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#契約結婚
草原草原

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草原草原

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社長室の明かりは、その夜、一度も消えなかった。
十一時。柏木室長が、三つの銀行の名前を書いた紙を社長の机に置いた。どれも、東都銀行と肩を並べる大手だ。
「三行とも、明朝八時に担当役員が参ります。条件は、協調融資の枠組みで、幹事行は一行に絞ること。必要な資料は、直近三期の決算と、今後十二か月の資金繰りの見通しです」
「資金繰りの見通しは、財務本部に作らせると、三日かかる」
社長が言った。
「三日は、待てない」
私は、自分の机から顔を上げた。
「……作れます」
二人の視線が、こちらを向いた。
「経理部で三年、子会社の資金繰り表を毎月まとめていました。連結の数字の癖は、だいたいわかります。朝までに、なら」
柏木室長が、何か言いかけて、やめた。代わりに、自分のタブレットを私の机に置いた。
「財務本部の共有フォルダです。閲覧の権限は、今、私が付けました」
*
午前三時。
表計算ソフトの数字が、目の前で少しずつ揃っていく。
人の顔は見なくていい。数字は、嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも、数字を書く人のほうだ。
ふいに、机の端にマグカップが置かれた。
湯気の立つ、ほうじ茶だった。
「コーヒーは、もう三杯目だ」
社長が、私の横に立っていた。ネクタイを外して、シャツの第一ボタンを開けている。
「……数えていたんですか」
「君の机は、私の机から見える位置にある」
一本の線。
この机の配置を決めたのは、社長だった。
午前五時半。
最後のセルを埋めて、私は保存のボタンを押した。窓の外が、八重洲の空から白くなりはじめていた。
社長は、印刷した十二枚を一枚ずつめくり、最後のページで手を止めた。
それから、ペンを一回、鳴らした。
カチ。
*
協調融資の枠組みは、三日でまとまった。
幹事行が一行、参加行が二行。東都銀行の五百億円の代わりに、三行で六百億円。
銀行の担当役員たちが帰ったあと、柏木室長は、珍しく私の机の前で立ち止まった。
「瀬名さん。資金繰り表の、子会社の為替の前提ですが」
「はい」
「財務本部の版より、正確でした」
室長は、それだけ言って、自分の席に戻っていった。ありがとう、とは言わなかった。それでも、一本の線だった。
*
二度目の席は、日比谷のホテルの、上層階の個室で設けられた。
一条頭取は、前回と同じ銀縁の眼鏡で、前回より少しだけ機嫌がよかった。まだ、何も知らないのだ。
麗華さんは、今夜は白いパンツスーツだった。父の隣で、背筋を伸ばして座っている。
「さて、怜くん。お返事を聞かせてもらえるかな」
頭取は、乾杯のグラスを置いて、薄い唇を横に広げた。
社長は、柏木室長がまとめた一枚の紙を、テーブルの上に滑らせた。
協調融資の基本合意書。三つの銀行の名前と、六百億円の数字。
頭取の笑みが、ゆっくりと止まった。
「先日、頭取は、融資の件と縁談は無関係だとおっしゃいました」
社長の声は、平らだった。
「無関係なら、どちらもお断りしても、問題ありませんね」
頭取の顔が、首の下から赤く染まっていった。
銀縁の眼鏡の奥で、目が細かく瞬きを繰り返す。何か言おうとして、薄い唇が二度、開いて閉じた。
「……怜くん。会長は、このことを」
「父は、私に任せると言いました」
社長は、席を立った。
「本日は、ありがとうございました」
麗華さんは、父の隣で、一度も顔を上げなかった。
けれど、テーブルの下で重ねた手が、今夜は白くなっていなかった。
*
化粧室の鏡の前で手を洗っていると、背後でヒールの音が止まった。
鏡の中に、白いパンツスーツが映る。
麗華さんは、私の隣の洗面台に、小さなバッグを置いた。
「満足? 秘書さん」
「何が、でしょうか」
「父の顔。あんなに赤くなったの、私、初めて見たわ」
麗華さんは、鏡の中の自分に向かって、赤いリップを引き直した。
「あれ、あなたの仕業でしょう。料亭で、ペンを二回鳴らしたの、聞こえていたわよ」
私は、蛇口を止めた。
鏡越しではなく、隣の麗華さんの顔を、まっすぐに見た。眼鏡を外す。
「一条さん。社長のことを、愛してはいませんよね」
麗華さんの手が、リップを持ったまま止まった。
それから、ふっと笑った。今夜初めての、目尻まで動く笑い方だった。
「そうよ」
あっさりと、彼女は言った。
「私は、父の駒。生まれたときから、そう決まってたの。どこの家の誰と結婚して、父の銀行にどんな得をさせるか。それが、私の値段」
三秒、四秒、五秒。
輪郭は、一本の線のままだった。
「でもね」
麗華さんは、リップのキャップを、かちりと閉めた。
「駒にも、プライドはあるの」
ぶれない。
この人は、全部、本当のことを言っている。
「経営企画の本部長の椅子はね、父の口利きじゃないのよ。入社してから八年、私が自分で取ったの。数字も、計画も、全部、私が作ってきた」
麗華さんは、鏡の中の自分を見ていた。
「いつか、自分の名前で、会社を動かしたいの。一条泰造の娘じゃなくて、一条麗華として」
一本の線。
「……それなら、どうして、お父さんの言うとおりに」
麗華さんは、私のほうを向いた。
「父を売るような真似は、しないわ」
赤い唇が、まっすぐに結ばれた。
「父がどんなに小さい人でも。少なくとも、今はね」
一本の線。
今は、という言葉だけが、化粧室のタイルに、小さく響いて残った。
麗華さんは、バッグを取り上げた。
「勘違いしないで。あなたのことは、相変わらず嫌いよ。地味だし、愛想はないし、人の顔をじろじろ見るし」
「……すみません」
「でも、怜さんの隣に立つなら、背筋くらい伸ばしなさい。見てて、いらいらするの」
ヒールの音が、化粧室の外へ遠ざかっていった。
*
その夜、目黒川沿いの家に帰ったのは、十時過ぎだった。
私は、朝から流しに置きっぱなしだった食器を、黙って洗っていた。
頭の中で、麗華さんの声が回っていた。駒にも、プライドはあるの。自分の名前で、会社を動かしたいの。
名前。
自分の名前で生きたいと言った人の前で、私は、自分の元の名前を一度も口にしたことがない。
ふいに、横から手が伸びてきて、私が持っていた布巾を取った。
社長だった。シャツの袖を、肘までまくっている。
「拭くのは、私がやる」
「社長に、そんなことは」
社長は、私の手から洗い終えた皿を一枚受け取り、慣れない手つきで拭きはじめた。
「……割ったら、君が直せ」
「割れたお皿は、直せません」
「なら、割らない」
一本の線。
皿を拭く手つきは、本当に、割らないように慎重だった。
一枚拭くたびに、皿を明かりにかざして、水滴が残っていないか確かめている。役員会の資料をめくるときと、同じ目つきだった。
私は、次の皿を洗う手を、少しだけ遅くした。
*
翌朝、社長室の私の机の上に、厚手の白い封筒が置いてあった。
金の箔押しで、鷹宮ホールディングスの社章。中から、一枚のカードが出てくる。
『鷹宮ホールディングス 創業記念パーティ 本年のテーマ 仮面舞踏会』
カードの下の、出席者の欄。
社長の名前の下に、同伴者の欄がある。
そこに、濃い青のインクの手書きで、こう書いてあった。
『瀬名灯』
灯の字の、火偏の外側の点が、左下へ長く流れていた。
コメント
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第17話、拝読しました。麗華さんの「父を売らない女」というタイトルが、化粧室のシーンでこれ以上ないかたちで回収されるのが本当に巧みで…。「駒にもプライドはあるの」という台詞、そして「今はね」という留保が、彼女の強さと脆さの両方を一瞬で浮かび上がらせていました。あの場面、鳥肌が立ちました。 それから、社長が皿を拭く手つき――あの「割らない」という一言に、彼の灯さんに対する揺るがない信頼と距離感の取り方が全部詰まっている気がして、じんと来ました。ラストの招待状の「灯」の字、長く流れた火偏の点に、彼のどんな気持ちが滲んでいるんだろう…と考えずにはいられません。静かで、誠実で、とても好きなエピソードでした。