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#子育て
都築七美
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都築七美
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午前七時前。
沙織は満員電車の中で、吊革にしがみついていた。
「……こんなに混むんだ」
次の駅でさらに人が押し寄せ、身体がぎゅっと押される。
その最中にも、スマートフォンは鳴り続けていた。
《8時半から臨時会議》
《企画書の差し替えお願いします》
《トラブル対応お願いできませんか?》
(まだ始業前だよね……?)
直樹から仕事の手順は教わった。
けれど、次から次へと飛んでくる連絡を前にすると、それだけで頭がいっぱいになる。
(毎朝、こんな始まりだったの……?)
*
会社へ着いてからは、さらに息つく暇がなかった。
メールを返し、資料を修正し、電話を取る。
一つ終える前に、次の仕事が飛んでくる。
「加藤」
顔を上げると、上司が立っていた。
「昨日のトラブル、まだ片付いてないよな?」
「今、対応中です」
「“今”じゃ困るんだよ。あれ、お前の確認ミスだろ?」
昨日の直樹の仕事など、沙織には分からない。
それでも今の自分は、“加藤直樹”だ。
「……すみません」
「謝る暇があるなら手を動かせ。これも今日中な」
さらに資料を置かれる。
「終わるまで帰れると思うなよ」
「……はい」
机には、びっしりと書かれたタスク。
その横では、朝買った昼食が袋に入ったままになっている。
気づけば、時計は十三時を過ぎていた。
(お昼……まだ一口も食べてない)
それでも電話が鳴る。
社内チャットには、また《至急》の文字。
(休めない)
(私が止まったら、仕事が全部止まる)
沙織は再びキーボードへ向かった。
*
会社を出られたのは、二十二時を過ぎてからだった。
帰宅すると、沙織の姿をした直樹が迎えに出てきた。
「おかえり。大丈夫? 顔色悪いよ」
「……ごめん。今日は、もう……」
靴を揃える余裕さえない。
沙織はそのまま寝室へ向かった。
翌朝になっても疲れは抜けず、また満員電車に揺られ、会社へ着けば仕事に追われる。
「要領悪いなあ。そんなんじゃ今期の評価、覚悟しとけよ?」
「……すみません」
(ここで私が失敗したら、直樹の評価まで下がる)
悔しくても、耐えるしかなかった。
*
その日の夜も、帰れる見込みはなかった。
沙織は廊下へ出て、直樹へ電話をかけた。
「……ごめん。今日も帰れそうになくて……」
電話の向こうから、湊の泣き声が聞こえる。
『大丈夫。こっちは何とかなってる』
「でも……」
『無理しないで。今は仕事、ちゃんと終わらせて』
電話が切れたあとも、沙織はその場から動けなかった。
(家のことも、湊のことも任せっきり……)
以前なら、「また仕事?」と責めていた。
けれど今は、違う。
(“帰らない”んじゃない)
(帰りたくても、帰れないんだ……)
*
帰宅したのは、二十三時半だった。
「……ただいま」
「おかえり」
もう何も考えたくない。
ただ眠りたい。
そのとき、寝室から泣き声が聞こえた。
「……まま……」
沙織の肩が揺れる。
「さっきまで寝てたんだけど、起きちゃって」
「……私、行く」
「無理しなくていい。俺が――」
「行くから」
沙織は寝室へ向かった。
「……湊」
抱き上げようと手を伸ばす。
「いや!! ままじゃない!!」
その言葉が、胸に突き刺さった。
(分かってる)
(今の私は、“パパ”だから)
それでも、自分だって湊の母親なのに。
「大丈夫。ママはここにいるよ」
「いやーー!! ちがうーー!!」
暴れる身体を抱き続ける。
腕が重い。腰も痛い。頭も回らない。
「お願い……少しでいいから……」
「いやーー!!」
「いい加減にして!!」
声が響いた瞬間、湊がぴたりと泣き止まった。
「……っ」
大きな目が、怯えたように沙織を見ている。
「……ごめん」
腕の中で、小さな身体が震えていた。
「ごめんね……怒るつもりじゃ……」
沙織はその場に座り込んだ。
(直樹は……)
この数日、慣れない育児に振り回されながらも、湊へ怒鳴ったことはなかった。
(私は、たったこれだけで……)
涙がこぼれた。
「ごめん……湊」
沙織は息子を抱きしめた。
*
翌朝、キッチンから楽しそうな声が聞こえてきた。
「おいしいねぇ」
「よかったな」
沙織がふらつきながらリビングへ出ると、湊が嬉しそうにカステラを頬張っていた。
「……朝から、カステラ?」
思わず口から出る。
けれど湊は、満面の笑みを浮かべていた。
「ママ、おいしいねぇ!」
沙織は何も言えなくなった。
(こんな顔……いつぶりだろう)
野菜を食べさせなければ。
栄養を考えなければ。
偏食を直さなければ。
毎朝、「ちゃんと食べさせること」ばかりに必死になっていた。
ふと、テーブルの端に置かれた育児書が目に入る。
《感覚過敏》
《偏食》
《こだわり》
何度も読み返し、付箋だらけになった本だった。
食べられるものが少ない子もいる。
無理に食べさせれば、食事そのものが苦痛になることもある。
頭では、分かっていた。
それでも母親なのだから、ちゃんとしなければと思っていた。
「またカステラたべる!」
「いいよ。でも少しだけな」
「うん!」
湊が笑う。
直樹も、穏やかに笑っていた。
無理に食べさせようとも、怒ろうともしない。
ただ、湊の今を受け止めている。
(私……)
仕事もまともにできない。
湊には怒鳴ってしまった。
それなのに、自分はずっと直樹へ言ってきた。
――あなたは仕事だけしてればいいから楽だよね。
「……ごめん」
ぽたりと、涙がテーブルへ落ちた。
(私……何を言ってきたんだろう)
直樹の苦しさも。
湊の苦しさも。
自分だけがつらいと思い込んで、何も見えていなかった。
*
けれど、沙織の体験はまだ終わらなかった。
その日の会社で、疲労から大きなミスをした。
「加藤!」
上司が書類を机へ叩きつける。
「なんだ、この数字! こんなもん先方に送ったのか!?」
「……すみません」
「最近のお前、使えないよ。集中力もない、ミスばっかり」
沙織は唇を噛んだ。
「それで家庭あるんだろ?」
呼吸が止まる。
「そんな仕事しかできなくて、家族どうする? お前がそんな調子で、大事な家族を路頭に迷わせてもいいのか?」
何も言い返せなかった。
*
誰もいない休憩室へ逃げ込み、沙織は壁にもたれて座り込んだ。
「……無理」
涙が止まらない。
(休めない)
(逃げられない)
(だって今は、私が大黒柱だから)
自分が働かなければ、家族を食べさせていけない。
「“大黒柱”って……」
震える手で顔を覆った。
「こんなに重い言葉だったんだ……」
そのとき、スマートフォンが震えた。
直樹からだった。
《がんばってるね》
《今日は寒いから、帰ったら温かいもの作るよ。無理しすぎないでね》
画面が涙で滲む。
(私は……)
(こんな言葉、一度でも直樹にかけたことあった?)
沙織はスマートフォンを胸に抱きしめた。
これまでずっと、自分ばかりが家族を背負っていると思っていた。
けれど――。
見えていなかっただけだった。
直樹もずっと、別の場所で同じ家族を背負っていたのだ。
コメント
1件
沙織さん、もう胸が苦しくなりすぎる……!!「帰りたくても帰れない」って感覚、直樹さんがずっと感じてた重さを初めて理解した瞬間がグッときた😭💔 それに湊ちゃんに「ままじゃない!」って拒絶されるシーン、親としてのアイデンティティが揺らぐ感じがリアルすぎて泣ける。最後の直樹さんのメッセージで涙腺崩壊したよ…立場を入れ替えて初めて分かること、本当にあるんだなって思った。次が待ち遠しい!