『迷ったら、少しだけ険しい道を進め』それが亡くなったおやじの教えだった。
正直おやじとの思い出は多くないが、楽をしようとするな、ずるいことはするなと育てられた。
だからだろうか、中学卒業の時にも鈴木の家から高校に通うことは考えず1人で暮らすことを選択した。
もちろん社長もおばさんも大反対で説得に苦労はしたが、それが俺なりの決断だった。
今まで31年生きてきた自分の人生に全く悔いがないとは言わない。
それなりに失敗もしてきたし、思い出したくないような恥ずかしい過去もなくはない。
それでも、自分に恥じることなく生きてきたつもりだ。
それが・・・
生まれて初めて、俺は逃出した。
「香山さん、処置が終わりましたのでどうぞ」
病室のドアが開き、看護師が顔を覗かせる。
「はい」
俺は立ち上がって病室へと入って行く。
優しい朝日に照らされてベットの上で目を閉じている乃恵。
点滴も差し替え、病衣の替えてもらってさっぱりしたように見えるが、横になったまま動かない。
「お疲れがでませんか?」
たまたま昨日の夜勤は病棟の師長だったらしく、入院以来泊まり込んでいる俺に声をかけてくれる。
「僕は大丈夫です」
精一杯表情を緩めて答えた。
***
見合いの席から逃出して郊外の温泉宿へ隠れた俺たちは、お互いの気持ちも通じて、幸せの絶頂を感じていた。
俺自身今までに何人かの女性と付き合ったことはあったが、こんなに衝動的に愛した人は初めてだった。
このまま乃恵さえいてくれればそれでいいと、本気で思っていた。
逃出して3日目後。
その日も1日ほぼベットの中にいた俺たちは、のんびりと時間を過ごした。
あと数日すれば東京に帰ろうと俺も考えていた。
夕方になって乃恵が携帯を持って部屋を出て行ったのに気づいてはいたが、きっと連絡をしたい相手もあるだろうと気にも留めなかった。
30分。
1時間。
ウトウトとしながら、さすがに乃恵の帰りが遅くて気になってきた。
普段はとても元気な乃恵だが、心臓に持病があり時々発作も起す。
油断すれば命に関わることもあるんだと、陣からも聞かされている。
不安になった俺は、乃恵の姿を探して部屋の外へと出た。
***
「乃恵っ」
部屋を出て数メートルのところで、倒れている乃恵を見つけた。
慌てて駆け寄り抱き起こすが、顔も手足も真っ白で冷え切っている。
「乃恵、しっかりしろっ。乃恵っ」
ギュッと抱きしめながら何度も名前を呼ぶが、反応はない。
さすがに怖くなって、そっと胸に耳を当ててみると
「よかった」
呼吸もしているし、心臓も動いている。
「待ってろよ、今病院へ連れて行ってやるからな」
いつもは冷静なはずの自分の声が、珍しく声がうわずっている。
出来るだけ振動を与えないようにそっと抱き上げ、部屋へと乃恵を連れ帰った。
俺は医者じゃないから、こんな時に病人を動かすことが正しいのかなんてわからない。
もしかして動かしてはいけなかったのかもしれない。
それでも、冷え切った乃恵の体をそのままにしておくことは出来なかった。
ベットに乃恵を寝かせ布団を掛けてから、俺はフロントを通して救急へと電話をした。
***
すぐに救急隊が到着し、運び込まれたのは地元の総合病院。
救急病院とは名ばかりのこじんまりした所。
運び込まれるとすぐにスタッフに囲まれた乃恵を俺は遠くから見ることしか出来ない。
「すみません、家族の方ですか?」
白衣を着た男性が声をかけてきた。
「ええ、まあ」
ここで友人ですというのも気が引けて、曖昧に答えてしまった。
「患者さんの持病があれば教えていただけますか?」
「えっと・・・」
確か心臓が悪いと聞いたが、具体的にはわからない。
「あと、服用中の薬があれば教えてください」
「ああ、薬・・・」
病院で薬をもらっていたが、何を飲んでいるのかはわからない。
結局俺は、彼女のことを何も知らないんだ。
「すみません。薬も既往歴もわかりませんが、かかりつけの病院ならわかります。先月も入院をしていましたし、彼女自身もその病院のスタッフですので確認してください」
「わかりました、連絡を取ってみます」
俺は病院の名前を伝え、陣にも連絡を取った。
***
それからは本当に時間が長く感じた。
救急外来の処置室で治療を受ける乃恵を俺は待合に座って待つことしか出来ず、悶々と過ごすしかなかった。
時々診察室から出てくるスタッフにどうなっているんですかと聞こうとしたが、さすがに出来なかった。
そんな中、1時間ほどで陣が到着。
「すみません、長谷川乃恵の兄です」
息を切らして受付に駆け寄る。
「おい」
俺は陣の背に立った。
「ぉ、お前」
グイッと襟首を締め上げ俺を睨む陣を、俺は止めることもしなかった。
バンッ。
力一杯、陣は俺の頬を殴りつける。
「ふざけるなよ、何で乃恵が倒れるんだっ。あれだけ、あれだけ近づくなって言ったじゃないか」
とても病院の中となおもえないほど大声で怒鳴る陣に、俺はただ頭を下げるしかない。
「絶対に許さない」
そう言ってもう一度上げた拳を、駆けつけた警備員が押さえている。
別に、何発でも殴られる覚悟は出来ている。
それだけのことを俺はしたんだ。
「ここは病院です。どうか落ち着いてください」
診察室から出てきた白衣の男性が、陣と俺の間に入った。
***
あれから1ヶ月。
俺はいつもと変わらない朝を迎えていた。
ここは20階建ての大学病院の最上階にあるVIPフロア。
入り口もエレベーターも一般のものとは分けられ、誰にも会うこと無く病室まで来ることができる場所。
転院の時、陣がどうしてもとここに入れた。
高い部屋代を払う代わりに、プライバシーとセキュリティーを買っているわけだ。
「徹、食事を冷蔵庫に入れておいたから必ず食べるのよ」
まるで母親のように口うるさい麗子。
「ああ、わかっているから」
子供じゃないんだ、食べたくなったら食べる。
「わかってないから言うんでしょ、昨日の食事もほとんど手つかずじゃない」
昨日入れた食事を片付けながら、不満そうな顔。
今回のことに麗子は責任を感じているらしく、毎日病院にやってきては俺と乃恵の世話をしてくれる。
お陰で俺は心置きなく乃恵に付き添えるんだが、
「いい加減、お前も忙しいんじゃないのか?」
孝太郎の専任秘書は麗子しかいないわけで、仕事の量だって少なくはないはずだ。
俺のことにかまっている余裕はないと思うがな。
「いいのよ、これは私の責任なんだし」
真面目な顔でギュッと唇を結んだ麗子。
綺麗な奴が真剣な顔をすると、凄みがあって怖い気さえする。
***
そもそも、麗子は俺と乃恵をどうにかしたいと思っていたらしい。
敏感な奴だから、俺の気持ちにも乃恵の気持ちにも気づいていて、陣の思いも知った上でなんとか丸く収まらないかと画策を巡らせた。
その頃の俺は、仕事にも私生活にも投げやりになっていたし、陣との関係もこじれていた。
乃恵の方も、肉体的にも精神的にも不調が続いていたらしい。
そんな時に舞い込んだ俺の見合い話。
麗子から見れば、俺たちの気持ちを試すには絶好のチャンスに映ったことだろう。
麗子は何も言わずに乃恵を呼び出し、乃恵は俺の見合いの席に偶然居合わせた。
そして、乃恵に気づいた俺は逃出してしまった。
そこまでは麗子の読み通り。
これで俺と乃恵が結ばれれば、麗子の作戦は大成功に終わるはずだった。
しかし、
乃恵は旅先で倒れ意識を失った。
もちろん、これは麗子の責任ではない。
たまたま運悪く発作が起きたんだと思いたい。
もしストレスが原因だったとすれば、それは麗子ではなく俺に責任がある。
俺が自分の感情のままに、乃恵を振り回してしまったんだ。
***
「これ、孝太郎から」
差し出された真っ黒なカード。
「何だよ?」
これは鈴木家の家族カード。
クレジット機能のついた俗に言うブラックカードって奴だ。
俺も高校時代には社長から生活費に使えと渡されて、時々使っていた。
さすがに社会人になったときに返したが、なぜ?
今さらそんな物をもらういわれはないぞ。
「徹がお金持ちなのは私もわかっているけれど、これは孝太郎からの気持ちなの。黙って受け取ってもらえない?」
「そんなこと」
出来るわけないじゃないか。
「今回のことは私の短慮のせい。孝太郎にも余計なことをしたって、凄く叱られたわ。そのこともあって、孝太郎も何かしたいのよ。だから、受け取って欲しいの。徹に受け取ってもらえなければまた私が叱られるから」
お願いポーズで俺を見る麗子。
「しかし」
それとこれとは話が、
「それにね、このことはお父様の意向でもあるの」
「社長の?」
「ええ」
そんなバカな。
***
俺が乃恵の転院と共に東京に戻ってきたのは、見合いの日から1週間後のことだった。
それまで会社にも社長にも一切の連絡を絶っていた俺の前に社長が現れたのは、転院の翌日。
当時の俺は陣の逆鱗に触れために病室にも入れてもらえず、廊下に置いたイスに座り病室のドアを眺めていることしか出来なかった。
そんな情けない俺の前に立ち、ギロッと俺を睨み付けた社長。
何を言われるのかとドキドキしている俺の頬を、
パシンッ。
思いっきり張り倒した。
「馬鹿者っ」
静かな廊下に響き渡る怒鳴り声。
「すみません」
俺としては他に言葉がない。
その後病室へと入って行った社長は、付き添っていた陣に向かって頭を下げた。
一緒にやって来ていた孝太郎も、麗子が迷惑をかけたと詫びた。
こうなると、怒っていた陣も何も言えない。
この日から、俺はやっと乃恵の側に付き添うことを許された。
陣にしてみたら不満だっただろうが、俺は救われた。
だから社長は俺に怒っているはずで、間違ってもカードなんてよこすはずがないんだが。
***
「また来るわね」
持ってきたブラックカードを無理矢理俺のポケットにねじ込み、麗子が病室のドアに手をかける。
「ああ、気をつけて帰れ」
なんだかんだ言って、麗子のお陰で俺はここにいられる。
それが分かっているから、突き返すことは出来なかった。
「うん。じゃあね」
「ありがとう」
麗子が帰り、また乃恵と2人になった病室。
「乃恵、朝だぞ」
いつものように、ベットの上で静かな寝息を立てる彼女に声をかける。
透き通るように白い肌と艶のある黒髪はとても美しくて、意識を失った病人の物とは思えない。
今にも目を開けて動き出しそうな気さえするのに。
乃恵、お前はどうして目を開けてはくれないんだ?
「香山さん、おはようございます」
ちょうど、主治医の山神先生が回診にやっていた。
「おはようございます、山神先生」
どこにも行かず毎日ここにいる俺も、この病院で彼女に関わる人たちの顔と名前を覚えてしまった。
***
乃恵が倒れてからすでに1ヶ月。
心臓発作は一時的なもので、すぐに回復した。
脳波もCTも撮ってもらったが、大きな異常はなく悪いところはないらしい。
「何で目を覚まさないんでしょうか?」
入院以来何度もした質問を、また山神先生にしてしまった。
「わかりません」
答えも毎回変わらない。
「ずっとこのままなんて事は?」
恐る恐る口にしてみる。
「それも、わかりません。ただ、医者の立場から言わせてもらえばいつ目が覚めてもおかしくない状態です」
「そうですか」
それでも眠ったままなのは、なぜなんだろう。
もしかして、目覚めたくないのか?
俺の事を嫌いになったのか?
俺が乃恵を追い詰めてしまったのか?
「大丈夫ですよ。彼女は随分と無理をして頑張ってきましたから今は少し休息をとっているんです。彼女の意思で目覚めるまでもう少し待ってやりましょう」
俺が出会うよりも古くから乃恵を知っている山上先生。
俺なんかよりもずっと彼女のことがわかっている。
「よろしくお願いします」
思うところは色々あるが、今は先生を信じてお任せするしかない。
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