テラーノベル
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侯爵様は、私の手を引いて、広間の真ん中へ歩いていった。
楽団の指揮者が、こちらを見て、慌てて指揮棒を上げる。
円舞曲が、また始まった。
磨かれた床の上で、踊っていた人たちが、一組、また一組と足を止めた。
気がつくと、シャンデリアの真下に、私たちだけが残っていた。
何十という目が、輪になって私たちを囲んでいる。扇の陰の囁き。杯を持ったまま固まった紳士。
「下を見るな」
侯爵様が、私にだけ聞こえる声で言った。
「私を見ていろ」
一、二、三。
侯爵様が下がり、私が出る。応接間の月明かりの中で、何度も繰り返した三拍子。
一歩目は、踏まなかった。二歩目も。
侯爵様の黒い手袋の手が、私の背中をわずかに押し、わずかに引く。それに任せていると、足は勝手に次の場所を見つけた。
藤色の袖が膨らんで、萩の裾が床の上で円を描いた。
回るたびに、シャンデリアの光が、帯留めの銀の上を流れていく。
輪の外の顔が、少しずつぼやけていった。
囁きも、もう耳に入らない。
見えるのは、すぐ上にある灰色がかった黒い目だけだった。
その目は、広間のどこも見ていなかった。私だけを、見ていた。
妻殺し、と呼ばれる人の目が、こんなに静かなはずはない。そう思ったのは、この夜が初めてだったかもしれない。
最後の小節で、一度だけ侯爵様の爪先を踏んだ。
「……構わない」
囁く声の端が、ほんの少し、ほどけていた。
曲が終わった。
しんとした広間の、どこかで一人が手を叩いた。それにつられるように、ぱらぱらと拍手が起きた。
叔父様の大声も、宇佐美先生の気障な声も、聞こえなかった。
楽団の壇の脇で、麗子様だけが、閉じた扇を左手に握りしめたまま、手を叩いていなかった。
*
侯爵様は、拍手の中を抜けて、広間の端の硝子扉を押した。
夜気が、頬に触れた。
石の欄干に囲まれたバルコニーだった。眼下の庭で、噴水が細い水を噴き上げている。その向こうに、番町の屋敷町の灯が、点々と瞬いていた。
背中の硝子扉越しに、楽団がまた別の曲を始めたのが聞こえる。
侯爵様は、欄干に両手をついた。
しばらく、何も言わなかった。
私も、何も言えなかった。帯の内側の紙が、急に重くなった気がした。
「申し訳ございません」
口から出たのは、それだった。
「私のせいで、旦那様のお名前に、また泥が」
「泥なら、とうに被っている」
侯爵様は、振り向かずに言った。
「妻を二人亡くした男だ。今さら一つ増えたところで、重さは変わらない」
淡々とした声だった。慰めているのか、自分を嗤っているのか、わからない。
けれど、その言い方は、どこか、ずっと昔から言い慣れている言葉のように聞こえた。
「旦那様は、ご存じなのですか」
ようやく、それだけ訊いた。
「今夜、何が読まれるのか」
「知らない」
侯爵様は、庭を見下ろしたまま答えた。
「だが、麗子が何かをするときは、いつも人の前だ。昔から、そういう女だった」
麗子、という名前が、夜風の中に落ちた。
私は、その名前を呼ぶ声の平らさを、黙って聞いていた。
噴水の水音が、しばらく続いた。
それから、侯爵様が、ぽつりと言った。
「小夜子も千鶴も、私は守れなかった」
私は、息を止めた。
守れなかった。
殺した、ではなく。死なせた、でもなく。守れなかった。
嫁いで四日目の晩を、思い出した。
和館の二階の暗い廊下で、閉め切られた萩の間の板戸に、この人は額をつけて立っていた。右手に、鍵を握りしめて。
泣いているのか、祈っているのか、悔いているのか。踊り場の陰からは、顔が見えなかった。
あのとき私は、殺した人だからこそ、あの部屋の前へ来ずにはいられないのだと考えた。
けれど、もしかしたら。
守れなかった人の部屋の前で、ただ、謝っていたのだとしたら。
私は、あの夜の自分の考えを、まだ一つも打ち消せずにいる。打ち消したいと思っている自分にだけ、今、気がついた。
侯爵様の横顔は、硝子扉から漏れる光の中で、相変わらず何も動いていなかった。けれど、欄干を握った黒い手袋の指の節が、白く浮き上がって見えた。
「旦那様。守れなかった、というのは」
誰から、ですか。
その問いを口にする前に、背後の広間で、弦の音がふっと途切れた。
ちん、ちん、と硝子の杯が鳴る。
壁の大時計が、十時を打ちはじめた。
「お待たせいたしました、皆様」
硝子扉の向こうから、よく通る声が聞こえた。麗子様の声だった。
「それでは、白百合さんの『青髭侯爵夫人の日記』。来月号に載る、未発表の続きを」
朗読が、始まる。
*
私は、欄干の上の侯爵様の手を見た。
それから、自分の手を見た。踊り終えてから、ずっと繋がれたままだった。
夜会で何があっても、私の手を離すな。
この人は、そう言った。
けれど、あの一行を止められるのは、この人ではない。
あの紙が何で、誰の手から出たのか。それを読めるのは、ここには私しかいない。
帯の内側には、白百合の原稿と、招待状の封筒がある。子爵夫人の言葉も、もう聞いた。
足りないものは、一つだけ。あの人が、言い逃れのできない場所に立つことだ。
麗子様は、今、自分でその場所へ上がっていった。広間の真ん中、社交界の目がいちばん集まるところへ。
「旦那様」
私は、侯爵様の手を、そっとほどいた。
侯爵様が、初めてこちらを振り向いた。
「少しだけ、離します」
黒い手袋の指が、私の指先を追うように、わずかに動いた。
「必ず、戻ります」
侯爵様が何か言うより先に、私は硝子扉を押した。
*
広間は、さっきより人が詰まっていた。
楽団の壇の脇に、麗子様が立っている。黒い夜会服の手に、便箋の束。シャンデリアの光を受けて、紙の白さが際立っていた。
客たちは、その周りに半円を描いて集まっていた。婦人たちは扇を止め、紳士たちは杯を置いている。将臣叔父様が、最前列で、にやにやと腕を組んでいた。
「三人目の妻が、この家に来て、ふた月が過ぎた」
麗子様が、読みはじめた。
「三人目の妻は、夜な夜な、家令室の帳簿を——」
人垣の後ろから、私は前へ出た。
藤色の袖が、婦人たちの夜会服の間をすり抜ける。一人、また一人と、囁きながら道をあけた。
「あれ、三人目の……」
「ご本人が、聞きにいらしたの?」
最前列に出たところで、私は足を止めた。
麗子様の目が、便箋から上がった。
背中に、人の気配が近づいてくる。
振り返らなくても、わかった。広間の囁きが、私の後ろの一点で、ふっと途切れたから。
黒い燕尾服の影が、人垣の一番前で、私の半歩後ろに立ち止まった。
後ろにいる、と言った人だ。十二階の上でも、そうだった。
広間の奥の扉が、いつの間にか開いていた。控えの間の入口に、灰色の背広の真柴さんが立っている。懐中時計は、もう手になかった。
私は、麗子様の目を、まっすぐに見返した。
帯の上で、銀の活字が、シャンデリアの光を一度だけ跳ね返した。
「その朗読、私にも聞かせてください。白百合さん」
広間が、静まり返った。
誰かの杯が、テーブルに当たって小さく鳴る。それきり、何の音もしなくなった。
麗子様の唇は、笑みの形のまま止まっていた。
左手に持った原稿が、かすかに震えた。
コメント
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第28話、めちゃくちゃよかった…!舞踏会のシーンがとにかく美しくて、侯爵様が「下を見るな」「私を見ていろ」って囁くところ、映像が目に浮かんだわ。それでいてバルコニーの会話が重くて、「♡♡♡た」じゃなくて「守れなかった」って言葉を選んだ侯爵様の心情、胸に来た。最後、ヒロインが自ら麗子様の朗読の前に立つ決意、かっこよすぎるでしょ。続きが気になって眠れない🔥
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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