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#契約結婚
草原草原

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#王道
涙乃
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#ざまぁ
草原草原

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五百億円の融資枠。
その審査が止まった理由を、ファクスの紙は「諸般の事情」としか書いていなかった。
諸般の事情は、その日の昼に、向こうからやってきた。
「一条頭取から、会長の病室に直接お電話があったそうです」
柏木室長が、受話器を置いて言った。いつもの報告口調が、わずかに硬い。
「来週の金曜の夜、赤坂の料亭に席を用意した、と。社長と、麗華様の、お顔合わせの席です。融資の件も、その場でゆっくりお話ししましょう、と」
「父は、何と言った」
「会長は、『怜に任せる』とだけ」
社長は、ファクスの紙を裏返した。
「日取りまで、向こうが決めたか」
「はい。会長が療養中であることを承知の上で、です」
室長の眼鏡の奥で、目がわずかに細くなった。この人が怒っているのを、私は初めて見た気がした。
「受ける」
社長が言った。
「社長」
「断れば、審査は保留のまま年を越す。受けて、顔を見る」
社長は、私のほうを向いた。
「瀬名。君も来い。秘書としてだ」
*
料亭の席の二日前、水曜の昼。四十二階のエレベーターホールで、副社長と二人きりになった。
紺のカーディガン。小脇に、社員食堂のトレイ返却の札を挟んでいる。また二階で昼を食べてきたらしい。
「瀬名さん。金曜は、赤坂だそうだね」
どうして知っているのか、とは聞けなかった。
「一条さんのところとは、私も若い頃から付き合いがあってね。泰造さんは、銀行の人にしては、話のわかる人だよ」
一本の線。
「怜くんは、ああいう席が苦手だから。君がそばにいてくれると、私も安心だ」
一本の線。
エレベーターが着いて、副社長は「お先に」と穏やかに笑って乗り込んだ。扉が閉まる。
私は、その場に立ったまま、今の会話を巻き戻した。
副社長は、縁談に賛成だとも、反対だとも言っていなかった。融資のことには、一言も触れていなかった。
それなのに、話の終わりに、なぜか背中を押されたような感触だけが残っていた。
*
赤坂の料亭は、細い路地の奥にあった。
打ち水をした石畳、竹の垣根、玄関の小さな行灯。着物の仲居さんが、膝をついて出迎える。
私は、紺のジャケットを着ていた。社長賞のときに柏木室長から借りたものを、そのまま返しそびれている。肩は、相変わらず少し余っていた。
奥の座敷へ続く廊下で、白い影が待っていた。
麗華さんだった。今夜は白いパンツスーツではなく、淡い藤色の着物を着ている。巻き髪をまとめ上げ、赤いリップだけがいつもと同じだった。
麗華さんは、社長の斜め後ろの私を見て、すっと目を細めた。
「秘書は、外で待っていなさい」
廊下の空気が、ぴたりと止まった。
仲居さんが、困ったように私と麗華さんの顔を見比べる。
私は、黙って一歩下がろうとした。秘書なのだから、それが当然だ。
その前に、社長が口を開いた。
「彼女が外なら、私も外だ」
麗華さんの赤い唇が、わずかに開いた。
社長は、それ以上何も言わなかった。ただ、廊下の真ん中に立って、麗華さんを見ていた。
「……好きにすればいいわ」
麗華さんは、着物の袖を翻して、座敷の襖を開けた。
私は、社長の背中を見上げた。
三つ揃いの背中は、何も言っていなかった。
*
座敷の床の間を背にして、一条泰造頭取が座っていた。
六十二歳。きれいに撫でつけた銀髪、よく磨かれた銀縁の眼鏡。銀行員らしい、薄い唇。笑うと、その唇が横にだけ広がる。
「やあ、怜くん。お父上のお加減はいかがかな」
「変わりありません」
「それは何より。会長とは、もう三十年来のお付き合いでね」
私は、下座の端に座った。社長の斜め後ろ。頭取の顔と、麗華さんの顔が、両方見える位置だった。
頭取は、私をちらりと見て、すぐに興味を失ったように社長に視線を戻した。地味な眼鏡の秘書は、この人の目にも、置物にしか見えないらしい。
先付けの小鉢が運ばれてくる。頭取は、麗華さんの子どもの頃の話をした。ピアノの発表会。乗馬。留学先の寮の話。
麗華さんは、父の隣で、ほとんど口をきかなかった。
「それでね、怜くん」
吸い物の椀が下げられたところで、頭取は箸を置いた。
「融資枠の件は、今、本部で少々慎重になっていてね。いや、鷹宮さんの業績に、何か問題があるわけじゃない。ただ、長いお付き合いの中で、互いの信頼というものを、一度きちんと形にしておきたいと、そういう声があるんだ」
「形、ですか」
「そう、形だ。……副社長の貴之さんにも、昔から何かとお世話になっていてね。鷹宮さんとは、家族のような付き合いを続けたいと思っているんだよ」
頭取は、柔らかく笑った。
「もちろん、誤解しないでほしい」
「融資の件と、娘の縁談は、無関係ですよ」
頭取は、ゆっくりとうなずいた。
うなずく、その首の動きの終わりに、ほんのわずか、首が横に振れた。右に一度。目を凝らさなければ見えない幅で。
言葉は「はい」と言っている。体は、そうでもないと言っている。
――ぶれた。
私は、膝の上のペンを二回鳴らした。
カチ、カチ。
仲居さんが、ちょうど焼き物の皿を運んできたところで、音は器の触れ合う音に紛れた。
社長の背中が、ほんのわずかに動いた。
社長は、何も言わなかった。
頭取のほうを見もしなかった。
彼が見ていたのは、頭取の隣に座る、麗華さんの顔だけだった。
麗華さんは、箸を置いたままだった。
先付けのときから、ずっと。小鉢にも、椀にも、焼き物にも、一度も箸をつけていない。膝の上で重ねた両手の、指先だけが白くなっていた。
社長の視線に気づいて、麗華さんは一瞬、顔を上げた。
そして、すぐに目を伏せた。
「怜くん?」
頭取が、怪訝そうに首をかしげた。
「……お話は、わかりました」
社長は、ようやく頭取に向き直った。
「本日は、父の名代として伺いました。お返事は、改めて」
*
料亭の玄関を出ると、細い路地に夜風が吹き込んでいた。
麗華さんは、見送りに出てこなかった。
黒い車の後部座席に乗り込むなり、社長は内ポケットからスマホを取り出した。
「無関係、のところで鳴らしたな」
「はい。うなずきながら、首が横に振れました」
「そうか」
社長は、それだけ言った。
「社長。一条本部長は、ずっと箸を置いたままでした」
「見ていた」
「お父さんの隣で、一度も食べていませんでした。……あの人は、あの席に、座りたくなかったんだと思います」
社長は、何も答えなかった。
窓の外を、赤坂の夜の灯りが流れていく。
「瀬名」
「はい」
「廊下で、なぜ下がろうとした」
「……秘書ですから」
「君は、私の秘書だ」
社長は、窓の外を見たまま言った。
「一条家の秘書ではない」
一本の線。
私は、膝の上で、借り物のジャケットの袖を握った。肩が余っているのに、なぜか、少しも寒くなかった。
社長は、運転席に向かって言った。
「帰りに、どこか開いている店に寄ってくれ。辛いものがある店がいい」
「……社長、辛いものはだめなんじゃ」
「私は食べた。君が、何も食べていない」
一本の線。
下座の端で、私の前にだけ、膳が出ていなかった。この人は、あの席で麗華さんの顔ばかり見ていたはずなのに、そんなところまで見ていたのだ。
社長は、スマホの画面を一度だけ指で弾いて、耳に当てた。
相手は、二回の呼び出し音で出た。
「柏木。他の銀行三行を、明日の朝までに集めろ」
コメント
1件
ああ……この回、めちゃくちゃ好きです。社長が「彼女が外なら、私も外だ」って言ったところ、心臓掴まれました。麗華さんがずっと箸をつけなかった描写も効いてる。食べたくない席に無理やり座らされてる感じがひしひし伝わってきて……。最後の「辛いものがある店」も、なにも言わずに瀬名さんのこと見てたんだなって思うと胸がぎゅっとなる。一本の線、また出てきたね。この人は言葉にしない想いを背中で語るタイプなんだなあ🥀