テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
四月。塩尻の御殿の中に、証が、流れ始めた。
最初は、一人だった。薪を割って、半枚を稼いだ男。次に、三人。三人は、峠を下りて、木曽の味噌を買った。味噌を、塩尻に持ち帰った。塩尻の御殿で、味噌は、珍しかった。御殿の米は、御殿の倉庫から来る。味噌は、来ない。
三人は、味噌を、他の兵に、分けた。分けた兵が、「どこで」と聞いた。「木曽で。証で」と、三人は答えた。
翌週、十人が、峠を下りてきた。
要は、まだ、東京に発っていなかった。発てなかった。御殿の兵が、毎週、峠を下りてくる間は、三冊の台帳の前に、つむぎと一緒に、座っていなければならなかった。
「覚えました」
つむぎは、毎週、十人、二十人の、顔を覚えた。四月の終わりには、塩尻の御殿の三百人のうち、八十人の顔が、市の台帳にあった。
*
「隊長は、知ってるのか」大畑が聞いた。
「知ってます」要は言った。「知ってて、止めてない。止められない。止めたら、兵が、味噌を食えなくなる。味噌を食えなくなった兵は、隊長を、恨む」
「隊長は、三割、取った」
「取りました。三百キロ。でも、三百キロは、塩尻の三百人で、一ヶ月で食い尽くした。今、塩尻の御殿には、御殿の倉庫の米と、木曽で証で買った味噌がある。倉庫の米は、東京から来る。東京は、割れてる。来ない月が、出始めてる」
「来なくなったら」
「来なくなったら、塩尻の三百人は、木曽の米を、取るか、買うか、選ぶ。取れば、来年、木曽に米がない。買えば、来年も、ある。八十人は、もう、買ってる。八十人が、残りの二百二十人に、それを言う」
大畑は、黙っていた。
「お前の読みどおりに、なってる」
「半分は。もう半分は、わかりません。隊長が、八十人を、バツにするかもしれない。御殿の台帳で」
「したら」
「したら、八十人は、御殿の台帳に名前がなくなる。市の台帳には、ある。八十人は、市に来る。塩尻の御殿は、二百二十人になる」
*
五月の最初の週、隊長が、峠の小屋に来た。
一人で。黒い作業着を、着ていなかった。
「……話がある」
要は、机の向こうに座った。隊長は、椅子に座らなかった。立ったまま、言った。
「東京から、米が来なくなった。二ヶ月。倉庫は、あと、半月分」
「はい」
「おれは、三割、取った。それで、一ヶ月、持った。あと半月で、また、取りに来る。六十人で」
「はい」
「だが、六十人のうち、四十人が、木曽の証を持ってる。四十人は、『取るな。買え』と言う。おれが『取る』と言えば、四十人は、来ない。二十人で、木曽の蔵は、取れない。大畑が、蔵の前に立ってる」
要は、何も言わなかった。
「……おれは、どうすればいい」隊長は言った。
怖い目だった。権田のいない御殿の、隊長の目。三百人を食わせられない目。
「買ってください」要は言った。
「何で。現金は、木曽で使えない」
「証で」
「証は、持ってない。おれは」
「働けば、払います。あなたも、他の兵と、同じです。薪を割れば、一束、半枚」
隊長は、要を見た。
「……おれに、薪を割れと」
「はい」
「隊長だぞ」
「隊長は、御殿の台帳の話です。市の台帳には、あなたの名前はまだない。名前を書くには、顔を覚えて、働いた分を書く。全員、同じです。権田さんでも、同じだった」
隊長は、長い間、立っていた。
「……三百人の、米は」
「三百人が、働けば、三百人分の証が出る。塩尻に、薪はあります。山がある。塩尻の三百人が、薪を割って、木曽に運べば、木曽の米が買える。一ヶ月分なら、薪六千束。三百人で、二十束ずつ。一週間の仕事です」
「薪六千束を、木曽は、要るのか」
「要りません。木曽には、薪はある。でも、諏訪が要る。下流が要る。五つ目の村も、たぶん。塩尻の薪を、市が買って、四つの村と五つ目の村に、売る。市は、間で、少し、取る。それが、市です」
隊長は、椅子に、座った。
「……権田さんが、御殿の中で、お前の仕組みを使ってた。今度は、お前が、御殿を、市の中で使うのか」
「使いません。御殿が、市に入るだけです。五つ目の村の、次の、六つ目として」
「御殿が、村になるのか」
「村です。三百人の。山があって、薪がある。米はない。米は、買う。それは、諏訪と同じです。諏訪は、魚があって、米がない。だから、湖を作って、証と替えた。塩尻も、同じことができる」
隊長は、机の上の、三冊の台帳を見た。
「……御殿の三冊は、権田さんの目の写しだと、お前は言った」
「言いました」
「おれの目の写しに、するか」
「しないでください」要は言った。「三百人から、三人を出してください。あなたの命令で書かない三人を。それが、三冊です」
隊長は、立ち上がった。
「……薪は、どこで割る」
「薪小屋です。峠を下りて、左」
隊長は、峠を下りていった。
その日、三冊の台帳に、一行が増えた。『塩尻、隊長。薪二束。証一枚』。
つむぎが、隊長の顔を、覚えた。
「どんな顔だった」要は聞いた。
「怖い顔じゃなくなってた」つむぎは言った。「薪を割る顔。働く人の顔」
コメント
1件
いよいよ隊長が動き出す回ですね。要の理論が現実になって、隊長が迷ってなお薪を割る方を選ぶ場面がとても心に残りました。つむぎの一言がすべてを物語っているようで、素敵でした。
リフェアリー
128