テラーノベル
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「……おい。中に誰かいるのか?」
301号室のドアの外。
涼ちゃんの声は、先ほどまでの苛立ちから一転して、低く冷ややかな警戒の色を帯びていた。
深夜の静まり返った廊下。
本来なら眠っているはずの元貴が、自分の呼びかけを無視して鍵を閉めたままにするはずがない。
ドアの内側で、若井は暗闇に溶け込むように立ち尽くしていた。
指先はドアノブに触れている。
けれど、決して回さない。
わずか数センチの鉄板を隔てて、元貴の「過去」を知る男と、元貴の「現在」を侵食する男が対峙していた。
(……涼架さん。あなたは、
元貴さんの信頼という鍵を持っているかもしれない)
若井は暗闇の中で、静かに、歪んだ笑みを浮かべる。
(でも、今この部屋の空気を吸い、彼の寝息を聞いているのは、俺だ)
「……若井か。そこにいるのは、お前なんだろ」
涼ちゃんの声が、確信に変わる。
「……開けろよ。元貴を怖がらせるつもりか? お前みたいな素人が、彼を支えられるわけないんだ。
その鍵を返して、さっさと自分の部屋に帰れ」
若井は、ドアに額を預けた。
涼ちゃんの言葉は、どれも正論だ。
正論だからこそ、
今の若井には心地よい子守唄のように響く。
「……帰りませんよ」
若井は、涼ちゃんには決して聞こえないほどの微かな声で、けれど断固とした意志を込めて呟いた。
「……彼は、俺にこの鍵をくれた。
……あなたが持っていない、
『隣人』という特権を、俺にくれたんだ」
外で、ガリガリと鍵穴を弄る音がした。
涼ちゃんが無理やりこじ開けようとしているのか、それとも自分の鍵が合わないことに焦っているのか。
その無様な音を聞きながら、若井は恍惚とした表情で、元貴の寝室へと視線を向けた。
(元貴さん。……外はあんなに騒がしい。
……でも、ここだけは静かですよ)
結局、涼ちゃんはそれ以上騒ぎ立てることはなかった。
「……覚えてろよ。お前が彼を壊す前に、
俺が引きずり出してやるからな」
捨て台詞とともに去っていく足音。
若井は、玄関の三和土に座り込んだ。
勝利感はない。
ただ、元貴という沼に、自分もろとも沈んでいく底知れぬ多幸感だけが、彼を支配していた。
翌朝、目が覚めた元貴がリビングで自分を見つけたとき、どんな顔をするだろう。
軽蔑されてもいい。通報されてもいい。
その時、元貴さんの瞳に映るのが「自分だけ」であれば、それでいい。
若井の指先は、もう二度と「普通」の生活には戻れないほど、シダーウッドの香りに染まっていた。
コメント
2件
段々思考が狂ってきてる、、、?