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リフェアリー
128
五月。水車が、回った。
下流の村の、川の脇。古い石の台の上に、ひかりが組んだ木の輪が、乗っていた。直径、三メートル。十二枚の羽根。川の水が、羽根に当たって、輪が、ゆっくり、動いた。動いて、止まらなかった。
輪の軸が、杵を持ち上げ、落とした。臼の中の米が、搗かれた。
一度。二度。三度。
人の手が、触れていないのに。
「……動いた」ひかりが言った。
十人の貸し手が、川岸に立っていた。誰も、何も言わなかった。杵が落ちる音だけが、谷に響いていた。
要は、少し離れた場所から、見ていた。
一ヶ月半。五人が、山で木を切り、担いで下り、組んだ。ひかりは、毎日、石の台の前にいた。百五十枚の証が、米と味噌と塩になって、五人の腹に入った。五人の腹が、木を運んだ。木が、水車になった。水車が、米を搗いた。
未来の価値が、現在になった。
「ひかり」要は言った。「返済は」
「半年後。百六十枚」ひかりは、杵を見たまま言った。「でも、たぶん、三ヶ月で返せる。今日、三軒分、搗いた。昨日までは、一軒分だった」
十人のうちの一人が、笑った。
「半年でいい。利子は、半年分だ」
*
水車の翌週、三つの村の長が、峠の小屋に集まった。
集めたのは、要ではなかった。大畑だった。
「名前を、つけたい」大畑は言った。
「名前」
「三つの村のことだ。木曽と、隣村と、下流。三つで、証を使って、台帳をつけて、組合をやって、水車を作った。でも、名前がない。『三つの村』としか、呼べない。諏訪の人間に話すとき、甲府の人間に話すとき、名前がないと、話せない」
要は、大畑を見た。
半年前、大畑は、「他所者が信用を語るな」と言った。今、大畑は、三つの村を一つの名前で呼ぼうとしている。
「何と」
「市(いち)」大畑は言った。「甲府の市は、物を売り買いする場所だった。ここは、違う。物だけじゃない。約束も、評判も、運の悪さも、未来も、売り買いする。だから、市だ」
隣村の長が、うなずいた。ばあさまも、うなずいた。
「市」要は、繰り返した。
「お前が、決めることじゃない」大畑は言った。「三つの村が、決めた。お前は、他所者だ」
「はい」
「だが、市の、最初の帳面つけだ。それは、変わらん」
*
その夜、要は、峠の小屋の壁の板に、三つの村の名前の上に、一つの字を書いた。
市。
四つの印の上に。相場の板の上に。
要は、ノートを開いた。信用ロードマップ。〇、目。一、顔。二、三冊。三、割符。四、評判。五、手形。六、証。七、組合。八、貸す。
九つ目は、何だろう。
要は、考えた。三つの村の中は、回っている。遅く、重く、狭く。でも、回っている。足りないものは、何か。
外だ。
三つの村の外。諏訪。甲府。塩尻。東京。証は、三つの村の中でしか、通じない。評判台帳は、三つの村の人間しか、載っていない。知らない相手とは、まだ、取引できない。
「遠くの他人を、記録だけで信用できる社会」は、終わった。でも、「遠くの他人」は、まだ、そこにいる。十キロの外に。百キロの外に。
つなぐには、何が要るか。
要は、ノートに書いた。
『九、遠隔。離れた市と市を、つなぐ』
書いてから、まだ、形がないことに気づいた。手紙は、本物かどうか、確かめられない。声は、作れる。記録は、増える。離れた相手に、何かを、本物だと伝える方法を、要は、まだ持っていなかった。
*
「要さん」
つむぎが、小屋の戸口に立っていた。手に、紙を持っていた。
「甲府から、人が来た。手紙を持って」
「甲府」
「市の会長から。商人が、塩尻まで来て、そこから、隣村の孫さんが、峠まで持ってきた」
要は、手紙を受け取った。封は、なかった。紙は、折ってあるだけだった。
開いた。
会長の字だった。甲府の市で、四日間、隣で見ていた字。丸と、バツを書いていた字。
『土師要殿。御殿が、甲府に来た。倉庫を押さえ、米を押さえた。市は、まだ開いている。だが、評判台帳を、渡せと言われている。渡せば、市は御殿のものになる。渡さなければ、米が止まる。どうすればいいか、わからない。あんたなら、わかるか』
要は、手紙を、二度読んだ。
御殿が、甲府に来た。塩尻峠で、黒い作業着の男が言っていたとおりだ。東へ。長野へ。
要は、手紙を、机に置いた。
「これ、本物だと思う?」つむぎが聞いた。
要は、答えられなかった。
会長の字に見える。でも、字は、真似できる。手紙は、封がない。誰が、途中で開いて、書き換えたか、わからない。隣村の孫が持ってきた、という事実だけが、確かだ。孫は、塩尻の商人から受け取ったと言う。商人は、甲府から来たと言う。
三人の手を渡ってきた手紙。三人のうち、誰も、要は顔を知らない。会長以外は。
「わからない」要は言った。「わからないから、九つ目が要る」
外は、春の夜だった。峠の下で、水車が、回っていた。誰も見ていなくても。
コメント
1件
うわ、この「市」という命名、すごく好きです。物を売り買いするだけじゃなくて、約束も評判も未来も売り買いする場所——水車が回り始めたことで、村の「信用」の形が一段抽象度を上げた感じがしました。要がノートに「九、遠隔」と書きながらまだ形がないと気づくところも、この作品の誠実さだなあ。最後の手紙が本物かどうかわからない、という問いが、まさに次のステージの扉を開いていますね。水車が誰も見ていなくても回っている、という一文が染みます。