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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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百合絵様の目が、私から離れなかった。
窓の外で、どこかの犬が一声吠えた。
「……書庫で、見たんです」
口から出たのは、半分だけ本当のことだった。
「洋館の書庫に、古い歌集がありました。見返しに『白河』の蔵書印があって、余白に鉛筆の書き込みが。千鶴さんのご実家は、白河子爵家だと聞いていましたから。それで、千鶴さんの字なのだと」
何が書いてあったかは、言わなかった。
百合絵様は、しばらく私を見ていた。
それから、ふうん、と鼻を鳴らした。
「千鶴お姉様の本が、お兄様の書庫に?」
「ええ」
「変ね。千鶴お姉様の本は、みんな萩の間にしまったはずよ。お葬式のあと、お兄様が誰にも触らせないで、ご自分で運んだんだもの」
今度は、私が黙る番だった。
侯爵様が、自分の手で運んだ。それなら、一冊だけ書庫に移したのも、あの人なのだろうか。
そして百合絵様があの歌集を開けば、「栞へ」の三文字を見てしまう。お兄様の書庫に、百合絵様が入ることはない。今は、そう思うしかなかった。
「まあ、いいわ。お義姉さんは、字を見るのが商売みたいなものですものね」
百合絵様は絵葉書を胸に抱いて、涙の跡の残る顔で私を見上げた。
「ねえ。一緒に行ってくれる? 十二階」
*
翌日の放課後、私は日本橋で百合絵様の女学校の用品を買う供、という名目で屋敷を出た。
大奥様は扇の陰で眉をひそめたが、「嫁が小姑の供をするのは当然です」と言って許した。
私が誰かの供であるかぎり、この家の誰も怪しまない。
六区の人波を抜けると、赤煉瓦の塔が目の前にそびえていた。
下から見上げると、首が痛くなるほど高い。八角形の壁に窓が規則正しく並び、上の二階だけが木造で、白く塗られている。
入口で木戸銭を払う。
「昇降機は、とうに止まってますよ。階段でどうぞ」
切符売りの男が、退屈そうに言った。
狭い螺旋の階段を、一段ずつ上る。
二階から七階までは、小さな店がぎっしりと並んでいた。外国の小間物、硝子玉の簪、絵葉書、玩具。売り子の呼び声が、煉瓦の壁に反響する。
百合絵様は、手すりにつかまって黙々と上っていく。いつもの軽口が、一つも出なかった。
八階は、ぐるりと窓を巡らせた休み処になっていた。
窓から射し込む光が、床に細長い四角を並べている。長椅子に腰かけて、汗を拭う客たち。
その一角に、背景幕を吊るした小さな写真屋があった。
三脚の上の黒い箱。富士山と松を描いた幕。「御記念写真 即日仕上」の札。
「いらっしゃい。お二人で一枚?」
奥から出てきたのは、前垂れをかけた中年の男だった。
百合絵様が、一歩前に出た。
「去年の七月に、ここで写真を撮った人がいるの。耳隠しに髪を結って、笑うと八重歯の見える人。一人で来たはずだわ。……受け取りに、来なかったでしょう」
主人の顔つきが、変わった。
「ああ」
主人は目を伏せた。
「覚えてますよ。華族の奥様が一人でお見えになるなんて、珍しいですから。新聞に載ったでしょう。鎌倉で、あんなことになって」
「その人の写真を、取りに来たの」
「お嬢さんは」
「久遠寺百合絵。あの人の、義理の妹よ」
主人は、しばらく百合絵様の顔を見ていた。それから奥へ引っ込み、帳場の引き出しから、茶色い封筒を一通持ってきた。
「受け取りには久遠寺の者が来るから、写真と一緒にこれを預かっておいてくれ、と言われましてね。来ないまま、十月も経っちまった。捨てるわけにもいかなくて」
封筒の表に、跳ねるような字で「久遠寺」とだけあった。
「撮り終わったあと、奥様はそこの長椅子で、ずいぶん長いこと何か書いておいででしたよ。窓の外を見ちゃあ、また書いて。封をして、念を押すみたいに私に渡して」
主人は、窓際の長椅子を顎で示した。
「受け取りに来るのは、自分か、自分の大事な人だって。そう仰ってました」
*
百合絵様の指は、封を切るのに何度もしくじった。
中から、厚紙の台紙に貼った写真が出てきた。
窓辺に立つ、千鶴さんだった。
耳隠しの髪。少し首をかしげて、八重歯を見せて笑っている。背中の窓の向こうに、白く霞んだ東京の屋根。
女学校の頃と、何も変わらない笑い方だった。
百合絵様の喉から、細い音が漏れた。
写真を胸に押しつけたまま、百合絵様は窓辺へ歩いていった。千鶴さんが立っていたのと同じ窓だ。窓枠にしがみつくようにして、肩を震わせている。
私は追いかけなかった。今は、一人にしてあげたほうがいい気がした。
百合絵様が置いていった封筒を、私は拾い上げた。
写真の台紙のほかに、まだ何か入っている。指で探ると、薄い紙が一枚、二つに折られて底に沈んでいた。
取り出して、開く。
雁皮紙だった。
透けるほど薄い、敷き写しに使う紙。その上に、細い墨の線で、何かの角が描かれている。
太い線と細い線を二本並べた、直角の枠の一部。
子持ち罫だ。
罫の角の、太い線の端が、細い線よりわずかに長く出ている。下に本物の紙を敷いて、上から一本ずつ丁寧に写したのだとわかる。線の太さまで、寸分の狂いもない。
そして、左下の角。
太い罫の外側が、小さく三角に欠けていた。その欠けだけ、墨を少し濃くして、念を押すように描き込んである。
余白に、千鶴さんの字。
「この欠けを、栞なら知っている」
指先が冷たくなった。
窓辺を振り返る。百合絵様は、まだ写真を抱いて外を見ている。
私は雁皮紙を元通りに畳み、帯の内側の、脅迫状をしまっていたのと同じ場所へ滑り込ませた。
封筒には、写真だけが入っていたことにする。
千鶴さんが私の名を書いたものを、百合絵様に見せるわけにはいかなかった。
*
窓辺に並ぶと、百合絵様は袖で乱暴に顔を拭いた。
「見て。あっちが神田よ。千鶴お姉様、いつもそう言ってた」
指さす先に、屋根の海が広がっていた。
神田。あの屋根の下のどこかに、焼けて空き地になったうちの活版所の跡がある。
「お姉様、何を預けたのかしらね。写真だけ?」
「……写真だけ、でした」
嘘が、また一つ増えた。
階段を下りる途中、百合絵様がぽつりと言った。
「お義姉さん。この写真のこと、お兄様には内緒よ」
「どうして」
「お兄様、千鶴お姉様が亡くなってから、あの方の写真を一枚も飾らせないの。萩の間に鍵をかけて、名前を出すのも嫌がって。……悲しいからなのか、なんなのか、あたくしにはわからないけど」
百合絵様は、写真の入った封筒を袴の胸元に押し込んだ。
「これは、あたくしが持ってる。千鶴お姉様が、あたくしに預けてくれたものだもの」
私は頷いた。帯の内側の紙が、急に重くなった気がした。
帰りの市電の中で、百合絵様は封筒を胸に抱いて、ずっと窓の外を見ていた。
私は帯の上から、薄い紙の感触を確かめていた。
子持ち罫。太い線の端を長く出す、角の組み方。
家令室で礼状を書いたときの罫紙に、よく似ている。父が旧藩士会の会報を組んでいた手つきにも。
けれど、あの礼状の罫紙に、欠けはなかった。百通近く書いて、私は一枚一枚の角を見ている。
では、千鶴さんは、どこでこの欠けを見たのか。
なぜ、私なら知っていると書いたのか。
目を閉じると、小さな三角の欠けが、瞼の裏に浮かぶ。
私は、これを知っている。
知っているはずなのに、どこで見たのか、どうしても思い出せなかった。
コメント
1件
ああもう、この回、素晴らしかったです……! 百合絵様が写真を抱きしめて泣くシーン、胸が締め付けられました。あの子持ち罫の欠けが栞の名前を呼んでいるところ、ゾクゾクしましたね。主人公が「嘘がもう一つ増えた」と自覚しながらも百合絵様を守る切なさが、大正の空気と相まってじわじわ沁みます。次が待ち遠しい!