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あの日、自らの手の中で愛おしい命の雛形を砕き、その残骸が冷たい床に散らばる様を見届けて以来、太宰の心は完全に壊れ、凪いでいた。中也が部屋を訪れても、もはや泣き喚くことも、縋り付くこともしない。ただ、虚ろな瞳で天井を眺め、胎内へ注ぎ込まれる琥珀色の薬液を、まるで天からの恵みであるかのように無抵抗に受け入れるだけの人形と化した。
中也はその様子を眺めながら、管理室で分厚い記録帳を捲っていた。そこには、彼がこの仕事に就いてから世話をしてきた数え切れないほどの「太宰」の記録が、詳細な数値と共に記されている。産卵数、卵の品質、精神状態の推移、そして最終的な出荷記録。
「……こんな個体は、初めてだな」
中也は煙草を燻らせながら、独り言を漏らした。
これまでの数十年、彼は何十、何百という太宰を育ててきた。ある者は最後まで反抗し、ある者は早くに発狂し、ある者は静かに肉となっていった。だが、これほどまでに執拗に「自分の子供」に固執し、あろうことか監視の目を盗んで自ら孵化を試みようとした個体は、過去の膨大な記録のどこを探しても見当たらない。
中也は、自身の若々しい手の甲を見つめた。
鏡に映る自分は、今も十五歳から三十歳の間を行き来する、最も血気盛んで、かつ冷静な判断ができる肉体のままである。だが、その内実がどれほどの星霜を重ねてきたのか、もう彼自身にも正確な計算はできていなかった。太宰を慈しみ、太宰を壊し、太宰を喰らう。その円環を何百回、何千回と繰り返してきた彼の精神は、とっくの昔に人間としての倫理を脱ぎ捨て、このシステムの歯車として完成されていた。
「……普通なら、あそこで完全に廃人になるはずなんだがよ」
中也は、監視画面の中で、自分の血で汚れた指先を愛おしそうに舐める太宰の姿を見つめた。
あの日、砕け散った未完成の命。その粘液と血の匂いを、彼女は今もなお、自分の肌の一部であるかのように大切に纏っている。中也は、彼女が絶望のあまり死を選ぶのではないかと危惧していたが、事実は逆であった。彼女は、あの日散らばった「子供の死」を糧にして、より一層、中也という飼い主への、そして「次なる産卵」への、狂信的なまでの執着を強めていたのである。
中也にとって、太宰はもはや一人の人間ではない。それは、定期的に交換され、調整されるべき高度な精密機械に近い。不具合が出れば修理し、寿命が来れば廃棄し、また新しい部品を孵化させる。その単純な作業の繰り返し。しかし、この個体が見せる予想外の挙動は、摩耗しきった中也の心に、忘れかけていた奇妙な興味を抱かせていた。
(……俺は、一体いつから、こうしてこいつを眺めているんだったか)
中也は、ふと、自分が初めてこの仕事に就いた日のことを思い出そうとした。
まだ、自分の手が血の匂いに敏感だった頃。まだ、太宰の絶叫を耳にするたびに、夜の静寂が怖かった頃。だが、それらの記憶は、何層にも塗り重ねられた「産卵」と「解体」の記録の下に埋もれ、今では霞のようにぼやけている。
今の彼にあるのは、ただ、目の前の個体をいかに効率よく、いかに高品質に「仕上げるか」という職人的な関心のみである。
彼は、三十歳という円熟の極致にある肉体のまま、冷徹な思考で太宰の次の投薬スケジュールを組んでいく。彼女がどれほど壊れようとも、どれほど狂おうとも、その胎内が黄金の卵を産み出し続ける限り、中也は彼女の「唯一の神」であり続けなければならない。
中也は、監視画面に向かって短くなった煙草を押し付けた。
画面の中の太宰は、ふとカメラの存在に気づいたかのように、薄ら笑いを浮かべてこちらを見つめていた。その瞳は、あの日床にぶちまけられた「赤ん坊」の血と同じ色に濁っているように見えた。
「……面白いじゃねぇか。どこまで壊れるか、最後まで見届けてやるよ」
中也は冷たく微笑み、再び白い廊下へと歩み出した。
十五年という永劫の時間をループし続ける男と、十日で成体となり数ヶ月で肉となる女。
その歪な共依存が、また一歩、破滅的な完成へと近づいていた。
彼が次に扉を開けるとき、太宰はどんな「おねだり」をしてくるだろうか。
また新しい命を宿したいと泣くのか、それとも、自分を今すぐ食べてくれと笑うのか。
どちらにせよ、中也はそれを優しく受け入れ、そして無慈悲に裏切り続けるのだ。それが、この白い檻の中で彼に与えられた、唯一にして永遠の役割なのだから。
(続く)
次回、第九話。その個体についに訪れる「潮時」。肉工場への出荷と、中也による「晩餐」を描く、破滅の幕間へと続きます。