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#契約結婚
草原草原

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#王道
涙乃
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草原草原

634
四十三階の扉を開けると、柏木室長が待っていた。
「瀬名さん。十時から、四十二階の大会議室で、臨時の経営会議が開かれます」
室長の手の中のタブレットに、あの写真が表示されていた。
「招集を求めたのは、堂島常務です。議題は、瀬名さんの件です」
社長の執務机は、空だった。
今朝、朝食の席で、昨夜のことは全部話してあった。御影さんの車のこと、フーズの委託工場の表のこと、手を組もうと言われたこと。
社長は、最後まで黙って聞いて、一言だけ言った。
「わかった」
その顔は、砂嵐だった。
*
楕円のテーブルを、役員と本部長たちが囲んでいた。
私の席は、いつもの社長の右隣ではなかった。テーブルの端の、ドアに一番近い椅子。説明を求められる人間が座る場所だった。
「さて」
堂島常務が、立ち上がった。
引き伸ばして印刷した写真を、テーブルの真ん中に放り出す。濃い緑の車。助手席に乗り込む、グレーのカーディガン。
「見てのとおりだ。坊ちゃんの秘書が、夜中に、うちを買おうとしてる男の車に乗り込んでる」
常務は、太い指で写真を叩いた。
「四十二億の数字が漏れた件、俺はずいぶん疑われたがな。漏れてたのは、社長室からじゃねえのか。社長の一番そばにいる人間が、買収者のスパイだった。そう考えりゃ、全部の辻褄が合う」
テーブルのあちこちで、視線が動いた。
私の顔に。それから、社長の顔に。
「瀬名さん」
副社長が、穏やかに言った。
「説明してもらえるかな。君の言葉で」
私は、立ち上がった。
膝が、少しだけ震えた。役員会で初めて質問をした日と、同じだった。違うのは、今日の私が、質問される側だということだった。
「昨夜、十時四十分ごろ、帰宅したところで、御影代表に声をかけられました」
私は、嘘をつかなかった。一つも。
「車の中で、十分間、話をしました。ドアは開けたままで、車は動いていません。御影代表からは、鷹宮フーズの委託先の工場について、情報の提供を受けました。その内容は、今朝、社長にすべて報告しています」
「帰宅した、ってのは、どこへだ」
常務が、口を挟んだ。
「その写真の場所は、どこなんだ。嬢ちゃんの家か」
答えようとして、喉が詰まった。
社長の家です、と言えば、写真よりも大きな噂が、この部屋から生まれる。
「……個人の住所ですので、お答えは控えます」
「ほう」
常務は、片側の頬だけで笑った。
「みなさん、聞いたか。答えられねえとさ」
「それで、誰が保証するんだ」
常務は、テーブルを見回した。
「嬢ちゃんは、人の嘘を見抜くんだろう。結構なこった。じゃあ、嬢ちゃんの嘘は、誰が見抜くんだ」
会議室が、静かになった。
誰も、何も言わなかった。
この部屋で、嘘を見る目を持っているのは、私だけだった。私の言葉が本当かどうかを確かめられる人間は、ここには一人もいない。
私の目は、自分の顔を見ることができない。
*
「柏木くん」
副社長が、壁際の室長に顔を向けた。
「社長室長として、瀬名さんの身元について、何か把握していることはあるかい」
室長は、一歩前に出た。手帳を開かずに、まっすぐ前を見て言った。
「瀬名さんの身元は、私も確認できておりません」
三秒。四秒。五秒。
シルバーフレームの奥の目は、少しも揺れなかった。
一本の線。
ぶれない。
この人は、本気でそう思っている。
派遣会社の登録情報以上のことを、室長は知らない。私が、知らせていないから。だから、室長の言葉は、本当だった。本当のことが、一番私を追い詰めていた。
「ありがとう」
副社長は、うなずいた。
「私はね、瀬名さんを疑う気はないんだよ。よく働いてくれている。それは、みんな知っていることだ」
丸い眼鏡の奥で、目が細くなった。
「ただ、社員の皆さんが、あの写真をどう見るかは、別の話だ」
一本の線。
この人は、今日も、一つも嘘をつかなかった。
「写真一枚で人を裁くなら、この会社の役員は、全員クビね」
テーブルの中ほどから、ヒールの音のような声がした。麗華さんだった。白いパンツスーツの腕を組んで、天井を見ている。
「夜の路上で、誰かの車に乗った写真くらい、ここにいる何人が撮られずに済んでいるのかしら」
何人かが、咳払いをした。
けれど、麗華さんは、それ以上は言わなかった。
*
社長が、口を開いた。
それまで一度も、写真を見ていなかった。
「彼女を疑うなら」
平らな声が、楕円のテーブルの端まで届いた。
「彼女を雇った、私を疑え」
会議室の空気が、止まった。
社長は、堂島常務を見ていた。
「瀬名を秘書にしたのは、私だ。彼女が私の隣で見たものも、聞いたものも、全部、私が見せた。彼女がスパイなら、私が間抜けだ。言いたいことがあるなら、私に言え」
常務は、一瞬だけたじろいだ。
それから、太い腕を組み直した。
「坊ちゃんがそう言うんなら、なおさらだ。社長本人が当事者なんだろう。だったら、公平に決めようじゃねえか」
常務は、役員たちの顔を順に見た。
「調べがつくまで、一週間、自宅で待機してもらう。それだけだ。クビにしろとは言ってねえ」
「一週間、休んでもらうのは、瀬名さんのためにもいいんじゃないかな」
副社長が、柔らかく言った。
「社員の目も、少しは落ち着くだろう」
挙手の数は、数えるまでもなかった。
社長は、しばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「……一週間だ。一日も延ばさない」
*
四十三階に戻って、机の引き出しを片づけていると、柏木室長が入ってきた。
「瀬名さん。待機の間、入館カードをお預かりします」
私は、首から下げていたカードを外して、室長の手のひらに載せた。
室長は、それを手帳に挟んだ。それから、珍しく、すぐには出ていかなかった。
「先ほどの発言は、私の知っている事実を申し上げただけです」
「わかっています」
私は、引き出しを閉めた。
「室長は、嘘をついていませんでした」
室長の手が、手帳の上で止まった。
シルバーフレームの奥の目が、初めて、測るのではない目で私を見た気がした。
「……あなたには、それも見えるのですね」
室長は一礼して、扉の向こうへ消えた。
*
自宅待機、と言われても、私の帰る場所は、目黒川沿いのあの家しかなかった。
社長の家で、社長の秘書が、社長の判断で待機する。可笑しくて、少しも笑えなかった。
その夜、社長は書斎から出てこなかった。
私は客間で、カーテンを閉めたまま、天井を見ていた。
待機の一日目の朝。
カーテンの向こうが、まだ白っぽく霞んでいる、五時半すぎ。
廊下を、足音が近づいてきた。
客間の扉の前で、止まった。
ノックは、なかった。
声も、なかった。
私は、ベッドの上で体を起こして、扉を見ていた。
枕元の時計の秒針が、一周した。
二周。三周。
扉の向こうで、誰かが息をしている気配だけがあった。
四周。五周。
私は、扉を開けなかった。
開けても、あの人の顔は、どうせ読めない。
扉越しなら、砂嵐も見えない。見えないほうが、今は、少しだけ楽だった。
五分が過ぎたころ、足音が、ゆっくりと離れていった。
玄関の扉が閉まる、小さな音。
私は、ベッドを下りて、扉に額をつけた。木の板が、ほんのわずかに温かい気がした。たぶん、気のせいだ。
*
昼すぎ、まどかからメッセージが届いた。
『灯、大丈夫? ご飯食べてる?』
それから、少し間を空けて、もう一通。
『これ、給湯室じゃなくて、役員秘書さんたちのとこから聞いた話。堂島常務、来週の取締役会で、社長の解任動議を出すって』
コメント
1件
第28話、一気に読んでしまいました…! 会議室の静寂、柏木室長が「嘘をついていませんでした」と初めて測る目で見た瞬間、心臓がギュッと鳴りました。 社長の「彼女を雇った、私を疑え」も、もう胸に刺さります。あの砂嵐の顔で言うんだなって。 最後のまどかさんのメッセージ、解任動議…続きが気になりすぎます。 一週間の待機、二人の距離がどう変わるのか、泣きながら次を待ちます。