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侍従長の横領事件から七日目の朝。
プロイは、馴染みの警吏に門を一時的に任せ、朝の巡回をしていた。
後宮の中心には小さな仏堂があり、黄金の仏坐像の前で女官たちが蓮の蕾と線香を手向けている。
堂内を守るのは、純白の衣をまとった女性の修行僧たちだ。朝の読経の声が回廊に満ち、その低い旋律が、女だけの街の時を刻んでいた。
仏堂の中から、女官の悲鳴が響いた。
「ヌアン、しっかりして!」
駆けつけたプロイの目の前。
ヌアンと呼ばれた高位女官の瞳孔が散大し、虚ろな目で虚空を見つめている。
「……見える」
ヌアンの口から、うわ言のような声が漏れた。彼女の目から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。
「……ずっと、音だけだった。三十年間、ずっと。でも今は、見える……外が、波が、泡が、海が……っ」
「落ち着け、幻覚だ!」
プロイが肩を揺さぶるが、ヌアンは反応しない。それどころか、彼女の顔に、恍惚の笑みが浮かんだ。
だが——突然、何かのスイッチが入ったかのように暴れ出した。周囲の女官を突き飛ばし、後宮を囲む壁に頭を打ちつけ、叫び声を上げる。美しい爪で壁にすがり、まるで登ろうとしているかのようだ。
数人がかりで取り押さえようとしたが、火事場の馬鹿力というべきか、細身の女官とは思えない力だった。
やがて——糸が切れたように、ヌアンが崩れ落ちた。荒い呼吸が、少しずつ収まっていく。
「ヌアン、落ち着け。ゆっくり息をしろ。こっちへ……座って」
ヌアンは、虚ろな目で宙を見つめ、人形のようなカクカクとした動作で従った。
「……私、何を?」
座り込んだヌアンは、意思の光を取り戻した目で、きょとんと小首を傾げてみせた。
*
翌日には別の女官が、翌々日にはさらに二人が——同じ症状を示した。
突然錯乱し、暴れ、数分から数時間後には……何も無かったように正常に戻る。
後宮街に、恐怖が広がり始めていた。
誰が次の患者になるか、分からない。隣の女官が、突然暴れ出すかもしれない。
プロイは即座に門番の権限を行使し、被害者四人の行動履歴を時系列で並べた。
(四人とも、後宮街の北側にある、同じ洗濯場を利用している……?)
そして四人とも、洗い立ての衣服に着替え、少し経った時間帯に発症していた。
(衣服……洗濯場で何か?)
プロイは被害者が発症時に着ていた衣服を回収した。被害者リストを手に、東棟の、ナーガの執務室に駆け込んだ。
*
「先生! 緊急事態だ、後宮内で奇妙な——」
プロイが、ナーガの執務室の分厚い扉を押し開けた瞬間、部屋の空気が凍りついていることに気づいた。
薄暗い部屋の中心で、ナーガが仁王立ちしていた。
いつもは気怠げに寝台に横たわっている彼から、肌を刺すような、底冷えのする殺気が放たれている。
「……許さん」
ナーガの低い声が、地を這うように響いた。
「俺の『宝』に手を出す不届き者がいるとは。……見つけ出し、八つ裂きにして、その血肉を薬草の肥料にしてくれる」
「た、宝を盗まれたのか!?」
プロイは慌てて部屋を見回した。
後宮の門番として、窃盗は絶対に見過ごせない。しかし——プロイは首を傾げた。
壁際に無造作に積まれた宝石も、古代の金貨の山も、何一つ減っているようには見えない。
「……いったい、どの宝が盗まれたんだ? 宝石か?」
「たとえ一時輝こうと、形あるものはいずれ滅びる……あんな石など、どうでもいい」
ナーガは苛立たしげに、空っぽになった木箱を指差した。
「俺が十年かけて乾燥させ、一番気に入っていた特製の薬草だ! それに、昨日俺が口をつけた茶器が消えた!」
「…………茶器や、薬草は、高価なものか?」
「いや、二束三文だ。単に俺が気に入っているだけだ」
プロイは目をパチクリと瞬かせた。
「いや……待ってくれ。茶器や犯人は、この部屋に忍び込んでおきながら、一生遊んで暮らせる金銀財宝を完全に無視して……『先生のお気に入りの草』と『使用済みの茶器』を盗んでいった、と言うのか?」
「だが、俺の最も個人的で神聖な宝だ」
大真面目に激怒しているナーガを前に、プロイの背筋に、悪寒が走った。
「……おかしいだろ。そんなもの、換金もできない。まるで——」
まるで、二十一世紀でいうところの、ストーカーだ。
「……先生。さっき、この東棟に荷物を届ける係のヌアンが、突然発狂して壁を登ろうとした。彼女は完全に意思を失い、幻覚を見ていた」
そこまで言って、プロイは手元の被害者リストの『名前』に目を落とし、強い違和感を覚えた。
「ヌアン、マリ、ダオ、チャバ……。ただの偶然か? マリは茶を淹れる係、ダオとチャバは東棟の清掃係……」
「全員、俺の私室に近づける女官だな? なんだそのリストは」
「後宮内で、急に錯乱するような病気が流行している。その、被害者リストだ。行動を調べた結果、全員が同じ洗濯場を利用していた。これが、被害者の服だ」
ナーガの整った顔が、プロイの持った、被害者の服に近づく。
「”悪魔の吐息”の香りだな。チョウセンアサガオなどのナス科植物に含まれる物質だ。記憶を奪い、被暗示性を極度に高める」
「たしかに! ヌアンは、朦朧としつつも私の依頼に従った」
プロイの脳裏に、前世の記憶が甦った。
南米コロンビアでは、スコポラミンという薬の粉末を相手の顔に吹きかけて服従させる犯罪が横行していた。被害者は自発的に犯人の指示に従い、ATMで預金を引き出し、貴重品を手渡す。——そして翌朝、何も覚えていない。
(悪魔の吐息って、スコポラミンみたいな薬か。……たしか、高用量では、呼吸抑制、昏睡、最悪の場合は死に至る。ただ、うまく用量調整できれば、投与後十二時間程度で血中から検出困難になる——証拠が残りにくい、完全犯罪向きの薬物)
「……おおかた、俺の魅力に骨抜きになった女が、他人を操ってまで、俺の欠片を欲しがったのだろう。情熱的な女は嫌いではないが……歪んだ女は願い下げだ」
否定的な台詞を吐きながらも、ナーガは満面の笑みである。モテたのが嬉しいらしい。『どんな美女に言い寄られても、塩対応のタヤンとは違うな』と、埒もないことをプロイは考える。
「……前向きすぎるぞ、先生。唾液から何かの成分を採取して、ナーガ様の身辺を探ろうとしている可能性もある」
「プロイは無事か? 俺の『目』まで盗まれてはかなわぬ」
「無事だ。というのも、私は洗濯場で北の共用洗濯場なんて使わない。いや、根が庶民だからな。自分の服は毎朝、井戸端で自分でゴシゴシ手洗いしてるんだよ。自分の鎧を他人に任せるなんて、落ち着かなくて」
ナーガは一瞬目を丸くし——やがて、肩を揺らして低い笑い声を上げた。
「洗濯場で、特定の標的の衣類だけを狙って薬物を塗布していたということか……」
「警吏に言って、洗濯場を調べさせろ」
「私が行ったほうが早い」
「プロイは俺の『目』だろう。しばらく、ここで俺を手伝え。それと、後宮街の外には、絶対に出るな」
「残念、私は門番なのでね」
ナーガが、不服そうな顔で、周囲を見回した。執務室には、プロイとナーガ以外に人影はない。
「宝を二度と、盗ませてなるものか……。愛し子に、加護を」
ふいに腕を引かれ、ナーガの腕の中に閉じ込められた。
決して強い力ではない。プロイならばいくらでも振り払える。けれど、驚きが先立って——熱く、意外にも大きい胸元に、プロイは身を預けるしかない。
「私の”気”を授ける。万が一、妖の類に出会ったら投げるといい」
珍しい明るい青紫の蘭を、ナーガがプロイの髪に差し込んだ。甘い香りと、優しい腕に包まれる。
(……安心、する)
「……お気に入りは、宝物庫に飾っておきたい性なんだが。しかし、プロイは走り回っていてこそ、面白いのかもしれないな。この時期の色褪せた世界が……プロイがあの扉を蹴破った瞬間から、色づき始めた」
優しく、頭の後ろを撫でられ、ゆるく髪を梳かれる。
「面白い、とは何だ」
「可愛い、とも思っているよ」
至近距離で青い目を細められ、プロイの心臓が跳ねた。
「……お前の心の音は、相変わらずうるさくて、愛らしいな」
ナーガが、形の良い唇の端を吊り上げて低く笑った。プロイの耳元に、彼の冷たい吐息がかかる。
「やはり、誰の目にも触れさせず、俺だけのものにしたい気もするな……」
その時、執務室のドアが、開かれた。
「姉様! お昼ご飯、一緒に……」
タヤンが満面の笑顔で飛び込んできて——凍りついた。
「若い男女がそんな風に触れ合うものでないと、何度言ったら!」
「……プロイは、俺の目で、俺の腕ぞ。本来なら俺の部屋にずっと置き、守るべきだが、生きているので妥協している」
「ナーガ様、収集癖を発揮しないで。……僕だって、ぎゅってしたこと、ないのに」
「まあまあ。確かに昼食の時間だな、三人で食べよう。タヤン様とナーガ様は……宮殿食堂の食事を、召し上がるか」
二人が『たまにはそれも良い』と頷くので、この日はそれで手打ちとなった。
プロイの髪に、青い蘭が揺れていた。
*
昼食を終え、プロイは北の洗濯場へと走った。
髪に飾った蘭が落ちそうになり、サバイの布の重ね目にしまい込んだ。
頭上から照りつける熱帯の太陽が、白亜の石畳を容赦なく照らし出している。道端に咲き乱れる鮮やかな朱のブーゲンビリア。むせるような生命力に満ちた、絢爛たる南国の後宮街。
ただ美しいだけでなく、行き交う人々が、熱風にも負けず笑顔なのがいい。
豊かな水音が響き渡る洗濯場には、色とりどりの布が風に舞っていた。
プロイは、洗い場に足を踏み入れた。
――籠の前に、不審な人影があった。小柄な女。一見して、洗濯物を取りに来た使用人のようだが、手に、無色透明の液体の入った小瓶を持っている。
「待てッ!」
プロイは石畳を強く蹴り、一気に距離を詰めた。
弾かれたように振り返った人影は、舌打ちをして、プロイに向けて小瓶を投げつけた。
中身の液体が、弧を描いて飛んでくる。
プロイは咄嗟に腕で顔を庇った。だが防ぎきれず、透明な飛沫を、露出した腕や首筋や肩に浴びてしまう。
「逃がすか!」
追おうとして一歩を踏み出し——プロイは大きく体勢を崩した。
曲者はその一瞬の隙に身を翻し、迷宮のような路地の奥へと逃げ去っていった。
(な、に……?)
肌に付着した冷たい液体が、じゅっ、と不気味に熱を帯びる感覚があった。
ここまで走ってきたことで、プロイの全身には汗が滲んでいた。
どくん、と心臓が異常な音を立てた。
途端に、プロイの視界がぐにゃりと歪んだ。花々が毒々しく渦を巻き、足元の白亜の石畳が波打つように揺れる。
『プロイ!』
脳裏に、ナーガの鋭い声が響いた。
「え、なんで、ナーガ様の声が」
『加護を与えたそばから! 皮膚に何を浴びた!? 今すぐ大量の水で洗い流せ!』
「う、あ……」
ろれつが回らず、声が上手く出ない。眼の前がぐるぐると回る。四肢の脱力感が一気に押し寄せ、立っていることすらままならなくなったプロイは、石畳の上に崩れ落ちた。
『プロイ! ……俺が行くまで持ち堪えろ!』
珍しく焦燥に満ちたナーガの叫びが、ひどく遠く聞こえる。
急速にブラックアウトしていく意識の中で――プロイは、離れた宮殿から、脱兎のごとく、こちらへと駆け出してくる気配だけを、微かに感じ取っていた。
*
「姉様……姉様、しっかりして!……ナーガ様。治せるでしょ? 治して。何でもする。王位でも何でもあげるから!」
「誰が人の王になどなるか。王冠など、何時でも奪い取れる」
物騒なやり取りで、プロイは目が冷めた。
王宮の一室に運び込まれたらしい。天井から吊るされた大きな布の扇が、ゆっくりと揺れているのが見えた。
ナーガが、心配そうに覗き込んできた。
「せん……せい? 先生、の、顔が——二つに見える……いや、三つ……」
「プロイ。今日、真夜中に門を開けろ、と言われたら——お前は開けるか」
ナーガが、低く問いかけた。
「……はい。開けます」
ぼうっとした心地で、プロイは返事をした。
「朝から晩まで後宮を守り、何人たりとも通さぬと誓った門番が——”操り人形”と化す。——これが、”悪魔の吐息”の本質だ。……さて、どうしたものか。拮抗薬を使うにも、投与量が不明だな」
ナーガの静かな声。
沈黙が、部屋を満たした。
プロイの呼吸が、さらに浅くなっていく。時折、意味のない言葉を呟き、身体が痙攣する。
「俺の――竜神の血を使うか」
「え?」
*
【タヤン視点】
「竜神の血液には、特異なタンパクが含まれている。ヒトの免疫系とは異なる構造を持ち、異種の毒素に対しても広域の中和能を発揮する」
「……ナーガ様、あっさり正体明かしていいんですか。いや僕は――多分姉様も、うっすら気づいてましたけど。ま、今はナーガ様は、どうでもいい。副作用は?」
「ある。——重大なものが」
ナーガは、背を壁に預けた。銀色の髪が汗で額に張りつき、白い肌がいっそう蒼白に見える。
「異種間の血清投与は、血の受け手側――つまりプロイの身体に、激しい免疫反応を引き起こす可能性がある」
ナーガは目を閉じ、淡々と危険性の説明を続けた。その声は冷静な医学者のそれだったが、指先だけが——プロイの脈を測る指先だけが、震えていた。
「……それでも」
ナーガの目が開いた。靄がかかった青い瞳に、凄絶な光が宿っている。
「竜の宝に手を出す、無知な輩に——毒であれ、人であれ、俺が負けるはずもない」
声が変わっていた。人間の声ではなかった。石の洞窟の奥から響くような、永久を生きた者の声。
タヤンは息を飲んだ。——ナーガの背後に、一瞬だけ、巨大な影が見えた気がした。
ナーガは、震える手で、銀のメスを手に取った。
刃が蒼白い腕の内側に沈む。ナーガの顔が苦悶に歪むが、声は上げなかった。その血は、仄かに青みがかった銀色。竜の血だ。ガラスの器に血液が溜まっていく。
「大丈夫ですか、ナーガ様、脱皮期でしょう」
「ただでさえ体力が落ちる時期だからな、さらに血を抜くとな……。しばらくの眠りが必要になるやも知れぬが……構わぬ。俺の血で、あの真っ直ぐな魂を染め上げる……酷く、昂るな」
「ぞっとしないな、貴方の血で姉様が汚される。……僕の血を全部、あげられたらいいのに」
ナーガの顔色が、さらに青くなっていく。
「もしも、俺が眠ったら。西洋に帰ったとでも伝えろ」
「もう止めていいって、言えなくて……申し訳ありません、ナーガ様。僕、どうしたって……姉様が一番で」
「気にするな。いずれ……竜の番になるかもしれない相手の為だ」
「……竜の宝、までで留めておいてよ。……僕の妃は、姉様以外にないけれど……姉様が僕を、血の繋がらない弟、としか見てないのも、分かってる。王妃の座なんて、どこまでも自由な姉様には、窮屈な鳥かごでしかないことも」
タヤンは、濃いまつ毛を伏せた。
「……僕は姉様が幸せになれるなら、相手が僕じゃなくても……嫌だけど、想像するだけで泣きそうだけど、でもきっと、笑って祝福する。何年もかけて、その準備をしてきた。でも、ナーガ様とじゃ、時の流れだって違うでしょう」
「戯れを、真に受けるな。ただの『宝』だ、今はまだ。愛でていたいだけで、共に生きて……生きたいわけではないさ。……しかし、御姉様の前では何も考えていない子どものようなのに、こちらが本性か」
「子どもぶってないと、後宮にいられないだろ。……髪落としの儀式をのらりくらり先延ばしにするのも、そろそろ限界だ」
タヤンは、感情を排した声で答えた。本来なら、サイアム王国の成人は10歳から13歳。すでに14歳となったタヤンが、髷を落とす成人の儀式を避ける理由は、ただひたすらに、後宮を去りたくないからだった。
10年前、初めてプロイに後宮の外を、空と海を見せてもらったあの日から。タヤンはむしろ、後宮に囚われている。一秒でも長くプロイのそばに居続けるために、どれだけのものを犠牲にしたか。ナーガに理解してもらう必要は、ないけれど。
「――そろそろ、十分な血液量か」
言い終えたナーガの手が震え、メスが床に落ちた。
タヤンがすかさず拾い、ナーガの腕を布でしっかりと縛って止血した。
「……アユタヤの小僧、手際がいいな」
「血を見るのは、平気なんだ。姉様と違ってね」
タヤンは、ナーガの腕を丁寧に包帯で巻きながら——初めて、ナーガに対して敵意のない微笑みを向けた。
血液から血清を分離する作業は、固く瞼を閉ざしたプロイの側で、ナーガとタヤンの二人で行われた。
ナーガが指示を出し、タヤンが手を動かす。
「血液を器に入れたまま放置して凝固させろ。数十分待ち、凝固した塊の上に浮かぶ透明な液体——それが血清だ。慎重に上澄みだけを取れ」
「承知」
待ち時間を、タヤンは無駄にしなかった。テキパキと、プロイを襲った犯人を捕らえるよう指示し、プロイの病室の環境も整えていく。ナーガが『人間にしては、感情に流されない奴だ』と評すると、『流されてるよ。姉様が起きてたら、絶対に犯人を捕まえろって言うから』と、笑った。
そして、数十分後。
「これ? 少し青みがかってる……」
「竜の血清にはヘモシアニン系の銅含有蛋白質が含まれている。青いのはそのためだ。——その血清に、この瓶の中身を三滴だけ混ぜろ。拮抗薬の水溶液だ。三滴以上入れるな。心臓が停まる」
タヤンの手が一瞬震えたが、すぐに安定した。三滴。正確に。
「……これを、姉様に飲ませるの?」
「ヒトの血清は、内服だと吸収効率が悪いが……竜の蛋白質は別だ。口腔の粘膜からでも直接血中へと急速に吸収される。舌下と頬の内側に留めればいい」
ナーガは静かに告げると、銀の匙で血清をすくい、微かに開かれたプロイの唇の隙間から流し込んだ。
——だが、次の瞬間。
「ゴホッ、ガッ……!」
プロイの身体が大きく痙攣し、激しくむせた。喉の奥で液体が詰まったような音を立て、せっかくの血清がプロイの口の端から吐き出されてしまう。
「……下手をすると窒息するな。薬剤の粘膜透過速度を示す拡散の法則……拡散係数も濃度勾配も変えられない。変数たり得るのは……吸収面積」
言うが早いか、ナーガは薬効成分の混ざった血清を自らの口に含んだ。
タヤンが声を上げる隙さえなかった。
ナーガは寝台で眠るプロイに深く覆いかぶさると、大きな両手で、プロイの顔をすっぽりと包み込んだ。
長く美しい指先が、プロイの顎を捕らえ、上を向かせる。滑らかな手つきで、固く結ばれた唇を押し開いた。
直後——ナーガの薄い唇が、プロイの唇を完全に塞いだ。
ナーガの舌が、躊躇いなくプロイの口腔へと滑り込む。
(投与面積を、増大させて……理屈は、分かる、けど。いやだ、こんな……唇を、盗んでいるようにしか)
タヤンの全身が総毛立つが、動くことさえできない。
薬を移し終えても、ナーガは唇を離さなかった。
むしろ、さらに深く隙間なく重ね合う。
大きな手がプロイのうなじへと滑り込み、逃げ場を奪うように髪の根元に深く指を絡めた。
混濁した意識の中にあっても、プロイは驚いて微かに身動ぎしたようだった。薬のせいなのか、それともナーガの熱のせいなのか、もう分からない。
タヤンは凄まじい殺気の籠もった視線をナーガに向けたが……二人の間に生じた、あまりにも濃密な空気に呑まれ、息を詰めて押し黙るしかなかった。
「……姉様。帰ってきて」
タヤンの声が、子どものように小さく震えた。
数分間——永遠のように長い数分間の静寂の後。
プロイの瞼が、微かに動いた。
「…………」
プロイが開眼し、琥珀色の双眸がみえてくる。
「……タヤン……?」
「姉様っ!」
タヤンがプロイに抱きついた。身体ごとぶつかるように。頬を、肩を、髪を、確かめるように触れる。両目から、ぽろぽろと、透明な涙が落ちる。
「よかった……!」
「た、タヤン?! 未婚の王子が、なんで、抱きつくなんて……!?」
サバイは簡単に体を覆う布なので、強く抱きつくと、肩や腹部の素肌が触れ合ってしまう。慣れない感触に、プロイが困惑している。分かっていても、タヤンは腕の力を緩められなかった。
(生きてる。生きてる。温かい。ちゃんと、ここにいる。また一緒に――飛べる)
「姉様は”悪魔の吐息”にやられたんだ。ナーガ様が、自分の血で解毒薬を——」
プロイはナーガの方を見た。
ナーガは壁にもたれかかり、床に座り込んでいた。蒼白な顔色。汗で額に銀色の髪が張りつき、腕には血の滲んだ包帯が巻かれている。呼吸は浅く荒い。
「先生……」
「黙れ。感謝の言葉を聞く体力は、残っていない」
「……何も言えなくなるじゃないか。分かった私は怒ってるんだ。勝手に命を削るな。……あんたまで倒れたら、誰がこの後宮の謎を暴くんだ」
「…………体力が戻ったようだな」
ナーガの唇が、かすかに——本当にかすかに——吊り上がった。
*
【プロイ視点】
ナーガとプロイは、それぞれの病室で、まるで示し合わせたように眠り続けた。
そして3日後の昼、プロイは目覚めた。鋭い痛みが四肢の筋肉を支配する。
(あれ……なんか)
夢見心地のなかでも、うっすらと覚えている。ナーガの熱い唇の感触。
プロイの頬が急速に熱を帯びる。
(ナーガ様が私にキスなんてするわけない……ってこたぁ、夢か? 潜在的な願望? 欲求不満か、私……)
プロイが悶々としていると、当のナーガがプロイの病室のドアを叩いた。
ベッドサイドまで、ナーガ自身もフラフラしながら、近づいてくる。横で、タヤンが杖代わりにナーガを支えていた。
「発熱と湿疹……竜の血を受け入れた副作用にしては、軽いな。プロイが頑丈で良かった」
ナーガの声は、淡々としている。——ただ、その手が、プロイの額の温度を確かめるように触れる動作だけが、優しい。
「あと、2日から10日程度で治まる。だが、この間——免疫系が不安定になる。身体を冷やすな、無理をするな」
「無理をするぞ! こんな非常時に門番の仕事を放棄できるわけが——」
「当面、門は閉めるよ。父上とも相談した。後宮街で変な薬が出回っている……犯人を閉じ込める意図もある」
タヤンが、静かに言った。いつになく大人びた口調に、プロイは少し戸惑う。
「洗濯場で毒を撒いた犯人を、僕の近衛が捕らえたよ」
「……速いな。また無理に、働かせたんじゃないだろうな」
「僕のために働きたいって、言ってくれる子たちだよ。……そう、仕向けているからね。まあ、今はいいじゃない」
「犯人は俺に憧れていて、持ち物が欲しかったのだそうだ」
ナーガは、誰に聞かれてもいないのに、申告した。
「……本当に?」
プロイは、微かな違和感を拭い去りきれなかった。ただのストーカーにしては、周囲を巻き込みすぎ、仕掛けが大掛かりすぎやしないか。
「僕もそこは疑問で。まだ仮説なのだけど……象使い殺害も、ナーガ様の私物窃盗も、背景には同じ黒幕がいる、と踏んでいる」
「……え?」
「……何だと?」
思いも寄らないタヤンの言葉に、プロイとナーガは息を飲む。
「黒幕の狙いは――」
その時だった。病室に、女警吏が駆け込んできた。
「火急の用向きにて、ご無礼つかまつる! 白象様が……忽然と、お姿を消されました!」