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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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麗子様の唇が、ゆっくりと笑みの形を取り戻した。
「まあ、奥様」
澄んだ声が、静まり返った広間に響いた。
「白百合さん、ですって? この私が?」
麗子様は、客たちのほうへ両手を広げてみせた。原稿の束が、左手の中でひらりと揺れる。
「皆様、お聞きになりまして。奥様は、お暑さに中られたのね。どうぞ、あちらでお休みになって」
くすくすと、笑い声が起きた。扇の陰で、婦人たちが顔を見合わせる。最前列の叔父様が、手を叩いて喜んだ。
「さあ、続けましょう」
麗子様は、便箋を何枚かまとめてめくった。読みかけの頁を飛ばして、最後の一枚を上にする。
私から目を逸らさないまま、その一枚を読み上げた。
「三人目の妻には、秘密がある——」
「その紙を」
私は、声を張った。
「シャンデリアに、かざしてみてはいただけませんか」
麗子様の声が、途切れた。
「何ですって」
「かざしていただけないのでしたら、私のほうで」
私は、帯の内側から一枚の便箋を出した。
「これは、『婦人の窓』七月号に載った、『青髭侯爵夫人の日記』の元の原稿です。私は先月から、京橋の編集部で、校正のお手伝いをしております。この一枚は、編集主任の方から、お許しを得てお借りしたものです」
広間の隅で、恰幅のいい紳士が息を呑む音がした。社主の三枝氏だった。顔から、すうっと赤みが引いていく。
否定は、しなかった。
三輪と名乗っていたことも、これで大庭さんに知れるだろう。屋敷を出るたびについた嘘も、いずれ。
構わなかった。今夜を逃せば、あの一行は五日後に刷られて、帝都じゅうの本屋に並ぶ。
私は便箋を高く掲げ、真上のシャンデリアの光に透かした。
手は、もう震えていなかった。帯の上の銀の活字が、胸の下でひやりと冷たかった。
「ご覧ください」
客たちが、首を伸ばす。
白い紙の奥に、垂れ下がる二房の花と、反った葉が、くっきりと浮かび上がった。
「下がり藤」
誰かが呟いた。それが、さざ波のように広がっていく。
「藤堂様のお家では、先代の頃から、越前の紙漉きに透かしを入れた便箋を、特別に漉かせておいでだと伺いました。このお屋敷の方しか、お使いにならない紙です」
麗子様は、笑った。
今度は、少しだけ声が高かった。
「便箋なんて、誰だって盗めるわ。うちには女中が何人もいるのよ。書生だって、出入りの者だって」
何人かの紳士が、もっともだというように頷いた。
やはり、そう言った。
京橋から帰った晩、机の上の三枚の紙を前にして、私が思い描いたとおりの言葉だった。真紅の唇の笑い方まで、そっくり同じ。
「はい。紙は、盗めます」
私は頷いて、帯からもう一つ、封筒を出した。
「こちらは、今夜の夜会の招待状の封筒です。宛名は、紫がかったインクの、ペン字です」
便箋と封筒を、並べて掲げる。
「原稿のインクも、同じ紫です。乾いても、青黒く沈まない。舶来のインクだと伺いました」
私は、子爵夫人のほうを見た。
「奥様。先ほど、今年の招待状の宛名は、すべて麗子様がお書きになった、と仰いましたね」
子爵夫人の扇が、ぴたりと止まった。それから、ゆっくりと口元を覆った。
「インクなんて」
麗子様の声が、硬くなった。
「銀座へ行けば、誰でも買えるわ。字が少し似ているくらいで、何がわかるというの」
「字の形は、真似ができます」
私は言った。
「けれど、手の癖は真似ができません」
ルーペを、帯から抜いた。
「原稿の字も、封筒の宛名も、横の線の書き出しが、かすれています。ペン先が紙に刺さって、細かいインクの粒が、線の手前に散っている」
近くにいた白髪の老婦人が、眼鏡を押し上げて覗きこんだ。
「右利きの人は、横の線を、ペンで引きます。左利きの人は、押して書きます。押せば、ペン先が紙の目に引っかかって、こうなるんです。私の父の店に、左利きの職人がおりました。その人の赤字が、いつもこうでした」
広間じゅうの目が、一斉に、麗子様の手に向いた。
黒い夜会服の左手に、原稿の束が握られていた。
「麗子様は、今も、原稿を左の手でお持ちです」
私は、静かに続けた。
「春の茶会の日も、扇は左の手でした」
老婦人が、封筒を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……うちに届いた招待状も、この字でしたわ。横の線が、少しかすれて」
「うちのもだ」
「言われてみれば」
囁きが、今度ははっきりと、麗子様のほうへ流れていった。
「左利きの女なんて」
麗子様が、ようやく口を開いた。声の底が、かすかに揺れていた。
「東京に、何百人いると思って。うちの便箋を使える左利きが、私一人だとでも?」
「では、もう一つだけ」
私は、ルーペを帯に戻した。
麗子様は、真紅の唇を固く結び、まっすぐに私を見ていた。逃げようとはしなかった。
その目を見返しながら、私は紙を出す代わりに、口を開いた。
「この連載の一回目に、婚礼の夜、夫が妻に言った言葉が書かれていました」
私は、半歩後ろに立つ人の気配を、背中で感じていた。
「この家では何も食べるな。私が用意したもの以外は」
後ろで、侯爵様の呼吸が、一度だけ止まった気がした。
人前でこの言葉を口にすれば、久遠寺の家が毒を恐れていると、私が自分から認めることになる。わかっていた。それでも、ほかに道はなかった。
「あの晩、部屋にいたのは、私と夫だけでした。けれど、扉の向こうの廊下に、もう一人いたのです。私の行李を二階まで運んで、なかなか下りてこなかった女中が。その人は、四月に久遠寺の家から暇を出されて、今は、このお屋敷で働いています」
人垣の後ろで、硝子の割れる音がした。
振り向いた客たちの間に、白いエプロンの女中が立ち尽くしていた。足元に、杯がいくつも砕けて散っている。銀の盆を持つ手が、がたがたと震えていた。
お駒さんだった。
「お駒」
麗子様の口から、掠れた声が漏れた。
お駒さんは、盆を胸に抱えるようにして、首を振った。
「わ、私は……お嬢様に聞かれたことを、お話ししただけで……お屋敷の中のことを、何でもいいから、って……」
お駒さんは、そこまで言って、はっと自分の口を押さえた。もう遅い。
その一言で、十分だった。
広間のざわめきが、ひとつの塊になった。
「藤堂様のお嬢様が」
「白百合ですって」
「正義の味方みたいな顔をして、自分の家の女中に、よその家を覗かせていたの」
「麗子」
低い声が、広間の空気を断ち切った。
藤堂子爵だった。白い顎鬚の下で、口元が引きつっている。片眼鏡の奥の目が、娘を、まるで見知らぬ他人のように睨みつけていた。
子爵夫人が、扇を取り落とした。
最前列の叔父様は、いつの間にか腕組みを解いて、口をぽかんと開けていた。宇佐美先生の蝶ネクタイが、人垣の後ろへそろそろと遠ざかっていく。
控えの間の入口では、真柴さんが、眼鏡の奥の目を細めて、じっとこちらを見ていた。何を思っているのか、その顔からは読めなかった。
麗子様は、父親を見なかった。
私だけを、見ていた。
左手の中で、原稿の束が、くしゃりと音を立てて握りつぶされた。
麗子様は、一歩、私のほうへ踏み出した。真紅の唇が、私の耳元に寄せられる。
甘い舶来の香水と一緒に、私にしか聞こえない声が落ちてきた。
「……続きは、知りたくないの?」
コメント
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ああ、読み終えました……もう心臓がバクバクしてます。 便箋の透かし、インクの乾き方、左利きの筆跡の特徴——ひとつひとつ積み重ねる証拠の冷静さと、最後に自ら「婚礼の夜の言葉」を口にする脆さの両方が、すごく人間らしくて。そして麗子様の「続きは、知りたくないの?」——この言葉で全部が反転するような、あの余韻がたまらなかったです。 大正ロマンの空気感と、心理戦の細やかさが本当に美しい第29話でした。続き、すごく気になります……!