俺たちのステージ本番まで、あと2時間程あるので、元貴と一緒に文化祭を回ることにした。
本番前の緊張のせいか、俺はあまり食欲がなかったが、元貴は割と平気なタイプらしく、「涼ちゃん何食べたいー?」なんて愉し気に訊いてくる。
 「カレー? おにぎり? 調理クラブのレストランなんてのもあるよ、ここにする?」
「うん、そこがいいな」
 にこやかに俺を少し見上げる元貴に、目を細めて応えた。カレーは重いし、おにぎりはなんとなく元貴が苦手そうだし、レストランなら選択肢がありそうで良いと思う。
 「レストラン Harmony」と看板に書かれた家庭科室に着いて、案内を待つ。隣の空き教室まで、ホールとして使用される程、本格的なレストランスタイルとなっていた。
 「お席ご案内します」
「あれ、中条さん?」
「あ、藤澤先生、お久しぶりですー」
 随分と柔らかな笑顔で、挨拶を交わす久しぶりの彼女に、俺は少し目を丸くした。なんというか、纏っている空気が、幸せに満ちているというか…。気になって元貴を見ると、こちらを向いて頷く。
 「…え、もしかして…ホントに?」
「…そ。祭りの日にね」
「…えー…! …俺が触れたら嫌がるかな…?」
「…知らんよ」
 中条さんの後ろに着いて座席に移動する間、小声で話す俺たち。椅子に座ってから、意を決して中条さんに話しかけた。
 「…あのー…、若井さんと、その…」
「…あ…」
 中条さんが、頬を染めて、一声零した後、小さく頷いた。俺は、口の前で小さく拍手をする。
 「…わぁー…! おめでとう…! え、お祭りの日…?」
「…はい」
「…ぅわぁー…!」
 尚も手をぱちぱちしていると、「女子会すんな」と元貴に手を押さえられた。
そうかぁ、とうとう中条さんと若井はお付き合いを始めたのかぁ。いいなぁ、すごく、甘酸っぱい。
元貴はトマトパスタを、俺はサンドイッチを注文した後、顔を突き合わせて話を交わす。
 「ねえ、若井なんも言ってなかったよね?」
「さあ、涼ちゃんにわざわざ言うのも恥ずかったんじゃない?」
「えー? 教えてくれてもよかったのにー…」
「…気ぃ遣ったんじゃない?」
「…え…」
 一体、俺に対してなんの気を遣ったのか。それを元貴の口から聞かない方がいい気がして、そこでこの話は終わりにした。
ところで、なんで吹奏楽部の中条さんがここにいるんだろう、と2人して疑問に思いながら食事をしていると、その答えはすぐに分かった。
食事をしている間、中条さんとあと3人のクラリネット奏者で、四重奏を生演奏してくれるという「Harmony」の名に相応しい素敵なレストランだった。他の調理クラブの子に訊いてみたところ、中条さんと仲のいいお友達がレストランでの演奏をお願いして、配膳もお手伝いしてくれてるという事だった。成る程、だからここに中条さんがいたのか、とやっと納得がいった。
お会計を済ませて、中条さんと挨拶を交わす。
 「ありがとう、素敵な演奏だった」
「ありがとうございました。午後のステージ、楽しみにしてます」
「吹部のも楽しみにしてるね」
「どーせ若井だけ観に来んだろ」
「もう、ホント性格悪いよ大森くん」
 中条さんからのゆっくりとした片手チョップを、元貴が白羽どりで受け止めて笑った。ばいばいと手を振って、元貴は案内図を広げる。
 「どーせなら、若井んとこ行って合流してから、ステージリハ行きますか」
「あ、もうそんな時間か」
 俺は、腕時計を確認して、少し緊張が戻ってきた。若井がいるというサッカー部のお店は、「ストラックアウト・ビンゴ」というもので、どうやらサッカーボールでの的当てゲームらしかった。校舎外のグラウンドの一角に、元貴と一緒に向かう。
 「おー、涼ちゃん、元貴、いらっしゃい。あれ、もうそんな時間か」
 俺と元貴の顔を見ると、若井が同様に腕時計を確認した。
 「そー。だからこれやったら一緒に体育館向かおうぜ」
「あーい」
 列に並ぶ元貴の言葉に返事をしながら、若井がゲームの案内へと戻っていく。何組かのお客さんがゲームを楽しんだ後、俺たちの番になった。少し先に、左上から1番から9番まで書かれた正方形の板が嵌められた、的が2つ並んで置かれていた。
 「えっと、この線から、ボールを蹴ってもらって、縦横斜めの列を抜けたらビンゴ成立です。大人は3回しか蹴れません。悪いけど残念賞はありません」
「なんで残念賞確定なの」
「ははは、まあ頑張って」
 俺の肩をポンと叩いて、若井は少し離れた場所で見守っている。俺は、手と脚をブラブラさせて、的の方を見据えた。
 「手は関係ないだろ」
「いーの!」
 横から、すかさず元貴が突っ込んでくる。元貴は元貴の的に集中してよ! と思いながら、まずは真ん中の5番を狙ってボールを蹴った。すると、斜め下に飛んでいって、7番の的板が抜けて、わっと拍手が上がる。
 「やるじゃん、涼ちゃん」
「いぇい」
 若井が褒めてくれて、俺も片手でガッツポーズを作って見せた。次こそは、5番を狙おうと、脚の力加減を調節しながら、ボン、と蹴る。今度は、狙った通りに5番の板が抜けた。
 「ぅわー、すごい!」
「おー、あと3番、3番!」
 俺が興奮して喜ぶと、若井も手を叩いてはしゃぐ。じりじりと狙いを定めて、3番目掛けて三つ目のボールを思い切り蹴った。すると、俺の脚からすっ飛んで行ったボールは、なぜか隣の元貴の的に当たり、6番の板を抜いてしまった。元貴の的は、4、5、6番と、横並びに空いていた。
 「あ、やった、ビンゴ」
 元貴が両手を上げてガッツポーズを取る。俺も合わせて、両手を上げて、若井を見た。
 「いやいやいやいや、ダメよ。1人、ひと的だから」
「ケチくさいこと言うなって」
「ダーメだって! ほら、交代交代!」
 若井に引っ張られて、元貴は不貞腐れたような顔をしながら引き摺られていった。俺も、くすくすと笑いながら、その後に続く。
若井の交代も無事に済んで、3人で体育館へ向かうと、高野と綾華が既に到着していた。
 「あれ、お相手さんは?」
「あ、もう客席取っとくって」
「うちも」
 高野と綾華にも、それぞれに彼女さんと彼氏さんがいる。元貴の問いに、2人は揃って客席の方を指さした。高野は同じ大学の彼女さんで、綾華は高2の時から付き合っている人らしい。
 場当たりのリハが始まって、俺たちは自分の立ち位置や楽器の場所などを、ステージ設営係の生徒たちと確認する。
 「2曲目までが涼ちゃんゲスト曲で、最後の1曲は、涼ちゃんはハケて、客席から聴いててくれる?」
「うん、わかった」
 元貴とも確認が済んで、後は本番を迎えるだけとなった。18時の開演と共に舞台袖で待機し、まずは吹奏楽部の演奏会からスタートした。
 「頑張って」
「うん」
 クラリネットを持った中条さんに、若井が袖で言葉を掛けた。カーテンで隠れるギリギリまで若井は舞台に近づき、優しい眼で中条さんの演奏を見守っている。
 「…付き合ったんだって?」
「ぅわ…!」
 若井の耳元で、俺が話しかけると、体を大きく跳ねさせてこちらを見た。
 「あ、聞いた? 誰に?」
「中条さん。レストランに行ったら」
「あー、生演奏か、言ってたな。うん、まあ、そう、へへ」
 嬉しそうに、緩い顔をして笑って照れた。
 「お祭りの日?」
「うん、そう。帰り道にね。って言わせんなよ、恥ずかしい!」
「いいじゃん。…いいなあ」
「…涼ちゃんも早く…」
 言いかけて、若井が口を噤む。
 「…いや、いいや」
「………」
 俺が、なにも応えず黙っていると、若井が肩に手を置いた。
 「詳しい事は全く知らんけどさ、俺は、涼ちゃんにすっごく感謝してんだ。元貴を、ここに戻してくれて」
「…俺は…別に…」
「俺1人じゃ、ダメだったから。あの時、涼ちゃんが元貴の事にちゃんと気付いてくれて、元貴も涼ちゃんに会いに学校に行けて。ホントに良かったって思ってる。あの歌の通りだよ」
「え?」
「『気付いてくれたから、未来の為に会いに来たんだよ』って、まんま涼ちゃんと元貴の歌だって、思ったよ」
 若井がニコッと笑って、肩をポンポンとすると、中条さんの方へ視線を戻した。
 俺は、後ろを振り向いて、舞台袖の奥の方で、高野と綾華と談笑している元貴を見つめた。そうなの? 元貴。あの歌は、俺とのことを歌ってくれてるの?
緊張で冷たくなっていた心が、ほかほかと暖まる感じがして、俺は胸に手を当てて瞼を閉じた。俺は、今回ゲストとして呼ばれただけだけど、絶対に、成功させよう。皆に、来てくれて良かったと思ってもらえるような、そんな演奏にしよう。
 大きな拍手と共に、舞台が暗くなる。吹奏楽部からミセスへと舞台の暗転が行われていった。俺たちは、床に貼られた蓄光テープの僅かな光を頼りに、自分の場所へと歩いていく。俺がグランドピアノの椅子に腰掛け、それぞれが楽器を用意すると、舞台の照明が明るくなった。
お客さんは後ろまでびっしりと埋まっていて、俺はあまりそちらを見ないようにしていた。吹奏楽部や大学の演奏会などで舞台には慣れているはずなのに、初めてのバンド演奏という事で、かなり緊張してしまっている。
元貴が、若井、綾華、高野、そして最後に俺と眼を合わせて、にっこりと微笑んだ。俺も、ぎこちないながらも笑顔で頷いた。
 『初めまして。Mrs. GREEN APPLEです』
 元貴が、マイクを通して、皆で決めたバンド名を口にした。
 『えー、このバンドには、この間まで教育実習に来ていた先生達が加入してくれています。まず、ベースに高野先生』
 高野が手を上げると、客席から「たかしー!」と声が上がり、暖かな笑いで包まれた。
 『そして、ドラムに綾華先生』
 綾華が手を挙げると、「綾ちゃーん!」とまた声が上がった。
 『えー、今回、ゲストとして参加してもらっている、涼ちゃん!』
「え、僕だけ涼ちゃん?!」
 つい突っ込んでしまうと、会場から笑い声が上がり、「涼ちゃーん!」と呼ばれた。俺は笑顔で、手を振り返す。少し緊張が、解れた。
 『そして、ギターは若井、ギターボーカルは大森で、演奏させてもらいます』
 元貴が頭を下げると、皆でそれに倣って頭を下げた。大きな拍手に包まれて、元貴が顔を上げる。
 『1曲目から、飛ばしてます。皆さん、着いてきてください』
 元貴が皆を振り返って目配せをする。
 『アウフヘーベン』
 綾華のカウントが入り、アップテンポなバンドサウンドが鳴り響く。俺は、グランドピアノに座り直し、最初の鍵盤に手を置いた。
音源から聴こえてきたあの激しいながらも美しいピアノを、俺の指で奏でていく。元貴達の音に合わさり、お客さんへと届いていく。俺は、いつしか緊張はどこかへいき、気付けば感情豊かに音を鳴らしていた。高野や元貴と視線を交わし、頷き合う。楽しい。楽しい!
 『ありがとう』
 1曲目が終わり、元貴の言葉に大きな拍手が贈られる。会場がすごく温まっているのを、肌で感じた。2曲目の為に、俺は舞台袖からフルートを持ってきて用意する。
 『次の曲は、とても明るい曲なので、皆さんもノリやすいと思います。ぜひ、サビではこう、腕を振って、一緒に楽しんでください』
 喋り終えた元貴が俺を見て確認をするので、俺は頷いて合図を出した。
 『それではゲスト涼ちゃんによります、フルートです』
 俺は、元貴の隣に立って、お辞儀をする。
 『庶幾の唄』
 元貴のパソコンから同期が流れて、俺は高らかにフルートを鳴らす。元貴の歌が始まると、しばらくフルートはお休み。俺は舞台の上を左右に歩き、お客さんの顔をよく見て回った。
吹奏楽部の面々から、松嶋先生のクラスの子達。壁際の先生達の中に、笑顔の松嶋先生と、事務所の戸田菜穂さんも一緒に立っていた。元貴たちの様子を見に来たんだな、と微笑んだ後、俺は尚も視線を会場内に移す。少し後ろの方には、亮平くんと蓮くんの姿もあった。高野と綾華のお相手さんも、座って観てくれている。俺は、サビに入って、またフルートを奏でながら、会場の一番後ろのお客さんまで見渡した。意外と、一番後ろまで顔が見えるもんだな。
 そんなことを考えていた時。
 
 
 
 
 
 俺の眼に飛び込んできたのは。
 
 
 
 
 
 
 将太先輩…?
 
 
 
 
 
 
 
 俺は、危うく音を外してしまいそうな程に心臓が跳ねて、急いで視線を舞台の方へ戻した。間奏のメロディーもなんとか鳴らし終えて、2番のAメロに入った所で、もう一度、フルートを休んで一番後ろの立ち見席を確認する。遠くて顔はそこまでハッキリとは見えないが、確かに、将太先輩のような気がする。いや、俺の見間違いか? だって、こんな所にいるはずがない。
だけど。
 俺は、その人から眼が離せなくなっていた。壁に背をつけているその人も、俺だけをまっすぐに見つめている、気がする。落ち着かない心のまま、俺はなんとか最後まで演り切った。
会場から拍手喝采を浴びながら、俺は深々とお辞儀をする。
 『ピアノ、そしてフルートのゲスト、藤澤涼架先生でした!』
 元貴がそう言って、俺に向かって拍手をする。メンバーの拍手に見送られ、俺は舞台袖から客席へと移動した。
 まばらに、出て行く人や入ってくる人、そして椅子席に移動する人などの動きがある。そんな中、端を潜り抜けて、なんとかさっきの人がいた最後列まで移動したが、その姿は無くなっていた。
やっぱり、俺の見間違いか…。そう安堵して、出口に近い壁に背中をもたれ掛からせる。一番後ろから見る元貴たちも、とてもキラキラと輝いていた。
 ああ、青春の輝きだ。
 俺は、自分が先程見た、青春の苦味の幻影を思い出して、その差に溜息をつく。しつこい程に囚われる影。元貴に真っ直ぐ向き合えない、理由。そんな自分の嫌なところを、思い知らされたようだった。
 『それでは、次が最後の曲です』
 3曲目は、俺もなにを演奏するのかは知らされていない。俺は、皆の演奏に集中を戻した。
 『青春真っ只中の俺たちが、真っ只中の皆に向けて歌う唄じゃないかも知れないけど、俺はこの曲を、あなたに聴いて欲しいのです』
 元貴が、真っ直ぐに俺を見て、そう言った気がした。
 『それでは、ラスト、聴いてください』
 元貴が、ギターを構える。
 『soFt-dRink』
 淡いような、不安定なような、時を遡るような不思議な音の同期が流れて、皆の演奏が重なっていく。
 
 
 
 
 
 どこもおかしくはないよ
午前5時には日は昇り
硬くなった身体を 解すように眠る
 なにもおかしくはないよ
街はもう既に目覚めて
別日を迎えたのだよ
躰が ほら 沈み溶けてゆくよ
 泡の様に 脆く全ては去って
甘味の様に 時に笑ったって
気持ちがいいことばっかじゃない
使い余した青春は
いつかは酸化して
使えなくなんだろうな
いつかは零れて
忘れていくんだろうな
 
 
 
 
 
 青春の権化の様な文化祭の場で、青春のそうではない部分について歌うような、とんでもない事をやってのける元貴。俺は、その大胆さに、思わず笑ってしまう。笑ってしまってから、涙が止まらなかった。
 
 
 
 
 
 感じてよ もう真実は
目の前にあるんだよ
どうか その若さで
描いてみせてよ
 泡の様に 脆く全ては去って
甘味の様に 時に笑ったって
死にたくなる事ばっかじゃない
炭酸の様な青春は
 いつかは酸化して
さよならが来るんだろうな
だけども 今はさ
考えたくはないな
 
 
 
 
 
 しんと静まり返った会場から、音が消えた。その瞬間、波の様に大きな拍手が舞台へと押し寄せていった。青春真っ只中の子たちにも、もちろんそれを経験した大人たちにも、しっかりと元貴の歌は、届いたのだ。いつまでも鳴り止まない拍手を受けながら、元貴たちが深くお辞儀をして、舞台袖へとハケていった。
俺は、涙を拭いて、元貴たちのところへ戻ろうと、壁から背中を離した時、すぐそこの椅子席から立ち上がり、こちらの出口へ向かおうとする人影と、眼が合った。
 
 
 「………涼架………」
 「……将太、先輩…」
 
 
 舞台では、次の発表団体の為に、明転が始まっていた。
 体育館を出て、もう真っ暗になった景色の中を、裏の植栽の通路へと将太先輩に着いて歩いて行った。あれから3年、将太先輩は、変わらず癖っ毛な黒髪に綺麗な黒い瞳、白いノーカラーシャツに黒のジャケットセットアップを合わせていた。
しばらく歩くと、その歩みを止めて、俺を振り向く。
 「…久しぶり」
「…お久しぶりです」
 優しく笑いかけてくれるその表情に、懐かしさが込み上げる。
 「…将太先輩、今日はどうして…? 」
「…うん。…松嶋先生に、呼ばれてさ」
「…え…?」
「涼架が、バンドやるから、観に来いって」
「…そうだったんですか…」
 松嶋先生が…。でも、何故だろう? 先生にそんな義理は全くないはずだけど…。
何故かはわからないけど、なんの為かは、きっとわかってる 。
俺の、使い余した青春に、区切りをつける為だ。
 「…将太先輩」
「ん?」
「…あの時は、本当に、すみませんでした」
 俺は、深く頭を下げて、謝罪した。将太先輩から、ふふ、と困った様な笑い声が聞こえた。
 「…やっぱり、気にしてるよな。ごめんな」
「違う、そうじゃなくて!」
 俺は、顔を上げて、先輩を真っ直ぐに見つめる。涙が込み上げてきて、それが零れるのもお構いなしに、言葉をなんとか繋げた。
 「俺、先輩が、好きでした! あの告白だって、すごく、すごく嬉しかったんです! 本当は、先輩に、俺も好きですって、伝えたかった! ずっとずっと好きだったって、そう…言いたかったのに…! 」
 両手を握り込み、顔を覆う。涙と嗚咽が止まらない。
 「俺が、弱くて…。あの場の空気が、怖くなって、先輩が傷付くのもわかってて、あそこから逃げたんです…。…ごめんなさい…。ごめんなさい…」
 この後に及んで尚、涙を流しながら先輩に罪悪感を植え付ける様な伝え方しかできない自分が情けなくて、狡くて、嫌になる。
袖で必死に目元を拭って、なんとか涙を引っ込めた。顔を上げて、今度は涙を見せずに、先輩を見つめる。
 「…先輩、好きって言ってくれてありがとうございました。俺も、先輩が、ずっと大好きでした」
 真剣な顔をして、黙って聞いてくれている。そのうち、ふ、と顔が緩んで、微笑んでくれた。
 「…ありがと、涼架。俺も、やっとなんか、あの場所から解放された気がするよ」
 眉を下げて、涙目で笑う先輩を見て、俺も、涙を眼に浮かべて、笑顔を返した。スッと手が伸びてきて、俺の前で手のひらを止めた。俺も、手を差し出して、握手をする。
 「…俺も、ずっと好きだったよ、涼架」
「…はい」
「フルート、すごく良かった。腕上げた?」
「ふふ、大学でも頑張ってますから。先輩は?」
「俺も、大学で続けてるよ。あと…」
 先輩の視線が、俺の後ろに移る。釣られて振り返ると、俺たちより少し背の高い男性がこちらに近づいて来ていた。
 「…山田裕貴さん。今、一緒に暮らしてるんだ」
 先輩の言葉に驚いていると、その人は柔らかく微笑んで、会釈をしてくれた。
 「裕貴は、プロの楽団で、チェロを弾いてんだ。大学でね、知り合って。俺も来年卒業したら、そこに」
「そう、なんですね」
 俺との握手をそっと離すと、先輩は山田さんの隣へ並んで立った。
 「…涼架、俺は今、幸せだから」
 先輩が、山田さんの手を取る。
 「だから、涼架も。ちゃんと幸せになって」
 2人の素敵な姿に少し見惚れてから、先輩の言葉に笑顔で頷いた。頬をひと筋の涙が零れる。これは、先輩を好きだった俺の、最後の涙だ。
 先輩たちと挨拶を終えて体育館の表へ戻ると、全ての発表が終わり、皆、グラウンドの方へ集まっていた。模擬店や展示などの燃えるゴミを中央の井桁に集めて、キャンプファイヤーが始まろうとしていた。生徒やお客さんもチラホラと輪になり、懐かしのフォークダンス…では無く、J-POPや洋楽など様々なBGMを流し、皆で歌ったり踊ったりしてラストを飾るという訳だ。
俺は、若井達を見つけて、走り寄った。それぞれに、恋人と手を繋いで、キャンプファイヤーの始まりを見届けている。しかし、そこには彼の姿が無かった。
 「あれ、元貴は?」
「あれ? 涼ちゃん一緒じゃないの?」
「さっき、出番終わりに、涼ちゃん迎えに行ってくるって言ってたけど?」
「すれ違ったんかな?」
 若井も綾華も高野も、口々に元貴の居場所を知らないと言う。俺は、ありがとう、と伝えて、一旦人の群れから離れた。辺りを見回しても、元貴の姿は見えない。スマホで連絡をしてみたが、コール音が鳴り響くだけで、繋がる気配がなかった。俺は、もう一度辺りを見回してみる。すると、視界の端で、何かが揺れた気がした。少し校舎の方を見上げると、3階の窓に、白い影が揺れている。眼を凝らすと、白い大きな布が、窓際で動いていた。俺は、思わずその場から走り出す。
玄関から靴を脱ぎ捨て靴下のまま走る。階段を駆け上がり、3階の多目的室に着いた。肩で息をしながら、『お化け屋敷』の看板が外された扉を開く。暗幕も全て片付けられていて、ただの広い教室になっていた。明かりもついていない教室の窓際に、ポツンと、白い安物のシーツを被った人影が、佇んでいる。俺は、ドアを閉めて、それに声をかけた。
 「………元貴?」
「………オバケだよ」
 すっぽりと布を被ったまま、こちらを向いて、手を前に出してオバケらしいポーズを取った。俺は、我慢出来ずに、駆け寄ってシーツごと元貴を抱きしめた。腕の中に大人しく収まる元貴に、俺は、自分の事を話し始める。
 「元貴、俺…ずっと、心に、将太先輩の事が引っ掛かってた。あの時、好きだったのに、好きって言えなかった。先輩を1人置いて、俺は自分だけ逃げた。それが、どうしても、後悔として、恐怖として、ずっと消えなかった」
「……うん…」
「…でもね、今日、さっき、将太先輩が、バンドを観に来てくれてて。初めて、ちゃんと、話が出来た。俺の気持ちを伝えて、先輩にも謝れて。しかも、今幸せだって、ちゃんと先輩に笑ってもらえて」
「……うん」
「………元貴の、おかげ」
「…え?」
 元貴の頭に、シーツ越しに顔を寄せる。
 「…元貴が、松嶋先生に頼んでくれたんじゃないの? 先輩を呼んでくれって」
 今、先輩の話をしても特に驚きを見せなかった元貴の態度で、俺は確信を得た。先輩にバンドを観に来るようお願いしたのは、元貴だと。
 「それに、あの歌。soFt-dRink。…めちゃくちゃ沁みたぁ…」
「…ふ」
 元貴が小さく笑う。
 「…ありがとう、元貴。………全部、ありがとう」
「………ん」
 俺は、元貴を抱きしめる腕に力を込めた。
 「………好き」
 そう言葉にすると、もう、止まらなかった。
 「…元貴、好き。元貴が、大好き。俺、元貴のことが、ずっと好きなんだ」
 元貴の肩を持って、まだシーツに隠れる元貴を、正面から見据える。窓から入るキャンプファイヤーの光で、布に元貴の影が薄く見えた。
 「もう、先生じゃなくなった。青春の苦味からも、解放された。俺、元貴を好きでいても、いいかな?」
 元貴が、少し俯く様に顔を下げる。俺が元貴の言葉を待っていると、急にシーツが俺にバサッと被された。
そっと、シーツ越しに、元貴の唇が俺の唇に触れる。俺はびっくりして、布を被ったまま眼を丸くして固まった。
 「…ずっと、こんな感じだった。涼ちゃんといても、涼ちゃんを好きでも、ずっと、布一枚隔てて心を隠されてるみたいな」
 元貴が、小さく声を零す。俺は、そっと布を外して、床に落とした。
 「…もう、無いよ。なにも、無い。元貴を好きな気持ちだけだよ」
 元貴が、急に抱きついてきた。と思ったら、脚を払われて後ろに体勢を崩される。
 「ぅ…わ…っ!」
 元貴がしっかりとした体幹で支えてくれて、思ったよりもゆっくりと床のシーツの上に身体を倒された。両手を俺の顔の横につき、上から跨るように、元貴が覆い被さって見下ろしている。
 「…涼ちゃん。好き」
「…うん。俺も。元貴が好き」
 元貴が、口角を柔らかく上げて、笑窪を見せた。
 「やっと、素直に言ってくれたね」
 そう言って、ゆっくりと顔が降りてくる。俺は、眼を閉じて、元貴のキスを受け入れた。何度か啄む様なキスを繰り返していると、外から明るい音楽が聴こえてきた。
2人で身体を起こして、そっと窓に近づいて外を見る。
キャンプファイヤーを囲んで、若井と中条さん、高野や綾華と恋人さんたち、亮平くんと蓮くん、松嶋先生と戸田さんも、そして、将太先輩と山田さんもいる。手を繋いで輪を作り、ダンスをしたり、それを見守る様にして笑っていたり。それぞれが皆、幸せそうにそこでただ笑い合っている。
 「…元貴も、行く?」
「行くわけないでしょ」
 しゃがんだまま、窓の下から少し顔を覗かせて、元貴は苦々しく言い放つ。俺も同じ様に顔を出しながら、ふふ、と笑った。元貴らしいな、と窓の下に、壁に背をつける様にして座り込んだ。
元貴も同じ様に隣に座り、俺の手を握る。顔を向けると、もう一度、ゆっくりと顔が近付いてきた。眼を閉じて、唇を重ねる。心臓が痛いくらいに暴れて、耳まで熱くなってきた。
 「…涼ちゃん」
「…ん?」
「…付き合ってよ」
「…うん、もちろん」
 元貴が真っ直ぐに俺を見つめて、言葉を続ける。
 「恋人としてだけじゃなくて… 」
「え?」
「…バンドの、メンバーとしても。俺に、俺の夢に、付き合って欲しいんだけど…」
 俺は、目を丸くして、驚きの表情を見せた。
 「涼ちゃんに、フルートの夢があるのも知ってる。それを、完全に奪いたい訳じゃないんだ。だけど、今日、涼ちゃんと演奏して、俺、やっぱり、涼ちゃんの音が欲しいと思った」
 元貴の眼が、俺を捉えて離さない。
 「99%、デビューしてみせるから。俺の傍に、ずっといてくれない?」
 
 
 
 
 
 なんだよ、これ。
 
 
 まるで、プロポーズじゃないか。
 
 
 
 
 
 俺は、ふ、と笑顔を湛えると、元貴の首に腕を回して抱きついた。
 「…俺、フルート捨てないよ。でも、元貴のお願いも断れない。だから、どっちも、めちゃくちゃ頑張るから。それでも、いい?」
「…うん、ありがとう…」
 元貴も、俺の背中に手を回して、ポンポンと優しく叩く。そのまま、ぎゅっと力を込めて抱きしめてくれた。
 「…今度、キーボードみに行こうか」
「うん」
 元貴に誘われて、俺は頷く。2人で抱き合っていると、元貴のスマホが鳴った。面倒臭そうに画面に目をやる元貴が、顔を歪めてメッセージを読んだ。
 「…戻って来いってさ」
 若井か、高野か、綾華か、メンバーの誰かに呼び戻されたようだ。俺は、くす、と笑って、「行こうか」と言った。立ち上がろうと床を押す手に力を入れる前に、肩を押されてまた床に押し倒される。
 「…え?」
「…もっかい」
 上から見下ろして熱を帯びた眼を向ける元貴が、さっきまでとは違う、深くまで侵ってくるようなキスを俺に落とす。この子は、ホントに高校生か…? と、俺はボーッと火照る頭で僅かに考えた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
コメント
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ねええええええ七瀬さん私の好み把握してます??アウフヘーベンほんとに大好きなんです😭もうなんかもう幸せですこの物語読んでやっともりょき繋がった😭soft drinkを選ぶのセンスいいですねマジで!!!庶幾の唄もアウフヘーベンもピアノフルートと涼ちゃんの出番が多い曲なのも好きですもう全部好きですありがとうございます
将太先輩との思い出を振り切ってもっくんに告白するって強くなった涼ちゃんを感じた!!しかも教室でシーツの上からとかなんかエロwwなんかお化け屋敷のシーン毎回私の心を揺さぶられるwまじ最高!!
1曲目アウフヘーベン!! ENSEMBLEツアーを思い出す。パブリックに続けてアウフヘーベン歌ってたんだよ〜♬ soFt-dRinkも大好き。儚げで青春で今を大切にしたい曲で今のストーリーに合ってていいね🫶 庶幾の唄もくると思った🥹 歌詞が可愛い♥ こいねがうという意味があるように、心から願うといいなぁ🫰✨