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京都――。
八重桜が咲き誇る芝生広場で、吾妻勇太は言った。財閥嫌いの勇太だ。
「おそらく現在副会長を勤めているのが、最後に生き残った勇太だ。少なくとも本人はそう思っているだろう」
暗殺者には状況がうまく理解できなかった。
「なら兄さんはなぜこうして生きている? まさか他の兄さんが知らないうちに増殖して、どこかに隠れて過ごしていたのか?」
「いや、俺は母体である勇太が生涯最後に生んだ俺だ」
「そんなことがあり得るのか? 崖から飛び降りて死んだんだろ?」
焼酎の入った紙コップを持つ手がとまった。
「そうだ。断崖絶壁から落下して、あいつは死んだ。だが俺は助かった」
「うまく理解できないな。母体が落下して死んだのに兄さんは生きているなんて」
そのとき暗殺者の頭の中にある風景が浮かんだ。
車で移動中に増殖し、空中に放り出された自分。
気がついたときには畑の中を転がっていた数日前の記憶。
「俺はたしかにあの崖から落ちた。だが落下中に分裂して生まれたんだ」
それは母体の勇太が月を捕まえようと崖から飛んだ直後のことだった。
死へとまっすぐに落下していく勇太のそばに、別の勇太が現れた。
母体である勇太はそのまま岩の上に落ち、頭蓋骨と首を折って即死した。
空中で増殖した新しい勇太は、運良く岩のない海に投げ込まれた。
気がついたのは海中だった。
暗黒に包まれた海の中で、新しい勇太は方向感覚を失った。
闇雲に海面へと浮き上がるために手足をバタつかせた。しかしより深いところに潜っているのではないかとの気になった。
どこに向かえば、この海から脱出できるのか。
――月!
勇太は目を開けて口から空気を吐き出した。
空気は気泡となってあごをかすめて足の先へと流れていった。
反対だ!
勇太は体勢を180度変え、気泡を追って泳いだ。
すぐにぼやけた月が浮かんでみえた。
蜃気楼のように揺れる月明かりに向かって、勇太はさらに速度をあげた。
どうにか海の上に顔を出して荒々しく息を吸った。そして一番近い岩まで泳ぎ、両手で捕まえた。
――月が俺を助けてくれた。
そう感じるのと同時に、恐怖が勇太の全身を取り巻いた。
2メートルほど先の岩に誰かがいる。その誰かはまっすぐに自分を見ていた。
吾妻勇太が目を大きく開けたまま死んでいた。
「俺が分裂したと知ったのは、まさにその瞬間だった。母体と目が合ったからにはそう思うしかないだろう」
勇太は月を見るように八重桜を仰ぎ見た。
「でも母体と同じように落下してたんだから、いくら岩に衝突しなかったからって生き残れるような状況じゃないと思うんだがな」
「俺の記憶が正しいかどうかは俺自身もわからない。でも思い返せば見たような気がする。母体が岩に叩きつけられた瞬間を」
「つまり兄さんは母体より遅れて海面に到着したってのか?」
暗殺者がずっと抱いていた謎が、この瞬間に解けた。
道路に投げ出された自分が、なぜ死ななかったのか。
「増殖した瞬間、一瞬空中にとまっていたかもしれんな。なぜなら兄さんは『母体とは別の実体』であって、『母体の速度』まで引き継いだわけじゃないからな」
「ああ、そうかもしれんな。その点について考えたこともなかったな」
生き残った勇太は腕と肋骨が折れていた。さらには数カ所の打撲を負い、首はむちうち症になった。
重症であるため、とてもじゃないが遠くにある浜辺まで泳げる状態ではなかった。
勇太は岩を掴んだまま動けず、正常な片腕だけで何時間もそこにいた。
全裸で岩にしがみついてため、徐々に体が冷えていく。
低体温症を避けるためにも、母体の服が欲しかった。
しかし頭が割れて目玉が半分ほど飛び出した母体の服を脱いで着る勇気などなかった。
時間が経つにつれ、海の生き物たちが母体に集まってきた。
死んだばかりの新鮮な肉を狙い、大量のフナムシをはじめとした様々な生命体が母体に覆いかぶさっていく。空には鷲が旋回していた。
このまま岩にしがみついていては、母体の次に自分が狙われる。
体の痛みがひどく、簡単には決断できなかった。しかし時間を稼いだところで状況はひどくなるだけだと悟った。
押し寄せる恐怖と戦いながら、勇太は岩から手を離した。
正常な一本の腕と、損傷を受けた足で海を泳ぎきり、九死に一生を得た。
「しそね町の絶壁で発見された遺体。あれは本当に兄さんだったんだな……」
「警察は相当混乱しただろうな。遺伝子検査の結果、勇太であることが明らかなのに、数日後に生きて記者会見まで開いたんだから」
「この件、どうするんだ? 盛一郎おじさんは困難な立場にあるはずだ」
菊田星花の父親で、現警察庁長官官の菊田盛一郎。
現在警察は、死体のひとつもろくに検査できない無能集団との非難を浴びている。そのため特に犯罪案件において、遺伝子の再検査を要求する裁判が続出しているという。
「もう起こったことだから、どうしようもないだろ。警察が謝罪し、身元不明で処理しておしまい。ただそれだけさ」
「兄さんがひとりじゃないことがバレたらどうするんだ? そうしないために命をかけて殺し合ったんじゃなかったのか?」
「どうやったら俺が複数だってバレるんだ? 実は吾妻勇太副会長は10人だったってニュースで報じるのか? 原則的に人間は、ひとつの人格に対しひとりだと規定されてるよな。これは社会常識じゃなく、生物の鉄則だ。息をするのと同じくらい当たり前のことだ。
なのに副会長である勇太が会見を開いて、「あの死体は私のものです」と言わなければならないのか。誰がそれを信じるってんだ?」
「誰も信じないし、株価が大暴落するだけだ。あそこの副会長は完全に狂っちまったってな」
「だろ? だからこの件については余計なことを考えない方がいい。警察側の賢い大人たちが何とかしてくれるだろう」
勇太はほとんど感情もなく言った。
こうも淡々と話せるのは、すでにこの件に関して十分に考え尽くしたからだと暗殺者は理解した。