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俺にとって、先輩はいつの間にか「特別」になっていた。
――そう気づいたのは、ほんの小さなきっかけだった。
最初は、ただ「イケメンだな」と思っただけだ。
学年も違うし、授業で一緒になることもない。ただ、校内で見かければ誰でも振り返るくらい、あの人は目を引いた。
中性的で、整った顔立ち。睫毛が長くて、横顔はまるで彫刻みたいだった。男子生徒の制服を着ていれば凛々しく、女子の制服を着ているときは息を呑むほど美しかった。どちらを着ても似合ってしまうのは反則だと思った。
それに、先輩には不思議な雰囲気があった。
無気力で、いつもぼんやりしているように見える。誰かに話しかけられても、必要最低限の言葉で返すだけ。笑う姿なんて滅多に見たことがない。それなのに、なぜか人を惹きつける。
女子にモテるのは当たり前だった。噂を聞けば、告白された数なんて数え切れないくらいあるらしい。けれど、誰一人として特別扱いをされている子はいなかった。みんな、結局は同じ距離で、同じようにあしらわれていた。
俺にとって先輩は、雲の上の存在だった。
だから、目で追うようになったのは自然なことだったのかもしれない。
気づけば廊下で探して、教室移動のときはつい辺りを見回してしまう。目に入るたびに胸が高鳴って、視線を外すのが惜しくなる。
だけど、俺と先輩には接点なんてない。
唯一の共通点は――購買横の自動販売機。
昼休みや放課後、俺はよくそこで飲み物を買う。最初は偶然だった。だが、そこで先輩と鉢合わせることが何度か続くと、俺は自然とそのタイミングを狙うようになっていた。
先輩はいつも缶コーヒーを選んでいた。
苦いはずなのに、先輩が持っていると不思議と大人びて見える。時々炭酸飲料を買うときもあった。缶を片手に歩き去る姿を、俺はいつも目で追っていた。
最初は「イケメンだ」という感想だけだったのに。
気づけば、俺は先輩の一挙一動に心を奪われていた。
――なんで、こんなに惹かれてるんだろう。
自分でも理由はわからない。先輩が男か女かなんてどうでもよかった。ただ、あの人に俺を見てほしい。名前を知らなくてもいい、話したことがなくてもいい。ほんの一瞬でいいから、俺という存在を認識してほしい。
それが俺の、叶わない願いだった。
___
ある日の放課後。
体育の授業で汗を流したあと、喉の渇きを癒すために自販機へ向かった。夕方の光が差し込む校舎の影の中、その場所にはやはり先輩の姿があった。
白いシャツの袖を少しだけまくり、無造作にポケットへ片手を突っ込んでいる。172cmの身長。俺とほとんど変わらない高さで、並べば視線が合う。
それだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
自販機の前で立ち止まった俺は、遠くから先輩を見ているだけで精一杯だった。目の前にいるのに、声をかける勇気が出ない。隣に立ってボタンを押すことさえできず、後ろに並んでその横顔を盗み見ていた。
その瞬間――不意に、先輩と目が合った。
一瞬、心臓が止まったかと思った。
澄んだ湖のような瞳。その中に俺が映っている。ほんの数秒のことだったのに、全身が熱くなる。
けれど先輩は、何も言わずに缶を取り出して立ち去ってしまった。
残された俺は、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「、、、やっぱり、無理か」
心の中でそうつぶやいた。俺なんて、ただの後輩。名前すら知られていないだろう。近づけるはずがない。
それでも――諦めきれなかった。
___
次の日も、その次の日も、俺は自販機に通い続けた。
先輩に会えるかもしれないという、それだけの理由で。周りから見れば滑稽だと思う。けれど、俺にとっては大切な時間だった。
そして、ついにその日が来た。
夕暮れの校舎。西日が窓ガラスを赤く染める時間。
先輩はいつものように缶コーヒーを選び、取り出そうとしていた。
俺は――気づいたら、口を開いていた。
「あの」
それだけだった。
それ以上の言葉は出てこなかった。
先輩が振り返る。
視線がぶつかる。俺を映す瞳に捕まえられて、呼吸が止まりそうになる。
名前を聞きたい。好きだと伝えたい。何か言葉を続けたい。一度でいい。ほんの少しでもいい。俺の声を、届かせたい。
でも、声は出なかった。胸の奥に詰まった気持ちが、喉でせき止められる。
「何、」
先輩は小さく首を傾げる。
俺が何も言わなかったのでそのまま去っていった。
取り残された俺の手は、微かに震えていた。
――でも、不思議と後悔はなかった。
ほんの一言。「あの」と声をかけただけ。けれど、それは確かに俺と先輩の最初の接点になった。
きっとこの恋は、叶わない。
それでも、あの瞳に一瞬でも自分が映ったこと。それだけで、胸がいっぱいだった。
俺はただ、目で追い続けるだろう。これからもずっと。
名前も知られないまま、声も届かないまま。
――それでも、好きだ。
きっと、この恋は叶わない。けれど、それでも――今日という日は、俺にとって特別な日になる。