂る時間だが
今日は彼がスーツを纏い、鏡の前でネクタイを整えている。
「すみません、凛さん。夕方には戻りますから。…あ、お昼は冷蔵庫にパスタソース作っておいたので、温めて食べてくださいね」
「大丈夫よ、子供じゃないんだから。……行ってらっしゃい」
私は努めて冷静に、いつもの「佐藤課長」らしい落ち着きで彼を送り出した。
玄関のドアが閉まる音。
途端に、広いリビングが驚くほど静まり返る。
(……静かすぎるわね)
数週間前までは、これが当たり前だったはずなのに。
私は一人、ソファに座ってテレビをつけてみるが、内容が全く頭に入ってこない。
コーヒーを淹れても、彼が淹れてくれるものよりどこか苦く感じてしまう。
ふと、本棚に目を向けると、先日買ったTL漫画が並んでいた。
『純情なのは顔だけ。~ケダモノな絶倫後輩に、身も心も暴かれて〜』
表紙の黒髪の後輩キャラを見て、反射的にさっきの彼のスーツ姿を思い出す。
(……だめだわ。何をしても、あの子が頭から離れない)
昼過ぎ、彼から
『今、二次会に拉致されそうです…凛さんに会いたい……』
と、少し情けないワンコのスタンプ付きで連絡が来た。
それを見た瞬間、胸の奥がキュンと鳴り、私は無意識にスマートフォンの画面を指でなぞっていた。
「……私も、会いたいわよ。バカ」
口に出すと、急に寂しさが現実味を帯びて迫ってくる。
宏太の時は、彼がいない時間は「安らぎ」だった。
嵐が去った後の静寂に感謝していた。
でも今は、高瀬くんがいない時間は「欠落」でしかない。
(私、本当にもう、あの子がいないとダメになってるんだ……)
夕暮れ時
カチャリ、と鍵の開く音が響いた。
私は弾かれたように立ち上がり、玄関へと駆け出す。
「ただいま戻りました! …うわっ、凛さん!?」
ドアを開けたばかりの高瀬くんの胸に、私は考えるより先に飛び込んでいた。
お酒の匂いと、外の空気の冷たさ。
そして、何よりも安心する、大好きな彼の体温。
「…遅いわよ、高瀬くん」
「……すみません。…でも、そんなに寂しがってくれてたなんて。……俺、もう一生家から出たくなくなっちゃいますよ」
彼は苦笑しながらも、私の背中に腕を回し、力強く抱きしめ返してくれた。
自分の「重さ」に自己嫌悪しつつも
彼の腕の中でしか得られない充足感に、私はただ深く、深く溺れていくしかなかった。
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