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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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三人目の妻は、二人目の妻の友であった。
その一行を、私は自分の指で拾った。
友、という一字を活字棚から抜いたとき、指先がかすかに震えて、隣の活字を倒しかけた。
拾わなければ、親方が拾う。組まなければ、ほかの誰かが組む。
八月号の刷りは、七月二十日。夜会の、五日後だった。
*
七月十五日の夕方、自動車は番町の坂を上っていた。
前の座席には真柴さん。後ろの座席に、侯爵様と私。
藤色の訪問着の帯の上で、銀の活字が、車の揺れに合わせて小さく光った。
帯の内側には、白百合の原稿が一枚と、藤堂家の招待状の封筒を挟んである。ルーペも。
侯爵様は、燕尾服を着ていた。
白い胸当てに、白い蝶ネクタイ。けれど手袋だけは、夜会の白ではなく、いつもの黒い革だった。
「白いのは、なさらないのですか」
「あれは、すぐ汚れる」
それだけ言って、侯爵様は窓の外を見た。
しばらくして、窓のほうを向いたまま、低い声がした。
「中に入ったら、人の顔は見なくていい」
「……はい」
「見るものに困ったら、私を見ていろ」
前の座席で、真柴さんの肩が、ほんのわずかに揺れた気がした。笑ったのかもしれない。
私は膝の上で手を重ねて、自動車の天井の小さな電灯を見上げた。頬の熱さが、外から見えなければいいと思った。
藤堂家の洋館は、窓という窓に電灯が灯っていた。
車寄せに、黒塗りの自動車がずらりと並んでいる。玄関の扉が開くたびに、弦の音と笑い声が、夏の夜気の中へこぼれ出してきた。
「では、私は控えの間に」
真柴さんが、自動車を降りたところで頭を下げた。
「奥様。どうぞ、お楽しみくださいませ」
*
大広間の天井から、硝子のシャンデリアが三つ下がっていた。
無数の飾り玉が光を砕いて、磨きこまれた床に散らしている。奥の壇の上では、楽団が円舞曲を奏でていた。
燕尾服の紳士、裾の長い夜会服の婦人、勲章を胸に下げた老人。華族の顔と、財界の顔。
私たちが入っていくと、広間のざわめきが、一瞬、波が引くように低くなった。
それから、前よりも小さな声で、前よりも多くの囁きが起きた。
「久遠寺侯爵よ」
「あれが、三人目」
「よくいらしたこと。あの連載が出たばかりなのに」
「妻殺し、だなんて。お顔を見るのも恐ろしいわ」
扇の陰から、いくつもの目が、私と侯爵様の間を行き来する。
侯爵様は、どの目にも応えなかった。私の半歩前を、まっすぐに歩いていく。人の輪が、その前で自然に割れた。
「ようこそ、久遠寺君」
広間の中ほどで、白い顎鬚の痩せた紳士が手を差し出した。藤堂子爵だった。片眼鏡の奥の目が、侯爵様の黒い手袋をちらりと見る。
隣で、子爵夫人が華やかに笑った。
「まあ、奥様。茶会の折には、失礼をいたしました。今夜はゆっくりなさって」
それから、扇で口元を隠して、少し声を落とした。
「招待状、無事に届きまして? 今年は、宛名を全部、麗子に書かせましたのよ。この子、ほかに取り柄はございませんけれど、字だけは昔から褒められますの」
私は、帯の上から封筒の角に触れた。
「とても、綺麗なお字でした」
子爵は、近くにいた恰幅のいい紳士の肩を叩いた。
「三枝君、紹介しよう。久遠寺侯爵と奥方だ。久遠寺君、こちらは三枝君。『婦人の窓』の社主でね。うちも昔から、少しばかり出資している」
「あの連載には、家内も娘も、ずいぶん心を痛めておってね」
子爵が片眼鏡を押し上げて言うと、子爵夫人がおっとりと頷いた。
その横で、三枝氏は気まずそうに咳払いをして、侯爵様に頭を下げた。
「その節は、家令の方からお手紙を頂戴しまして。いや、筆者の件は、どうにもお答えしかねまして」
侯爵様は、黙って会釈を返しただけだった。
私は、三枝氏の顔を見られなかった。京橋の二階で、この人の名前を何度か聞いた。この人が、私の顔を知らないことを祈るしかなかった。
*
麗子様は、黒い夜会服だった。
肩から腕を剥き出しにした、細い一本の線のような服。長い真珠を二重に巻いて、断髪の耳元に黒い羽根の飾りを差している。
左手に、閉じた扇を持っていた。
「冬馬さん。ごきげんよう」
「麗子」
侯爵様の声は、平らだった。
麗子様の目が、私の帯留めに落ちた。一瞬だけ、真紅の唇の端が、何かを噛むように引き結ばれた。
「素敵な帯留めね、奥様。……活字かしら」
「はい」
「そう。お似合いよ」
麗子様は、私にだけわかるくらいの間を置いて、微笑んだ。
甘い舶来の香水が、ふっと鼻先をかすめた。
侯爵様の目が、ほんの一瞬、麗子様から私へ動いた。あの晩、厨房で嗅いだのと同じ匂いだと、この人は気づいただろうか。
それから、麗子様は楽団の壇の脇へ歩いていった。
給仕の盆から硝子の杯を一つ取り、銀の匙で、ちん、ちん、と縁を鳴らす。
円舞曲が止んだ。広間じゅうの目が、黒い夜会服に集まった。
「皆様、今夜はようこそ。ささやかな余興を一つ、ご用意いたしましたの」
麗子様の声は、よく通った。
「今、皆様が夢中でお読みの『青髭侯爵夫人の日記』。その来月号に載る、まだ誰も読んでいない続きを、白百合さんから特別にお許しをいただいて、今夜、ここで朗読いたします。十時に、この広間で」
どよめきが起きた。
婦人たちが、扇の陰で顔を見合わせる。それから、何十という目が、一斉に私たちのほうへ振り向いた。
指先から、血の気が引いていった。
まだ誰も読んでいない続き。
三人目の妻は、二人目の妻の友であった。
あの一行が、このシャンデリアの下で読まれる。社交界の真ん中で。侯爵様の、耳の前で。
*
「おや、奥様。お顔の色が」
気障な声が、すぐ横でした。
英国風の背広に、蝶ネクタイ。宇佐美先生が、硝子の杯を二つ持って立っていた。
「冷たいものでも、いかがです。暑気あたりには、これが一番」
「……いえ。結構です」
「ああ、そうでした。奥様は、何も召し上がらないのでしたね」
宇佐美先生は、口髭の下で笑った。唇は、やはり笑っていなかった。
「前の奥様方も、夜会は苦手でいらした」
その後ろから、葉巻の匂いと、酒の匂いがどっと押し寄せてきた。
「よう、冬馬君よ」
将臣叔父様だった。赤ら顔を、さらに赤くしている。
「今夜は面白え余興があるそうじゃねえか。三人目の奥方の秘密ときたもんだ。こいつは、帰るわけにいかねえな」
叔父様の大声に、近くの客がくすくすと笑った。
侯爵様は、叔父様を見もしない。
叔父様は鼻白んで、給仕の盆からまた杯を取った。葉巻の灰が、絨毯の上にぽとりと落ちた。
広間の奥の扉が、細く開いていた。
控えの間だ。壁際の椅子に、真柴さんが背筋を伸ばして座っているのが見えた。
膝の上で、懐中時計の蓋を開けている。広間のざわめきなど聞こえていないように、時計の文字盤だけを、静かに見下ろしていた。
壁の大時計が、九時を回っていた。
あと、一時間。
帯の内側の紙を思った。白百合の原稿。招待状の封筒。それだけで、あの人の朗読を止められるのか。止めたとして、あの一行を誰の耳にも入れずに済むのか。
手が、膝の前で細かく震えはじめた。中指の染みを親指で押さえても、止まらなかった。
その手を、黒い革の手袋が包んだ。
侯爵様が、私の前に立っていた。広間の視線をすべて背中で受け止めるようにして、私だけを見下ろしている。
「踊ろう。今は、それだけ考えていればいい」
コメント
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第27話、読み終わりました……帯に隠した活字と原稿、あの一行が夜会の真ん中で読まれるかもしれない緊張感が、ずっと手の震えと重なって胸に迫りました。麗子様の“お似合いよ”の間の取り方、宇佐美先生の“前の奥様方も”の一言——どの台詞も研ぎ澄まされていて、息が詰まるようでした。そんな中での「踊ろう。今はそれだけ考えていればいい」、この台詞がもう、どうしようもなく好きです。自分の指を黒い手袋が包むその一瞬に、すべての救いが詰まっていました。次が気になります……!