悪夢の様な夜駆《よが》けから一夜明け、防衛要砦線《ぼうえいようさいせん》都市、ラングラット砦に漸く朝日が昇ってゆく。
堅牢無比の見た目とは裏腹に、一夜にして出来た黒焦げた痕跡の煉瓦《れんが》達は、激しい業火に長時間焼かれた事を物語り、鎮火をしても尚、今だ熱を帯び、濛々《もうもう》と白い煙を空高く伸ばしている。
グランドは自ら馬を駆《か》り、被害現状の確認の為に数名の者達と砦内の街区を訪れ、慌ただしく現場に指示を飛ばす事に追われていた。
ヴェインとカシューの負傷については、早急に関係性を知る者達から其々《それぞれ》報告を受けてはいたが、今は個人的な感情一つで、この身を動かす訳にはいかなかった。
獄炎は瞬く間に一夜を走り、皮肉にも、多くの連なる建屋を糧《かて》に巨大化すると、荒れ狂う炎の波は簡単に一部の街区《がいく》を飲み込んだ。
焼け出され酷い火傷を負いながらも、親を探し泣き叫ぶ子供達。力無く壁を背に頭《こうべ》を垂《た》れる負傷兵。天に向かい手を伸ばしたまま炭へと変わり果てた者。その眼前に広がる悲惨な状況に、感情が心で捻《ねじ》れ、怒りの激情へと変わり、攻め入られてしまった悔しさに拳を握る。
「クッ――― 」
脳裏に焼き付いたままの、忘れもしない―――
―――あの日の地獄と化した故郷と重なった
馬を降り、方膝《かたひざ》を突き、焼け焦げた土を力無く握りしめた時だった。
「貴方の故《せい》では有りません」
同行した兵士の一人が、グランドの腰に手を添えて立ち上がらせる。
「尽力して下さった貴方の事は、皆が良く分っています。的確な指示があればこそ、ここまでの被害に抑えられたのですから」
軍部内での立ち位置も定まらね余所者《よそもの》に対し、兵士達は感謝の意と労いの言葉を掛けた。然し、その言葉とは裏腹に、幼い子供達の泣き叫ぶ声がグランドの心を残酷に抉《えぐ》る。
「あれれ…… おかしいな」
焼け焦げた髪を振り乱し―――
―――幼い少女が必死に少年と思われる焼死体の胸を押す。
「おにいちゃん起きて、何で寝てるの? はやくお母さん探しに行こう」
認めたくない兄の死を前に、精一杯、前に進もうとする幼い少女が大きな涙を幾度も変わり果てた兄の身体に溢す……
「おにいぃじゃああん――― 」
慟哭《どうこく》は絶望を孕《はら》み、幼き少女の精神を蝕《むしば》もうと、その小さな身体に襲い掛かった時だった。グランドは少女が壊れる寸前で走り寄ると、覆い被さる様に少女の視線を遮り、その身をきつく抱きしめた。
「嗚呼あああああ――― 」
胸の中で狂い叫ぶ少女に希望を手渡す―――
―――それが例え偽りだとしても
「私を見ろ、私を見なさい。いい子だから頼む。落ち着いて私を見るんだ」
悲しみに声を押し殺し、少女の耳元でグランドは優しく嘘を吐く。
「大丈夫。お兄ちゃんは必ず私が見つけてやる」
少女の生きる希望となるならば、例え自らが悪者になろうとも、グランドは構わなかった。
涙溢れる大きな瞳をグランドに向けると、幼い少女の瞳が、失った光を僅かに取り戻す……
「おじさんが? 」
少女は一握りの希望に身を委ねた―――
「そうだ、おじさんが、おじさんが、お母さんとお兄ちゃんを必ず探してやる」
「だっ…… だってそれじゃあ、それじゃあコレは? コレは?」
兄を失ってしまったかもしれぬ恐怖に全身を震わせ乍《なが》ら、止まぬ滂沱《ぼうだ》の眸子《ぼうし》が感情に揺れる。圧し潰されそうな少女を必死に抱きしめるとグランドは、目一杯不器用な作り笑いを少女に向けた。
「何を言っている? コレは違う、断じてコレはお前の兄などでは無い。良く聞くんだ、いいな? コレはただの木の燃え滓《かす》だ、気が動転して勘違いしていたんだろう。大丈夫、心配するな、おじさんが必ず皆と会わせてやる、約束だ」
「ほんとう? ほんとうに? 」
頬を伝う幼い少女の涕に、グランドが固い決心をした瞬間だった。
「あぁ、本当だとも、絶対に絶対に遭わせてやる。約束だ」
グランドは溢れる涙を少女に感付かれぬ様に、声を震わせ、またきつく抱きしめる―――
同行していた兵士は目を背け、頬を濡らし、肩を震わせる事しか出来なかった。
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次々と重傷者が運び込まれる治癒院は、正に戦場と化していた。包帯で全身を巻かれ、意識が混濁《こんだく》し、譫言《うわごと》を繰り返す者。止まった命の鼓動を取り戻そうと、必死に呼び掛け乍ら蘇生術を施す医師達。
施設の中は、人が焦げた匂いと血の香りが入り交じり、死神が徘徊《たもとお》る生と死の狭間に揺蕩《たゆた》っていた。生きる事を諦めた人々は、この苦しみから解放してくれる存在が、天国か地獄か、どちらからやって来るのか知る由はなく、ただじっと、途切れ掛けた自らの鼓動の回数を、数え待っているほかなかった。
そんな折―――
扉も無い二階の奥の仮設病棟に、息を切らせ一人の老婆が飛び込んで来た―――
「ワリード、ワリードどこだいっ――― 」
煤《すす》だらけの顔から銀歯を覗かせた老婆が、身体に似合わぬ大きな声を張り上げ、怪我人の間を縫うように息子を探す。
「お袋? 」
天井から脚を吊った兵士が、叫ぶ老婆を呼び止めた。
「あんたっ、ワリードかい? 良かった、あぁ良かったワリード。無事だったんだね? 」
同時に老婆の後ろに居た赤子を抱いた女も、安堵の声を上げる……。
「あなた―――‼ 」
「アルーマ‼ 」
「あぁ、良かった、あぁ―――…… あなた本当に良かった」
「心配かけて悪かった。脚の骨を折ってしまったけど、何とか無事だよ」
抱き合い歓喜に湧く若夫婦の再開に、胸を撫で下ろした老婆は、ふと窓越しに中庭に視線を落とす。そこには四本の脚をたたみ、腹を地に付け、大人しく伏している大きな牛が目に止まった。
「ありゃあ、マルチャドかい? 」
真っ黒に血糊《ちのり》の付いた衣服を纏《まと》う医療従事者と思われる女性を呼び止めると、老婆は中庭を指差し、思い当たる疑問をぶつけた。
「あの牛に乗ってた兵隊さんは無事なのかい? 」
「えっ? 牛に? ですか? 」
「あぁ、あの牛に乗ってた大きな兵隊さんだよ」
「さっさぁ、分かりません。あの牛は、隣に居る黒豹《くろひょう》ちゃんが連れて帰って来たので、私が見た限りでは、人は一緒では無かったはずですけど? 」
「黒豹ぅ? 」
「はい、黒豹ちゃんですけど…… 」
怪訝な顔で覗き込む医療従事者に対し、慌てて老婆はフガフガと銀歯を鳴らす。
「そっ、そうかい…… いや、いいんだ悪かったね」
「銀婆ぁ、大きな兵隊さんって、ミルドルド様の事か? 」
息子のワリードの横のベッドに背を向け、横たわっていた小汚い兵士が、ゴロンと身体の向きを変え顔を晒しボソリと呟いた。
「銀婆だぁ? アタシの事をそんな呼び方する奴は悪ガキのトルネだね? 全く、揃いも揃ってアンタ達って奴は、怪我する時も一緒かい」
ニヤリと呆れ顔の老婆に笑みを溢したのは、息子の幼馴染のトルネだった。その見慣れた小憎《こにく》たらしい顔に大きなため息を吐く。
「トルネも大した怪我じゃなさそうだね、取り敢えず安心したよ。アンタの母ちゃんも無事だからね、安心しとくれ。それで? ミルドルド様ってのは誰だい? 」
「あぁ、母ちゃんの安否はさっき聞いたよ。それにしても何だ⁈ 銀婆はミルドルド様を知らねーのか? 」
「だからそりゃあ誰だいって聞いてんだよ」
「ヴェイン・ミルドルド様だね。エリン東部のレンイスター王国《キングダム》出身で、元ケルトの戦士。【ムルニの審判】から生き延びて、この国に渡って来たお方さ。先日、将軍《アミール》閣下から直々に聖戦士《ムジャーヒド》に任命されたんだよ」
息子であるワリードが、腕を組みドヤ顔で饒舌《じょうぜつ》に老婆に語る。
「お前が威張って言う事かい? 全く調子いいんだから…… あたしゃそんな人知らないねぇ」
「何だ銀婆ぁ、大通りのミルドルド様の大立ち回り見なかったのか? 」
ムスッとした顔付きで老婆はトルネを睨むと、両手を広げ吐き出した。
「あたしゃ銀歯の調子が悪くって、ハキーム先生の所に居たんだよ、騒ぎの事は聞いたけど、見ちゃいないのさ」
「あちゃあ、そりゃあ残念だったなぁ。それはそれはスゲー恰好良かったんだぜぇ」
腕を組み、今度はトルネが鼻を鳴らす。
「だからなんでお前達が偉そうな顔するんだよ。あたしが言ってるのは大男の兵士の事だよ? あの闘牛《コレア》のマルチャドに乗れる位の、口汚い髭もじゃの大男だったんだから」
ワリードとトルネは、ぽかんと口を開けると同時に、クククと腹を抱え笑いを堪えた。
「何だい? 何がそんなに可笑《おか》しいってんだい? 」
「口汚い大男なら、間違いなくミルドルド様だな」
ワリードがトルネの同意を求めると、トルネは笑いを堪え何度も頷いた。
「嘘だろ? あんな男が聖戦士《ムジャーヒド》だってのかい? 嘘だろ…… 世も末じゃないか」
紅蓮の激情に焼かれし刃、憤怒の焔にて新たなる種火を宿す。消え難き悲憤の渦は、終焉なき宿縁の怨嗟を生み、魂をも鬼染に至らしむ。心乱れし折、果たして鬼と化して世を斬り裂かんや、徒に己を抱擁し静謐を得んや。
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