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「リリアンナ」
ナディエルの指先が、わずかに止まる。
(――侯爵様。戻っていらしたのね)
けれど、胸の奥で嫌な予感がする。
リリアンナの肩が、ほんのわずかに強張ったのを、ナディエルは見逃さなかった。
「少し、話がしたい」
穏やかな声だった。
けれど、その穏やかさに、リリアンナは答えない。
ややして鏡越しに扉の方をじっと見つめたまま、静かに口を開いた。
「ごめんなさい、ランディ。……今は支度の途中なので……時間が取れそうにありません……」
拒絶ではない。
けれど、踏み込ませない明確な線引きに、ナディエルは、思わず息を詰めた。
扉の向こうで、気配が一瞬止まる。
「……手間は取らせない。支度を進めながらでも聞いてもらえる話だ。すぐに済む」
その言葉に、リリアンナの指先がきゅっと握りしめられた。
ナディエルには二人の間に何があったのか、分からない。
だが、リリアンナにとって、それが「すぐ」であろうとなかろうと、大差ないと感じていることだけは、はっきりと伝わってきた。
「落ち着いて聞くことができそうにないので嫌です。お願いだから……後にしてください」
声は、落ち着いていた。
落ち着いているからこそ、聞いていて胸がキシキシと痛んだ。ナディエルでさえそうなのだ。その言葉をリリアンナから投げかけられたランディリックはもっとしんどいのではなかろうか。
それを表すみたいに長い沈黙のあと、低く抑えた声が落ちた。
ナディエルはてっきり、旦那様は諦めて引き下がられたのではないかと思った。だが、違った。
「ダフネの件は……すべて、私の判断だ」
ナディエルは、はっと息を呑んだ。
目の前のリリアンナの身体が小刻みに震えているのを見て、その一言が今言うべき言葉ではないと、直感的に分かってしまったからだ。
リリアンナの表情が、わずかに固まる。
「今はお聞きしたくないと申し上げたはずです!」
ヒステリックではなかったけれど、抑えめに……しかしはっきりと語尾を強めて投げつけられた言葉に、扉の外で「リリー」と力なくランディリックがこの部屋の主を呼ぶ声がした。
だけど、リリアンナはその声に応えようとはしなかった。
「だが……。――いや……すまない。邪魔をした。あとでまた話そう……」
やがて、扉の向こうからそう声が掛かり、足音が遠ざかっていく。心なしか、その足音がいつもより覇気がないように感じられてしまった。
ナディエルは、しばらく手を動かせずにいた。
きらびやかな装いとは裏腹に、鏡の中のリリアンナは、ひどく小さく見える。
「……お嬢様」
声を掛けて、しかしナディエルは結局なにも続けられずに言葉を飲み込んだ。
ランディリック自身の声すら届かなかったのだ。今、部外者の自分が何を言っても、意味がない。
そう思ってしまったから。
***
背後のナディエルがどうしていいか分からなくて戸惑っているのが分かる。
だけどそんな彼女を気遣う気力さえ湧いてこなくて、リリアンナは、ただ静かに目を伏せた。
リリアンナはあの時、ランディリックにそばにいて欲しかった。
それを、ダフネとともに過ごしておいて……今さら何の言い訳をするというのだろう?
一人にされたくなかった、あの瞬間に、ランディリックはリリアンナを突き放した。
それがすべてだ――。
胸の奥に沈めた想いを、誰にも見せないまま、リリアンナはナディエルを鏡越しに見遣る。
「見苦しいやり取りを見せてしまってごめんね、ナディ。……支度を……続けてもらえる?」
コメント
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わーん、聞いてあげて?