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さのじん
雨の後、名前を呼ぶまで
夜の路地に、雨が残っていた。
街灯に照らされた水たまりが揺れるたび、そこに倒れている人影が歪む。
「……っ、誰か…」
小さな声に気づいたのは、たまたまだった。
「え?」
吉田仁人は足を止めた。
コンビニ帰りのビニール袋がかすかに揺れる。
もう一度、声。
「……ここ、」
「どこ!?」
慌てて路地に入ると、壁にもたれかかるように座り込んでいる青年がいた。
濡れた髪、苦しそうな呼吸。
そして、腕には血がにじんでいる。
「ちょっと、怪我してるじゃん!大丈夫!?」
駆け寄ると、青年は顔を上げた。
その目は、どこか怯えていて——でも強く閉ざされていた。
「……平気」
「平気じゃないでしょ!こんな血出てるのに!」
「……放っておいて」
「無理。見捨てるとか無理だから」
仁人は迷わず自分の上着を脱いで、彼の腕に巻きつけた。
「立てる?」
「……」
「ねえ、ここじゃ危ないし、うち来なよ」
「……なんで」
「なんでって……困ってる人いたら助けるでしょ普通」
沈黙。
雨の音だけが残る。
やがて、青年は小さく息を吐いた。
「……少しだけ、」
「うん」
「……頼む」
「はい、ここ座って」
「……」
仁人の部屋は、こぢんまりとしていたが温かかった。
タオルと救急箱を持ってきて、彼の前にしゃがむ。
「腕見せて」
「……いい」
「いやよくないから。ほら」
無理やりじゃない。でも引かない。
しばらくして、青年は観念したように腕を差し出した。
「……痛っ」
「ごめん。でも消毒しないと」
「……」
「名前、聞いてもいい?」
「……」
「俺は吉田仁人」
少し間。
「……」
「言いたくなかったらいいよ。でもさ、呼び方困るじゃん?」
「……佐野」
「佐野、ね」
「……勇斗」
「勇斗か。よろしく」
勇斗は視線を逸らしたまま、小さくうなずいた。
その日から、奇妙な同居が始まった。
「ご飯できたよー」
「……」
「無視しないでよ。 ちゃんと食べないと治らないって」
「……いらない」
「はい却下」
「……」
「ほら、座って」
しぶしぶテーブルにつく勇斗。
「……なんでこんなに世話焼くの」
「性格」
「……変なの」
「よく言われる」
少しだけ、勇斗の口元が緩んだ。
それを仁人は見逃さなかった。
「今、笑った?」
「笑ってない」
「絶対笑った」
「笑ってないって」
「はいはい」
数日後。
傷は少しずつ治っていた。
でも、勇斗の心はまだ閉じたままだった。
「どこ行くの?」
外に出ようとする勇斗に、仁人が声をかける。
「……散歩」
「まだ無理じゃない?」
「平気」
「……帰ってくるよね」
「……」
「帰ってこなかったら、探すから」
「……面倒くさいな」
「うん、そういうやつ」
少しの沈黙のあと、勇斗はぼそっと言った。
「……帰るよ」
「うん」
その一言だけで、仁人は少し安心した。
夜。
帰ってきた勇斗は、珍しく自分から話しかけた。
「……なんで」
「ん?」
「なんで俺を助けたの」
仁人は少し考えて、笑った。
「さっきも言ったけど、性格」
「……それだけ?」
「それだけ。でもさ」
仁人は少し真面目な顔になる。
「放っておいたら、後悔すると思った」
「……」
「それに、勇斗、あの時すごい顔してた」
「どんな」
「“助けてほしいけど言えない”って顔」
勇斗は目を伏せる。
「……そんな顔、してたっけ」
「してた」
「……最悪だな」
「いや、むしろ人間っぽい」
「……」
「頼っていいんだよ、もうちょい」
その言葉に、勇斗の指先がわずかに震えた。
さらに数日後。
「……仁人」
「お、名前呼んだ」
「……うるさい」
「で、なに?」
「……俺、さ」
珍しく、勇斗が言葉を探している。
「うん」
「……ちょっと面倒なことに巻き込まれてて」
「うん」
「だから、あの時も……」
「逃げてた?」
「……まあ」
「そっか」
仁人はそれ以上、深く聞かなかった。
「……聞かないの」
「無理に話さなくていいでしょ」
「……」
「話したくなったらでいい」
長い沈黙。
そして——
「……怖かった」
小さな声。
「うん」
「誰も信用できなくて」
「うん」
「でも……」
勇斗は顔を上げる。
「……お前は、違った」
仁人は少しだけ驚いて、でもすぐ笑った。
「それ、ちょっと嬉しいかも」
「……調子乗るな」
「乗らない乗らない」
「……でも」
「ん?」
「……ありがと」
その一言は、初めてまっすぐ向けられたものだった。
窓の外では、雨が止んでいた。
あの日と同じ夜なのに、空気はまるで違う。
「なあ、仁人」
「なに?」
「……もう少し、ここにいてもいいか」
「最初からそのつもりだけど?」
「……そっか」
勇斗は、少しだけ安心したように笑った。
今度は、はっきりと。
仁人もつられて笑う。
「名前、ちゃんと呼んでよ」
「……仁人」
「うん」
「……ありがとう」
その声は、もう迷っていなかった。
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