「殿下、殿下!」
自分を呼ぶ声がして、ハッと我に返る。
バルコニーの柵に足をかけ、ここから飛び降りようとしていた。理由は単純だ。エトワールが他の男と喋っているから。それもよく見知った奴に。
俺は、自分の服を掴んで引き止めた聖女、トワイライトの方を見れば、彼女は困ったように、焦ったように俺に話しかけてくる。
「ダメです。殿下」
「何故だ?」
「ここは、二階です」
「それは、先ほども聞いた」
そう俺が返せば、やや強く言ってしまったこともあり、彼女は俯いてしまった。そういう弱々しい態度で気を引こうとしているのか、はたまたそういう性格なのかは分からなかったが、どうも好きになれなかった。偏見と女性への多少の恐怖心と不信感からか、俺はどうにもトワイライトを好きになれずにいた。
それは、前世の自分に告白してくる女性の告白の理由が俺の容姿や家の事ばかりだったからだ。俺の事をそういう目でしか見ていない奴らのことを、どうして好きになれるだろうか。
俺は、俺の容姿ばかり見る女性のことが怖かった、嫌いになった。俺にはそれしか取り柄がないのかと。勿論、他の理由もあった。勉強ができるだとか、スポーツ万能だとか。だが、それらはただの付属品にしか過ぎない。付属品、というよりかは他にも出来る奴なんて山ほどいる。なのに、どうして俺なのだろうかと。その理由を辿れば最終的には顔だったり容姿に行き着く。それが、たまらなく嫌だった。俺の事何も知らないくせに、知ったように格好いいだの好きだの言う。俺が冷たく告白を断れば、酷いと泣いてしまう女性もいた。そういう覚悟もないくせに、どうして告白ができるのか。別にその女性の容姿がアレな訳でも勉強ができない、スポーツができないなど別にどうでもよかった。ただ、人として俺をどう見ているのか、そういう面で見たとき、やはり心を動かされた告白はなかったわけだ。
そんなことを思っていたせいもあって、目の前にいる彼女もきっとそうなのだろうと思えば、苛々した気持ちが募りつい強い口調になってしまう。
「殿下が怪我されると、心配する人がいると思います。わ、私も心配しますし、怪我したら、いたいです」
と、トワイライトは震えながらも俺に必死に訴えかけてきた。
だが、俺は目先の事に囚われすぎてたこともあって、自分の身体のことなどどうでもよかった。勿論、彼女の言葉も耳に届いてすらいなかった。
俺はちらりと、下の庭園で紅蓮の髪の男、アルベド・レイ公爵と話すエトワールを見た。ここからじゃ何を話しているかまでは、はっきりと聞えないが、彼女が俺と話すときとはまた違う反応を彼に見せていたため、俺の苛立ちは頂点に達していた。
自分が如何に愚かで、小さい男か分かってはいた。
だが、別れても尚、彼女のことを思って努力をして、愛を伝えてきたというのに、俺は彼女から何も得られていない。見返りを求めることさえ浅ましくて愚かしいが、それでも欲しくなってしまう。彼女の全てが欲しい。強欲だと、自分でも思う。
強欲で、情けなくて、浅ましい。
こんな自分を、彼女に知られたくない。だが、それ以上に彼女が他の男に笑顔を向けているのが許せなかった。俺だけを見て欲しかった。
だから、バルコニーに足をかけていたのだ。そして、ここから飛び降り彼女の元へと行きたかった。
けれど、トワイライトに止められてしまった。彼女は俺の腕を掴んで離さない。
(ああ、もう……!)
本当に邪魔だ。俺を止めるな。
と、内心怒りに満ち溢れていた時、ふと頭に浮かんだのはエトワール、巡の顔だった。彼女は俺が怖い顔をすると怯えたような表情をしていた。それは、今、トワイライトが俺に見せているものと同じで、彼女とトワイライトが重なってしまい、俺は行き場のない怒りをバルコニーの手すりにぶつけた。石で出来たそれはパラパラと崩れてしまう。
「殿下、どちらに!?」
「ついてくるな」
「で、ですが」
「お前が、飛び降りてはいけないと言ったのだろう。だから、下まで降りるだけだ」
トワイライトの言葉を無視して俺は歩き出す。後ろからは、俺の名前を呼ぶ声がしたが無視をした。
バルコニーを出て、階段を降りていく。
早く、エトワールの元へ行かないと。あの男は危険だ。何故か分からないが、そう思った。
嫌な痛みがねっとりとどろりとした黒い感情が心にたまっていくのを自分でも感じていた。こんなに自分は感情的だったのかと、自分で情けなく思った。ルーメンの言うとおりで、俺はエトワールの事が絡むと周りが見えていないらしい。それすら分かっているのに、どうしても自分を抑えられなかった。
罪のない女性に八つ当たりをし、エトワールは自分のものだと言い張って。
確かに、こんな男は嫌われて当然だと思った。分かっている。でも、諦めきれないのだ。
(俺は、過った。巡が大事にしていたチケットを破って。彼氏がいながらも、彼氏が欲しいなんて言うから……)
彼女の趣味は理解していた。それはもやっとはしたが、許容範囲だと思った。だが、いざ目の前で言われてみれば、自分でも気づかないうちに彼女の大切なチケットを破っていた。そうして、俺は彼女に別れを告げられた。
感情的になってはダメだと、それから何度も自分に言い聞かせたのに。
会場をサッと通り抜け、誰もいない静かで長い廊下をひたすら歩いて俺はエトワールの元に向かうことにした。
バルコニーから見えた彼女の姿。俺には向けない表情を、この世界で知りあったばかりの男に向けて。
足早に歩いていると、廊下の隅で誰かがすすり泣いていた。
(こんな所に、子供が……?)
俺が不思議に思いながら近寄ると、そこには小さな少年が膝を抱えて泣いていた。その様子はまるで何かから隠れるように。だが、こんな所に一人で子供がいるだろうかと疑問に思った。会場からは遠く離れているし、今夜招待されているのは貴族ばかり。ということは、きっとその貴族のご令息か何かなのだろうが、全く見覚えがなかった。顔を覚えるのは得意なはずなのだが。
つやつやとした黒い髪に、上質な絹のような肌触りの良さそうな生地の白い服。それはとても高価なものだと分かるもので、爵位の低い身分の貴族ではないことが一目で分かった。だからこそ、不思議に思った。だが、俺は子供がそこまで好きではなかったし、そんな良いところの貴族が迷子になっているのであれば、従者の一人や二人が慌てて探し回っていることだろう。俺が話しかけたところで。そんなことを思いつつ、エトワールの事で頭がいっぱいな俺はその少年の隣を通り過ぎようとした。
「リース・グリューエン皇太子殿下」
と、先ほどまで泣いていた子供が妙に澄んだような、感情のこもっていないような声で俺の名を呼ぶので俺は思わず足を止めてしまった。いや、身体が勝手に止ったという方が正しいか。
一体何なのだと、名を呼んだ少年の方を見れば彼はゆっくりとした動作で俺を見上げた。涙で濡れる大きな瞳は綺麗な紫色で、一瞬、美しい少女と見間違えてしまったほどだ。しかし、その顔からスッと涙が引いていき、不気味なほどにそこの見えないアメジストの瞳が俺を捉えた。
(何だ、この違和感…………)
嫌な汗が額を背筋に流れる。
俺が警戒していると、少年はふっと口角を上げて微笑みを浮かべた。そして、ぬっと立ち上がって俺の方へと近づいてきた。足取りは軽いのに何処かふらふらとしているようにも見え、目の錯覚かと俺は目を擦る。しかし、擦れば擦るほど視界が歪むようで、頭痛さえしてきた。
俺よりも幾らも低いくらいの少年。なのに、何故だか俺の方が圧倒されてしまいそうだった。圧倒というよりかは、恐怖感。
「何だ、お前は」
「初めまして、帝国の光……リース・グリューエン皇太子殿下。僕は、ブリリアント家の次男、ファウダー・ブリリアントと申します」
と、少年は先ほど泣いていたとは思えないほど丁寧に挨拶をし、頭を垂れた。その様子に俺は拍子抜けしてしまう。
子供とは思えない落ち着きよう。そして、言葉遣いの丁寧さ。それはどこか育ちの良い貴族を思わせる。俺は眉間にしわを寄せて考え込み、聞いたことのある名に納得する。
(黒髪に、アメジストの瞳……エトワールとトワイライトの魔法の師である、ブリリアント卿の弟か)
脳裏には、正しく儚い彼と同じ綺麗なアメジストの瞳を持つ侯爵家の跡取りであるブライト・ブリリアントの顔が浮かんだ。確かに、似ていると言えば似ているのだが、ブリリアント卿から感じる雰囲気とは全く違う、底知れぬ何かを秘めている少年だと思った。その、淀みのあるそこの見えないアメジストの瞳から、俺は目をそらしたくなるほどに。
俺は、頭を抱えファウダーと名乗った少年の方を見た。少年は微動だにせず、俺の方をじっと見上げている。
「ブリリアント卿の弟か、こんな所で何をしているかは知らないが、貴様の従者が探し回っているのではないか? それに、兄も心配していることだろう」
「心配、ですか?」
きょとんと、ファウダーは目を丸くし、何かが可笑しいように笑い出した。
まるで、心配していることに対して喜びや愉しみを見つけたような表情。子供とは思えないその顔に、俺の背筋にはやはり冷たいものが流れる。居心地が悪く、従者が探しに来るだろうと思い、俺は彼を置いて再び歩き出そうと足を一歩踏み出した。
「聖女様。エトワール・ヴィアラッテアの事が気になるの?」
「何?」
クスクスと笑いながら、そう口にしたファウダーに俺は眉間に皺を寄せ彼を睨み付けるために振返る。すると、彼のそこの見えないアメジストの瞳と目が合って、俺は目を離せなくなってしまった。金縛りにでも遭ったかのように動けずにいると、ファウダーは俺の前までゆっくりと歩いてきて、それから二三回俺の周りをぐるぐると回った。その間、俺は動くことができずに、ただただ意味の分からない彼の行動を監視することしかできなかった。
「リース・グリューエン皇太子殿下は、偽物の聖女エトワール・ヴィアラッテアの事が好き」
「……ッ」
「誰よりも彼女を愛しているのに、誰よりも彼女を欲しているのに、彼女は振向いてくれない」
その言葉に、俺は息を飲む。どうしてそれを、この少年は知っているのか。ルーメン以外には話していないのにと、動揺を隠しきれずにいると、彼は俺の目の前で立ち止まり、そして俺の顔を覗き込むようにして見上げる。
「可哀相だね。どれだけ欲しても願っても手に入らないの」
「黙れ」
「もしかしたら、他の人に奪われてしまうかも知れない」
「黙れ、黙れ」
「表では彼女の幸せを願っているけど、本当は如何なんだろう。彼女の周りにいる全てを、彼女の全てを欲しいんでしょ?自分のものにしたいんでしょ? 他の人なんてどうでもイイし、消えてしまえって思ってる。強欲だね」
「黙れ、黙れ、黙れ!」
俺の叫び声が、誰もいない静まりかえった廊下に響く。
自分の黒い感情がずるずると引き出されるような、殺意や怒りがないところからわき出てくるようなそんな気持ちの悪い感覚に俺はおかされていた。
正常な判断ができない頭と、動かない身体。そうして、俺の目の前で愉快そうに笑うファウダーを見て、俺は息を切らすしかなかった。
「ねえ、エトワール・ヴィアラッテアを自分のものにしたい?」
「…………ああ」
「二人だけの世界を作りたい?」
「……ああ」
「彼女の全てが欲しい?」
「ああ」
誘導されるように、俺はファウダーの質問に答えていった。
欲しいと言う感情が。
エトワールを自分のものだけにしたいと言う感情が。
彼女以外の全てを駆逐して、彼女と俺だけの世界を作りたいという欲望が。
渦巻いて、渦巻いて顔を出す。黒くて、醜い感情が表にあふれ出す。
手に入らないのなら、奪ってしまえ。
欲望のままに、彼女を自分のものに。
「僕なら、貴方の願いを叶えてあげられるよ」
と、ファウダーは俺に向かって手を差し伸べた。
ようやく動くようになった身体は、彼の手を振り払うこともエトワールの元に向かおうともしていなかった。ただただ、目の前に差し出された手をとらなければと言う衝動に、命令に下が事しか出来なかった。
俺は、差し出された小さな白い手を取る。
「それじゃあ、彼女を手に入れに行こうか。帝国の光……リース・グリューエン皇太子殿下……強欲の皇太子、リース・グリューエン」
ファウダーが不気味に笑ったのを、俺は薄れる意識の中でぼんやりと見ていた。