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あいうえお
118
るしゅ
180
京都――。
八重桜が咲き誇る芝生広場で、吾妻勇太は言った。
財閥嫌いの勇太だ。
「おそらく現在副会長を務めているのが、最後に生き残った勇太だ。少なくとも本人はそう思っているだろう」
暗殺者には、状況がうまく理解できなかった。
「それなら兄さんはなぜこうして生きている? まさか他の兄さんが知らないうちに増殖して、どこかに隠れて過ごしていたのか?」
「いや、俺は母体である勇太が、生涯最後に生んだ俺だ」
「母体は崖から飛び降りて死んだんだろ?」
焼酎の入った紙コップを持つ手が止まった。
「そうだ。断崖絶壁から落下して、あいつは死んだ。しかし俺は助かった」
「うまく理解できないな。母体が落下して死んだのに、兄さんは生きているなんて」
そのとき、暗殺者の頭の中にある風景が浮かんだ。
車で移動中に増殖し、空中に放り出された自分。
気がついたときには畑の中を転がっていた、数日前の記憶。
「俺はたしかに、あの崖から落ちた。しかし落下中に分裂して生まれた」
それは、母体の勇太が月をつかもうとして崖から飛んだ直後のことだった。
死に向かってまっすぐに落下していく勇太のそばに、別の勇太が現れた。
母体である勇太は、そのまま岩の上へ落ちた。
頭蓋骨と首を折り、即死だった。
空中で増殖した新しい勇太は、運よく岩のない海へ投げ込まれた。
意識を取り戻したのは、海中だった。
暗黒に包まれた海の中で、新しい勇太は方向感覚を失った。
闇雲に海面へ浮き上がろうとして、手足をばたつかせる。
しかし、より深いところへ潜っているのではないかという恐怖にとらわれた。
どこへ向かえば、この海から脱出できるのか。
月。
勇太は目を開け、口から空気を吐き出した。
空気は気泡となってあごをかすめ、足の先へ流れていった。
逆だ。
勇太は体勢を180度変え、気泡を追って泳いだ。
すぐに、ぼやけた月が浮かんで見えた。
蜃気楼のように揺れる月明かりに向かって、勇太はさらに速度を上げる。
どうにか海の上に顔を出し、荒々しく息を吸った。
それから一番近い岩まで泳ぎ、両手でしがみついた。
月が俺を助けてくれた。
そう感じるのと同時に、恐怖が勇太の全身を取り巻いた。
2メートルほど先の岩に、誰かがいる。
その誰かは、まっすぐに自分を見ていた。
吾妻勇太が、目を大きく開けたまま死んでいた。
「俺が分裂したと知ったのは、まさにその瞬間だった。母体と目が合ったからには、そう思うしかないだろう」
勇太は月を見るように、八重桜を仰ぎ見た。
「でも母体と同じように落下していたんだから、いくら岩に衝突しなかったとしても、生き残れる状況じゃないと思うんだがな」
「俺の記憶が正しいかどうかは、俺自身にもわからない。でも思い返せば、見たような気がする。母体が岩に叩きつけられた瞬間を」
「つまり兄さんは、母体より遅れて海面に到着したってのか?」
道路に投げ出された自分が、なぜ死ななかったのか。
暗殺者がずっと抱いていた謎が、この瞬間に解けた。
「増殖した瞬間、一瞬だけ空中に止まっていたのかもしれんな。なぜなら兄さんは母体とは別の実体であって、母体の速度まで引き継いだわけじゃないから」
「そうかもしれない。その点については考えたこともなかった」
生き残った勇太は、左腕と肋骨に激しい痛みを負っていた。
あとになって、骨にも異常があったことがわかる。
さらには数か所の打撲を負い、首もむちうちのように動かせなかった。
重症であるため、とてもではないが遠くにある浜辺まで泳げる状態ではない。
勇太は岩をつかんだまま動けず、比較的まともに動く片腕だけで、何時間もそこにしがみついていた。
全裸で岩にしがみついていたため、徐々に体が冷えていく。
低体温症を避けるためにも、母体の服が欲しかった。
しかし頭が割れ、目玉が半分ほど飛び出した母体から服を剥ぐ勇気などなかった。
時間が経つにつれ、海の生き物たちが母体に集まってきた。
死んだばかりの新鮮な肉を狙い、大量のフナムシをはじめとした様々な生命体が、母体に覆いかぶさっていく。
空にはトビが旋回していた。
このまま岩にしがみついていれば、母体の次に自分が狙われる。
体の痛みがひどく、簡単には決断できなかった。
しかし時間を稼いだところで、状況は悪くなるだけだと悟った。
押し寄せる恐怖と戦いながら、勇太は岩から手を離した。
正常に近い片腕と、損傷を受けた足で海を進む。
何度も沈みかけながら、それでも月明かりと岩の形を頼りに泳ぎ続けた。
そして九死に一生を得た。
「しそね町の絶壁で発見された遺体。あれは本当に兄さんだったわけか……」
「警察は相当混乱しただろうな。遺伝子検査の結果、勇太であることは明らかなのに、数日後には生きて記者会見まで開いたんだから」
「この件、どうするんだ? 盛一郎おじさんは困難な立場にあるはずだ」
菊田星花の父親で、現警察庁長官の菊田盛一郎。
現在警察は、死体のひとつもろくに検査できない無能集団との非難を浴びている。
そのため特に犯罪案件において、遺伝子の再検査を要求する裁判が続出しているという。
「もう起こったことだから、どうしようもないだろ。警察が謝罪し、身元不明で処理しておしまい。ただそれだけさ」
「兄さんがひとりじゃないことがバレたらどうするんだ? そうならないために、命をかけて殺し合ったんじゃなかったのか?」
「どうやったら、俺が複数だってバレるんだ? 実は吾妻勇太副会長は10人だったってニュースで報じるのか?」
勇太は淡々と言った。
「原則的に人間は、ひとつの人格に対しひとりだと規定されている。これは社会常識じゃなく、生物の鉄則だ。息をするのと同じくらい当たり前のことだ」
「まぁ、それはそうだ」
暗殺者は紙コップの焼酎を口にした。
「だろ? だからこの件については、余計なことを考えないほうがいい。警察側の賢い大人たちが何とかしてくれるだろう」
勇太は、ほとんど感情もなく言った。
こうも淡々と話せるのは、すでにこの件に関して十分に考え尽くしたからだと、暗殺者は理解した。
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