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NGS_ヘビーなしっぽ
142
#現代
ぽたお
198
猫塚ルイ
9,478
白い。あまりにも白い。 精神科医、九条は、デスクの上のカルテを見つめながら、こめかみを指で叩いた。 目の前に座っている男、佐藤ハルキは、一週間前までの彼とは似ても似つきぬ姿をしていた。
かつての彼は、アイロンのきっちり当たったシャツを着こなし、言葉を選んで話す、絵に描いたような善良な市民だった。しかし、現在の彼は、支給された灰色のスウェットをまとい、爪の間にはどれだけ洗っても落ちない赤色の染料がこびりついている。
何より、その瞳だ。 焦点が合っているようで、その実、数光年先の深淵を見つめているような、虚無的な光。
「佐藤さん、体調はどうですか」
九条は、努めて穏やかな声を出した。
「……静かです。とても、静かだ」
ハルキの声は、かすかに震えていた。
「以前のような耳鳴りは? 記憶が飛ぶような感覚についてはどうでしょう」
「耳鳴りは消えました。でも、記憶は……」
ハルキは、自分の右手をじっと見つめた。
「僕の記憶じゃないものが、僕の中に流れ込んでくるんです。まるで、他人の日記を無理やり脳に流し込まれているような、そんな感覚が」
九条はペンを走らせる。
【解離性同一性障害の進行、あるいは統合失調症的陽性症状の混在】
しかし、そんな教科書通りの診断名が、今のハルキを説明するにはあまりに稚拙であるように、九条は感じていた。
「彼と、話をしましたか」
九条の問いに、ハルキの肩がびくりと跳ねた。
「……彼は、僕の中にいます。話をする必要なんてない。彼が何を考え、次に何をしようとしているのか、血液の流れる音で分かるんです。先生、彼は僕を殺そうとしているんじゃない。僕を素材にしようとしているんだ」
「素材?」
「ええ。ええ。ええ。彼にとって、僕の体や僕の人生は、大きなキャンバスを支えるためのイーゼルに過ぎない。彼は、僕という形を壊して、もっと別の……真実の形に塗り替えようとしているんです」
ハルキは唐突に笑い出した。乾いた、紙をくしゃくしゃに丸めるような笑い声だ。
「先生。ああ先生。昨夜、僕は夢を見た。いや、あれは夢じゃない。そう。夢じゃない。夢じゃないんだ。あれ。あれは彼が見せた景色だ」
ハルキが語り始めた内容は、凄惨なものだった。 真っ白な街。人々が皆、顔のないマネキンのように歩いている。そこに、彼は色を付けていく。マネキンの喉を切り裂き、噴き出す鮮血を絵具にして、モノクロームの街を塗り潰していくのだ。
「美しいんだ、先生。赤は、あんなにも温かくて、生気に満ちているのに、どうしてみんな隠したがるんだろう?」
九条は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「佐藤さん。いけない。それは彼が見せている幻覚です。あなたは、彼と距離を置かなければならない。薬を増やしましょう」
その時だった。 ハルキがゆっくりと顔を上げた。 その表情から、怯えが完全に消えていた。 唇の両端が、不自然なほど左右対称に吊り上がる。
「……九条先生。薬、ね。そんなもので僕が消えると本気で思っているのかい?」
声のトーンが、1オクターブ下がった。 ハルキの中にいた彼が、表層へと這い出してきたのだ。
「……君が、もう一人の彼か」
九条はペンを置き、背もたれに深く寄りかかった。プロとして、動揺を見せてはならない。
「彼なんて他人行儀な呼び方はよしてくれ。僕はハルキであり、ハルキは僕だ。僕は、僕が長年ゴミ箱に捨て続けてきた本音の集合体なんだから」
ハルキは、診察室を見渡した。
「…ここは、清潔で、退屈な部屋だ。ここには生命がない。本当に生きていない。先生、君の顔もそうだ。知識という名の防腐剤で固められた、死人のような顔をしている」
ハルキはそこでまで言って、九条に接近した。もう少し顔を近づければ、キスできるんじゃないか。それくらいの距離まで。
そんなハルキに、九条は毅然として言い張った。もっとも、その毅然が諸刃の剣であることを、ハルキは見抜いていた。
「私は君を助けたいんだ。ハルキさんの自我を、これ以上壊させないために」
「助ける? はは、先生。君は傲慢だな。壊れているのは、僕じゃない。自分を押し殺して、誰かが決めた正しさに従って生きてきたハルキの方だ。僕は彼を解放しているんだよ。あの日、あの部屋で見た肖像画はどうだった? 警察が押収した写真を見たんだろう?」
九条は、思い出す。 ハルキの部屋にあった、あの狂気の色彩。 それは確かに、一人の男が精神を病んで描いたものとしては、あまりにも完成されすぎていた。美しさと吐き気が同居するような、剥き出しの生命力。
「あれは、完成じゃない。分かるだろう? まだ下書きだ」
ハルキは立ち上がり、ゆっくりとデスクに歩み寄った。 警備員を呼ぶべきか。九条の指が非常ボタンに触れようとした瞬間、彼が囁いた。
「先生、君の奥底にあるものを見せてあげようか。君が毎晩、酒に逃げながら必死に隠している、その歪みを。僕には見えるよ。君の網膜の裏側で、何がのたうち回っているのかが」
「……何の話だ」
「ふふ、いい顔だ。今の君は、少しだけ『生きて』いる」
ハルキは、デスクの上にあったペーパーナイフを手に取った。 警備員を呼ぶよりも早く、彼は自分の手のひらを、迷いなく切り裂いた。
「何をしている!」
九条が叫ぶ。しかし、ハルキは痛みを感じている様子もなく、手のひらから溢れ出す鮮血を、真っ白な診察室の壁に叩きつけた。
「さあ、診察を続けようぜ。先生、この赤が何に見える?」
壁に描かれたのは、不気味な円形。 それは次第に目のような形を成していく。 ハルキの血で描かれたその目は、九条をじっと射貫いていた。
「これは君だ、九条先生。観察し、裁き、理解したつもりになっている君自身の投影だ」
ハルキの体は、血を流し続けながら、狂ったように壁を塗り潰していく。
「僕は壊れてなんていない。僕は、世界を正しく塗り替えているだけだ。ハルキも喜んでいるよ。今、僕たちの意識は最高潮に溶け合っている。一人では到達できない、究極の統合だ!」
九条の視界が、ぐにゃりと歪んだ。 血の匂いが、診察室の芳香剤の匂いを上書きしていく。 壁の目が瞬きをしたように見えた。 九条は、自分の指先が震えていることに気づいた。それは恐怖だけではなく、禁断の領域を覗き見てしまった者特有の、忌まわしい高揚感だった。
「さあ、先生……君もこっちに来ないか? 鏡を割って、中の自分と握手をするんだ。怖いことなんて、なんにもないんだぜ?」
ハルキの体をした怪物が、血まみれの手を差し出す。 その背後で、もはやハルキ自身の意志などどこにも残っていないかのような、純粋な狂気の笑い声が部屋を満たした。
数時間後。 診察室には、呆然と座り込む九条と、拘束衣を着せられて眠るハルキの姿があった。 壁の血痕は拭き取られ、表面上はまた白い部屋に戻っている。
しかし、九条の視界からは、あの目が消えなかった。 目を閉じても、網膜に焼き付いた鮮血の赤が、じわじわと広がっていく。
彼は震える手で、カルテに最後の一行を書き加えた。
【患者:佐藤ハルキ。症状:完全な人格の交代。および――治療者の精神領域への深刻な侵食】
九条は、デスクの下に隠していたウイスキーのボトルを取り出し、一気に煽った。 喉を焼く、強烈なアルコールの刺激。 ふと、部屋の隅にある姿見に目をやる。
そこには、今まで見たこともないような、醜悪で、かつ恍惚とした表情を浮かべる自分自身が映っていた。 鏡のなかの九条が、ゆっくりと、彼にしか聞こえない声で囁いた。
「……次は、君の番だ」
コメント
1件
うわ……これ、めっちゃ怖いし重い……😨 読んでて息止まるかと思ったよ。九条先生がプロとして冷静でいようとするほど、ハルキの中の“彼”の狂気が生々しくて、逆に引き込まれた。最後の鏡のシーン、あれはもう侵食始まってるってことだよね…続きが気になるけど、ちょっと心臓に悪いかも(笑)。でも、そういう闇を丁寧に描くの、本当に上手だと思う。