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#復讐
草原草原(くさはらそうげん)

1,510
木風
791
#サレ妻
都築七美
1,141
月曜の朝、九時二十分。
真尋が事務所の扉を開けると、入口の受付のところに、黒いコートの女が立っていた。
明るい茶色の髪。長い爪。左手の薬指に、指輪。
瑠美だった。
「おはようございます、真尋さん」
瑠美は、真尋の後ろの事務室のほうを見ながら言った。
「ご相談に来たんですけど。離婚の、お金のこと。税理士さんって、そういうの、見てくれるんですよね」
事務室の中で、大久保が湯呑みを並べる手を止める。坪井が、顔を上げた。
所長室の扉が開いて、神谷が出てくる。
神谷は、瑠美を見た。真尋を見る。それから、瑠美の前に立った。
「お帰りください」
「え」
「ここは、顧問先しか入れない。あなたは顧問先ではない。相談の予約もない。お帰りください」
瑠美は、首をかしげた。駐車場で見たのと、座敷で見たのと、同じ角度だった。
「冷たいんですね、所長さん。恭平さんが言ってたとおり」
神谷は、何も言わなかった。
「真尋さんが、ここで、所長さんに色目を使ってるって。恭平さんが、言ってました。パートの奥さんが、職場の上司に。写真、見ましたよね。お義母さまも、見ました」
瑠美は、真尋のほうに、少し体を向けた。
「真尋さん。法事、楽しみにしてますね」
大久保が、湯呑みを一つ持ったまま、瑠美の後ろに回って、入口の扉を開けた。
「お客様。お帰りは、こちらです」
声は、いつもの大久保の声だった。大きくて、よく通った。
瑠美は、大久保を見て、神谷を見て、それから、笑って、出ていった。扉が閉まった。
大久保が、湯呑みを机に置いた。
「真尋さん。あれが、高梨さん?」
「はい」
「爪、長いわね」
それだけ言って、大久保は湯呑みを配り始めた。
真尋は、鞄を置いてから、所長室の扉を叩いた。
神谷は、机の前に立っていた。座っていなかった。
「所長」
「何だ」
「辞めます」
神谷は、動かなかった。
「事務所の名前が、私のことで、使われます。清算書に、事務所の名前を貸してもらいました。それが、私と所長の、変な噂と一緒に、親戚の前に出ます。顧問先にも、聞こえるかもしれません。先代の事務所です。私が、辞めれば」
「あなたが辞めると、この事務所の数字が狂う」
神谷は、真尋の言葉の途中で言った。
「年末調整三十二件、戻りゼロ。あなたが来る前は、毎年、戻りが五件あった。月次の照合は、あなたが来てから、二十三円で止まるようになった。あなたが辞めると、数字が狂う。それだけだ」
「それだけ、ですか」
「業務だ」
真尋は、神谷の顔を見た。神谷は、真尋を見ていた。目を、そらさなかった。
「分かりました。辞めません」
「それでいい。仕事に戻りなさい」
真尋は、扉を閉めた。
午後、神谷は二時の会議を一つ飛ばした。坪井が、電話で先方に日程を変えてもらっていた。
三時、真尋が顧問先に書類を届けに出るとき、神谷がコートを持って出てきた。
「正面から出る。一緒に」
事務所は、ビルの三階で、裏の階段から出ることもできる。真尋は、いつも裏から出ていた。
「所長、私は、裏から」
「正面だ」
二人で、エレベーターを下りて、ビルの正面玄関から出た。
ビルの前の歩道で、顧問先の社長が一人、立っていた。丸正食品ではない、別の顧問先の人だった。神谷を見て、真尋を見て、少し、首をかしげた。
神谷は、その社長に、頭を下げた。
「社長。うちの篠原です。経理の」
社長は、「ああ、どうも」と言って、頭を下げ返した。
神谷は、真尋のほうを見ずに言った。
「隠すものは、何もない。正面から出て、正面から戻りなさい」
「はい」
真尋は、書類を持って、駅のほうへ歩いた。
後ろで、誠一の声がした。火曜ではないのに、来ていたらしい。
「怜司。はっきり言わんと、伝わらんぞ」
「親父は、黙ってろ」
真尋は、振り返らなかった。
夜。結衣を寝かせてから、電話が二本、鳴った。
一本目は、内藤だった。
「篠原さん。ご主人側が、あなたの不貞の疑いを、出してきました。弁護士から、今日。写真が一枚、ついてる。駅の改札の前。男の人が、あなたに、何かを渡してる」
「手袋です」
「分かってる。見れば、手袋だって分かる。でも、向こうは、法事で、これを使う。親戚の前で、写真を回して、男がいる、と言う。そういう使い方です」
「はい」
「怒らないで。これも、集めて。向こうが出してきたものは、全部、向こうの手札。手札が見えるのは、こっちの得です」
電話が切れた。
二本目は、敏子だった。
「真尋さん。写真、見ました」
「はい」
「法事では、あなたの男のことも、話させてもらうわ。親戚の前で。あなたが恭平を責めるなら、あなたのことも、皆に知ってもらわないと、公平じゃないでしょう。あなたのためを思って言ってるの」
真尋は、何も言わなかった。
「二十二日。十時に、お寺。遅れないで」
電話が切れた。
あなたの男。
真尋は、食卓の上の、赤いボールペンを見た。十一月五日に、所長室で、神谷が机に置いて、真尋のほうに少し押した、安いボールペン。家計簿の九冊目に、ずっと挟んである。
真尋は、それを手に取って、家計簿の二月二十二日の欄に書いた。
『2/22 10時 寺。敏子「あなたの男のことも話す」。写真は手袋』
コメント
1件
みぅです🤍🥀 ああ、瑠美が直接事務所まで来てきたシーン、ここでさらに「爪長い」と大久保が笑った一言がすごく好きです。 真尋が「辞める」と言い出したのに、神谷が「辞めるなら業務だ」と数字だけで返したところ、本当に彼らしいなって思いました。 そして夜の電話…敏子さんの「あなたの男」って言葉、胸に刺さりますね。あの赤いボールペンの描写、好きです。 続きがすごく気になります…!