テラーノベル
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創業一周年の打ち上げは、仁人が予約した、駅前の小さな居酒屋だった。
四月の夜。カウンターと小上がりが二つ。三人でいちばん奥の小上がりに座った。
「一年、持ったな」
仁人が、ウーロン茶のグラスを掲げた。この男は、酒にあまり強くない。
「持ったな」舜が、ビールを掲げた。「奇跡や」
「奇跡じゃない。計画だ」
「計画通り、奇跡が起きたんや」
柔太朗は、二人のやり取りを聞きながら、日本酒を一口飲んだ。ぬるくもなく、熱くもなく。ちょうどいい温度だった。
会社はまだ小さい。けれど、社員は二十人になった。アトリエの作業台は二つ。初めて黒字の月が出た。
仁人が、その数字を嬉しそうに話した。柔太朗には半分も分からなかった。けれど、仁人の目が少しきらきらしていた。それだけで十分だった。
隣で、舜太が柔太朗の右手を、ちらちら見ていた。
中指の、細い銀の指輪。去年の春にはめてくれたもの。
「……なんか、あった?」
柔太朗が、聞いた。
「いや」
舜太は、慌ててビールを飲んだ。
仁人が、二人を交互に見て、少し眉を寄せた。それから静かに立ち上がった。
「俺は、先に帰る」
「え、もう? まだ九時やで」
「明日、銀行に朝一で行く。お前らはゆっくり飲め」
仁人は、財布から札を出してテーブルに置いた。
「多すぎる」
「釣りは、次に回してくれ」
仁人は、それだけ言って店を出ていった。去り際に、ちらりとこちらを見た。いつもの、少し心配そうな目だった。
二人だけになった。
急に静かになった気がした。舜太は、ビールを半分残して動かなかった。
「……アトリエ、寄ってええか」
「今から?」
「柔の新作、見たいねん。今日、締切やったやろ」
言い訳だと分かった。締切は来週だった。
「いいよ」
柔太朗は、そう答えた。
店を出ると、春の夜の少し湿った風が、頬を撫でた。
会社のビルまで歩いて十分。二人は並んで歩いた。距離は拳ひとつ分。学生の頃から、ずっと変わらない距離。
けれど、今夜は、その拳ひとつ分がやけに意識された。
二階のアトリエの扉を開ける。灯りは点けなかった。作業台のスタンドライトだけを点ける。小さな光の円が、机の上に浮かんだ。
「新作はこれ」
柔太朗は、台の上の図面を見せた。舜太は覗き込んだ。頬が近かった。アルコールの匂いと、舜太の少し甘い汗の匂い。
「……ええな」
舜太は図面を見ていなかった。
「舜」
「ん」
「見てないでしょ」
舜太は一瞬固まった。それから苦笑した。
「……ばれとる」
舜は、机の引き出しを、勝手に開けた。
「何してるの」
「リングゲージ。あるやろ、ここに」
あわ
217
晴水 菜乃花
116
リングゲージ。指輪のサイズを測る輪の道具。号数ごとに、銀の輪が束ねられている。
「柔の指輪、緩なっとらん? 最近、痩せたやろ」
「……痩せてないよ」
「測ったる」
舜太は、柔太朗の右手を取った。
指先が、少し冷たかった。緊張しているのだ。この人は、緊張すると指が冷たくなる。柔太朗は、それを知っている。
舜太は、中指の指輪をそっと抜いた。指輪が、指から離れる感触がやけに生々しかった。
裸になった、中指。
舜太は、その指にゲージの輪を通した。少しずつ、大きくして。
「……十二号」
「うん。知ってる」
「知っとった?」
「僕の指のサイズは、僕が、いちばんよく知ってる」
柔太朗は、静かに言った。
「あの指輪も、十二号」
「……せやな」
測る必要はなかった。知っていて測った。
ゲージの輪を外しても、手を離さなかった。
親指が、中指の付け根をなぞる。指の関節。手の甲。手首の内側の脈の上。
ゆっくりと。確かめるように。
「舜」
「……ん」
「測ってないよね、もう」
「……ああ」
舜太の声が、掠れていた。
「柔」
「うん」
「触ってええか」
聞かれて、柔太朗は少し笑った。
「もう、触ってるよ」
目が見開かれた。それから、顔が真っ赤になった。
「……せやな」
「うん」
「せやけど」
柔太朗の手首を握ったまま、言った。
「ちゃんと、聞かなあかん気がして」
この人はこういう人だ、と思った。底抜けに明るくて、人懐こくて、距離が近い。それなのに、大切なところでは、いつもちゃんと聞く。
だから、好きなのだ。
柔太朗は、自分から、一歩近づいた。
「いいよ」
「……ほんまに」
「うん」
舜太の手が、柔太朗の頬に触れた。温かかった。指が、少し震えている。
顔が、近づく。呼吸が、混じる。
唇が、触れた。
短く。確かめるように。
離れて、また、触れた。今度は、少し、長く。ビールの匂いと、少し震える息。柔太朗の手が、舜太のシャツの胸に、触れた。心臓の音が、掌に伝わってきた。速かった。
自分の心臓も、同じくらい、速かった。
「……柔」
「うん」
「好きや」
小さな声だった。
「ずっと、好きやった」
柔太朗は、目を閉じた。
「知ってた」
「ええ?」
「舜の顔、分かりやすいから」
舜太が笑った。額が、こつんと触れた。
「……僕も」
柔太朗は、言った。
「僕も、好き」
言った瞬間、胸の奥で、何かが、静かにほどけた。
舜が、アトリエの扉のほうへ歩いた。
かちり、と、鍵をかける音がした。
その音が、少しだけ大きく聞こえた。誰にも見せたくない、と、その音は言っているようだった。柔太朗は、それを少し可笑しく思った。それから、悪くないと思った。
舜太が戻ってきた。
手が、柔太朗の首筋に触れた。首筋から、襟元へ。シャツのいちばん上のボタンに、指がかかった。
指は、震えていた。
「……ええか」
「うん」
作業台のスタンドライトの光が、二人の影を壁に映していた。
柔太朗は、目を閉じた。首筋に、唇が触れた。
スタンドライトが、消えた。
窓から、朝の光が差していた。
柔太朗は、アトリエの隅の古いソファの上で、目を覚ました。仮眠用の擦り切れたソファ。体には、上着が掛けられていた。
隣で、舜太が寝ていた。
長い手足を、窮屈そうに折り曲げて。腕が、柔太朗の腰に回っている。寝顔は、いつもより幼かった。口が、少し開いている。
柔太朗は、しばらくその顔を見ていた。
右手を持ち上げる。中指に指輪はなかった。昨夜、抜かれたまま、作業台の上に置かれている。
代わりに、舜太の指が絡んでいた。
ふと、思い出した。仁人の去り際の目。いつもの、少し心配そうな目。
あの人は、きっと気づいていたのだ。この一年、ずっと。二人の間の空気に。
柔太朗は、静かに決めた。
仁ちゃんには、僕から言う。
舜太に任せたら、きっと、あの人懐こい調子で、勢いで言ってしまう。それも悪くない。けれど、仁人には、ちゃんと伝えたかった。友人として、初めに自分の言葉で。
「……柔」
寝ぼけた声がした。
舜太が、薄く目を開けていた。
「おはよう」
「……おはよう」
舜太は少しぼんやりしてから、はっとしたように、目を見開いた。
「夢、ちゃう」
「うん。夢じゃない」
舜太の顔が、ゆっくり、赤くなった。それから、ふにゃ、と笑った。
「……あかん。顔、にやける」
「知ってる。もう、にやけてる」
「そうなんやけど」
舜太は、柔太朗の指輪のない手を取った。作業台から指輪を取って、そっと、中指にはめ直した。
「……舜」
「なに」
「仁ちゃんには、僕から言うから」
「え、なんで」
「なんとなく」
柔太朗は笑った。
「いちばんに、僕の口から言いたいんだ」
舜太は、少し目を見開いて、それから頷いた。
「……分かった。任せる」
窓の外で、春の朝が、白く明るくなっていく。
二人の、最初の朝だった。
指輪を外す、ソファで目が覚めるって、大人だよねって話。
本編があれがあれで、もっとギスギスしていくもんで、side storyでめいっぱいの甘さを。
コメント
1件
あー、読んだ読んだ! めちゃくちゃ良かった…「測る必要はなかった」ってシーン、分かってて触れてる感じがたまらんかったわ。指輪を外す所作とか、裸になった中指の描写が妙に生々しくてドキドキした。それでいて朝、またはめ直す優しさがずるい。仁ちゃんのさりげない気遣いも含めて、この距離感が絶妙だった。甘さ全開で最高です🔥