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太宰治♀の朝。
注意:太宰の一人称の小説です
視界を埋め尽くすのは、琥珀色の液体の向こう側に揺れる、セピア色の記憶だ。 薄暗いバーのカウンター。微かに漂う煙草の匂いと、氷がグラスと触れ合う涼やかな音。そこには二人の友人がいて、他愛もない会話に花を咲かせていた。口を開けば皮肉と笑いが溢れ、胸の奥がじんわりと温かくなるような、そんな充足感。 ああ、楽しいな。ずっとこの時間が続いてくれればいいのに。 そう願った瞬間に、色彩は音を立てて崩れ去った。
光を失った虚無の空間。そこに、私と、一人の男が立っていた。 織田作。 その名を呼ぼうとした喉が、ひりつくように焼ける。彼は何も言わず、ただ静かに背を向け、遠ざかっていく。 「待って、織田作! 行かないでくれ!」 必死に伸ばした指先は、空を切るだけ。彼は一度も振り返らない。その背中が闇に溶けていく恐怖に、私は喉が裂けるほどの絶叫を上げた。
――そこで、世界が爆ぜた。
わずかに涙の膜が張った瞳を開くと、視界には見慣れた社員寮の、染みの浮いた天井が映っていた。 「……悪い夢だ……」 熱を持った額に手を当て、掠れた声で呟く。心臓の鼓動が、耳の奥で不快なほど速く打ち鳴らされている。夢の中の残像が、肺の奥に溜まった澱のように重く、苦しい。 私は重い体をゆっくりと起こした。寝返りのせいで、腕や首筋に巻かれた包帯が緩み、はだけている。鏡を見ることもなく、慣れた手つきで新しい包帯を巻き直していく。指先が自分の肌に触れるたび、そこにある確かな「生」の感触が、かえって私を憂鬱にさせた。 ゆるふわとした焦茶色の長い髪が肩を滑り、琥珀色の瞳はどこまでも暗く、沈んでいる。
もし、今ここでこの首を絞めてしまえたら。 ふと浮かんだ思考を、日常の動作で塗りつぶす。 クローゼットからいつもの砂色のトレンチコートを取り出し、袖を通す。朝食の準備をする気力など、微塵も湧かなかった。胃の腑のあたりが冷たく冷え切り、固形物を受け付ける余地などどこにもない。
玄関を出る直前、スマートフォンに届いていた短いメッセージを眺める。
『おい、生きてるか』
送り主は中也。付き合っているという関係性が、今の私を辛うじてこの現世に繋ぎ止めている唯一の錨のようだった。返信を打つ指が震えそうになり、そのまま画面を消した。
社員寮から探偵社までの道のりは、いつもより長く感じられた。陽光が眩しすぎて、自分の影だけが泥のように濃く地面に張り付いている気がする。 探偵社の重い扉を押し開けると、案の定、怒号が飛んできた。
「太宰! 遅いぞ、この唐変木が! 予定の時間を十五分も過ぎている!」
国木田君が、手帳を叩きながら青筋を立ててこちらを睨んでいる。 私はいつものように、ふわりとした笑みを浮かべた。その表情は完璧で、さっきまで夢の中で絶叫していた女と同一人物だとは、誰も気づかないだろう。 「やあ、おはよう国木田君。途中で美しい川を見かけてね、つい入水日和かなあと見惚れていたんだよ」 「貴様という奴は! 朝から不吉なことを言うな!」
喋り方は以前と変わらない。飄々として、掴みどころのない私。 しかし、デスクに座り、書類を手に取った瞬間の横顔には、自分でも制御しきれない深い影が落ちていた。 生きている。ただそれだけのことが、今日の私には、あまりにも重荷だった。
国木田君の罵声をBGMに、私は開いたままのノートの端に、意味のない線を引いた。ペン先が紙を削る感触だけが、今の私に与えられた唯一の実感だ。 夢の中で、織田作は一度も私を見なかった。あの背中は、私がどれほど美しくなろうが、どれほど言葉を尽くそうが、決してこちらを向くことはない。それは決定された過去であり、修正不能な断絶だ。 私はふと、自分の細い指先を眺めた。包帯に守られたその肌の下には、絶えず血が巡り、心臓は私の意思とは無関係に、執拗なまでに規則正しく時を刻んでいる。
「……ねえ、国木田君」 「なんだ、また仕事をサボる言い訳か」 「いや。ただ、世界が急に、あまりにも鮮やかすぎて、目が眩んだだけだよ」 「……あ? 寝ぼけているのか。さっさと手を動かせ」
国木田君は呆れたように鼻を鳴らしたが、その視線が一瞬だけ、私の手元の震えに止まったのを、私は見逃さなかった。彼は厳しい男だが、人の痛みに無頓着なわけではない。それが今の私には、少しだけ残酷に感じられた。 優しさは、死の淵に立っている者にとっては、引き戻す鎖のようなものだ。
昼過ぎになっても、空腹は訪れなかった。 探偵社の窓からは、ヨコハマの喧騒が見下ろせる。行き交う人々、響くクラクション、海から吹く潮風の匂い。そのすべてが私を素通りしていく。 私はふと、コートのポケットの中でスマートフォンの感触を確かめた。中也に返信を打たなければならない。そうしなければ、あの横暴な小男は、文字通り私の寮のドアを蹴り破って現れるだろう。
『生きてるよ。残念ながらね』
それだけの文字を打ち込んで、送信ボタンを押す。
数秒後、振動が手のひらを叩いた。
『チッ、ならさっさと仕事しろ。夜、迎えに行く』
その短く、乱暴な言葉が、不思議と胸の澱をわずかに掻き乱した。 彼は私を「美しい女性」として扱うこともあるが、それ以上に、一人の厄介で、しようのない人間として扱っている。その容赦のなさが、今の私には、どんな慰めよりも呼吸を楽にさせた。
「太宰さん、顔色が悪いですよ? 本当に大丈夫ですか?」 敦君が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。 私は、彼の真っ直ぐな瞳をまともに見ることができず、わざとらしく大きく伸びをした。
「あァ、大丈夫だよ、敦君。ただ、ちょっと昨日の夢の後味が悪くてね。美味しい蟹の缶詰でも食べれば、すぐに治るはずさ」
「そうですか……? ならいいんですけど。あ、でも、国木田さんが午後の予定を詰めてましたから、今のうちに……」
「わかっているよ、わかっているとも」
私はペンを置き、椅子を回して窓の外を見た。 夢の中で去っていった背中は、もう見えない。 けれど、この街のどこかに、そして私のこの身体のどこかに、あのバーの氷の音だけは反響し続けている。 私は大きく息を吐いた。 喉の奥に張り付いたままの悲鳴の残滓を、無理やり胃の底へ押し込む。 今日の仕事が終われば、また夜が来る。 そしてまた、あの冷たい夢を見るのかもしれない。 それでも、中也の車が鳴らす耳障りなクラクションや、国木田君の怒鳴り声、敦君の淹れてくれるお世辞にも美味しいとは言えないお茶がある限り、私はこの「太宰治」という器を演じ続けるのだろう。
包帯の下の肌が、微かに疼く。 私はそれを隠すように、トレンチコートの襟を立てた。 琥珀色の瞳は、依然として冷めた光を宿したまま、誰の心も映さない透明な壁となって、世界を見つめ返していた。
「さて。じゃあ、ぼちぼち死ねない仕事でも、始めようかな」
独り言は、窓を叩く風の音にかき消された。 私は立ち上がり、日常という名の、終わりのない喜劇の舞台へと、再び足を踏み出した。
コメント
2件
んだよ最高じゃねぇかよ