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敦と外回り任務。
太宰さんは美女。これ大前提。
ヨコハマを包み込む湿った海風が、太宰の焦茶色のゆるふわとした長い髪を弄んでいた。彼女はトレンチコートのポケットに両手を突っ込み、隣を歩く中島敦の歩調に合わせて、だらだらと石畳を歩いている。
「太宰さん、もう少しだけ、あ、あと少しだけ早く歩けませんか?」
「嫌だよ、敦君。人生は長いんだ。そんなに急いでどこへ行くつもりだい? 死への片道切符なら、もっと優雅に発行されるべきだと思わないか」
太宰の声は、以前と変わらず、どこか実体のない浮遊感を伴っていた。女性の肉体へと変貌を遂げても、その喋り方や、世界を斜めに見るような視線は、周囲が期待する「女らしさ」とは程遠い。敦は困ったように眉を下げ、手元のメモ帳を確認した。今回の任務は、港近くの倉庫街で目撃されている不審な異能力者の調査だ。
「でも、国木田さんが『定時までに報告を上げろ』って……」
「国木田君の胃袋がいくつあっても足りないのは、彼の理想が高すぎるからだよ。私はただ、彼の健康を思って、あえてこうして緩慢に動いているのさ」
太宰は嘘ぶきながら、琥珀色の瞳を細めた。道ゆく人々が、時折、彼女の姿に視線を奪われては、慌てて目を逸らしていく。男性のような長身に、極限まで削ぎ落とされたようなスレンダーな四肢。そのシルエットは、ただ立っているだけで都会的な洗練を感じさせるが、彼女自身はその容姿に一分の執着も見せていなかった。鏡を見るのは、包帯が緩んでいないかを確認する時だけ。彼女にとってこの身体は、死に場所を探すための新しい「器」以上の意味を持っていなかった。
「……太宰さん、さっきから、視線がすごいです」
「視線? ああ、そういえばさっきから、あの角の焼き鳥屋の親父さんが私を睨んでいるね。無銭飲食をしたのはもう三日前だというのに、執念深いなあ」
「そっちじゃないですよ! みんな、太宰さんの綺麗さに驚いてるんです」
敦の真っ直ぐな言葉に、太宰は本気で心外だというように肩をすくめた。
「綺麗? 敦君、君は疲れすぎているんじゃないかい。この包帯だらけの女のどこにそんな要素がある。……それとも、私の体の一部を川に流して、水面に映る歪んだ像でも見て言っているのかい?」
彼女にナルシズムの欠片はない。むしろ、自分の存在そのものに対する根深い嫌悪と、それを覆い隠すための道化の仮面があるだけだ。女性になったことで、周囲の反応が変わったことは理解している。けれど、それは彼女にとって「任務に利用しやすいツールが増えた」という程度の認識でしかなかった。
倉庫街に到着すると、そこには潮の香りと、錆びた鉄の匂いが混じり合った独特の沈黙が支配していた。
「さて、敦君。ここからは少し、お遊びは終わりだ」
太宰の雰囲気が、一瞬で切り替わった。温度を失った琥珀色の瞳が、倉庫の影を射抜く。
「……あ、太宰さん……」
敦も異能を研ぎ澄まし、周囲を警戒する。二人は、指定された三号倉庫の扉を押し開けた。重い金属音が静寂を切り裂く。中は薄暗く、埃っぽい空気が滞留していた。
「おや、先客がいるようだね」
太宰が低く、囁くように言った。 影の中から、数人の男たちが現れる。彼らは密輸を生業とする小規模な異能力集団の構成員だった。彼らのリーダー格と思われる男が、太宰の姿を見て、一瞬だけ鼻の下を伸ばしたような卑俗な笑みを浮かべた。
「なんだ、女の探偵か。武装探偵社も人手不足と見える。……おい、姉ちゃん。そんな包帯だらけの体で、俺たちの仕事の邪魔をするつもりか?」
男たちの下卑た視線が、太宰のコートの隙間から覗く細いウエストや、タイトなパンツに包まれた長い脚を舐めるように動く。
太宰は、くすりと笑った。それは、この世の何よりも冷たく、そして美しい毒のような笑みだった。 「邪魔なんて、とんでもない。私はただ、君たちの持つ『情報』が、私の死に場所を彩る美しい花びらになるかどうか、確かめに来ただけさ」
男たちが異能を発動しようとした瞬間、太宰は迷いなく踏み込んだ。
「敦君」
「はいっ!」
敦が白虎の膂力をもって男たちを圧倒する傍らで、太宰はまるでダンスを踊るような足取りで、リーダーの男の懐に滑り込んだ。彼女の指先が、男の腕に触れる。
「――『人間失格』」
男の異能が、霧が晴れるように消滅した。 男は驚愕し、太宰を突き飛ばそうとしたが、彼女はしなやかな身のこなしでそれをかわし、男の耳元で甘く、しかし死神のような冷徹さで囁いた。
「ねえ。君たちのボスは、どこで眠っているんだい? 教えてくれたら、私のこの包帯を一本、君の首に巻いてあげてもいいけれど」 男は、太宰の瞳の中に広がる底なしの虚無に、物理的な圧力を感じて言葉を失った。女性特有の柔らかな香りが鼻をくすぐるはずなのに、感じるのは凍てつくような死の予感だけ。
任務が終わったのは、日が大きく傾き始めた頃だった。 男たちを警察に引き渡し、二人は夕暮れの海沿いの道を歩いていた。
「太宰さん、やっぱりすごいです……。異能を無効化する時、あんなに迷いがないなんて」
「そうかい? 私はただ、彼らのつまらない力が私の肌に触れるのが、ひどく不快だっただけだよ」
太宰は、乱れた長い髪を無造作にかき上げた。夕陽を浴びて、彼女の横顔は神々しいほどに美しく切り取られていたが、その瞳は相変わらず、沈みゆく太陽すら映していない。
「お腹空きましたね。太宰さん、何か食べて帰りませんか?」
「食欲……。ああ、そういえば朝から何も食べていなかったかな。でも、固形物を胃に入れるのは、なんだか命を肯定しているようで気が進まないんだ」
「そんなこと言わずに! ほら、あそこに美味しそうなクレープ屋さんが……」
「クレープ? 敦君、私はそんな可愛らしいものを食べるようなタマじゃないよ。……でもまあ、中也がああいう甘いものを嫌っていたから、嫌がらせに写真を送るくらいなら付き合ってもいいかな」
太宰はポケットからスマートフォンを取り出した。 画面には、中也からの『帰りに酒買ってこい』という乱暴なメッセージが表示されている。彼女はそれを一瞥し、返信することなく再びポケットに沈めた。
「太宰さん、中也さんと付き合ってるって本当なんですか?」
「……おや、敦君までそんな噂を。まあ、犬と飼い主のような関係だよ。私が飼い主で、彼が……まあ、吠えるだけのチビだね」
彼女は否定もしなかったが、そこに恋い慕うような甘い響きは一切なかった。ただ、この広いヨコハマで、自分という歪な存在を「女」としても「人間」としても容赦なく罵倒し、繋ぎ止める鎖としての役割を、彼にだけは許している。
「さあ、帰ろうか。国木田君が、私の報告書を待って、今頃は事務所で万年筆を三本は折っているはずだ」 太宰は、ふわりと笑った。 それは周囲を魅了するための笑みではなく、ただ、一日が終わるという事実に対する、僅かな安堵だった。
探偵社のビルが見えてくる。 太宰は、自分の長い指に巻かれた包帯を、きゅっと締め直した。 女性になっても、世界は何も変わらない。 友は去り、光は遠く、死は依然として彼女を拒み続けている。 けれど、隣で「次こそは、太宰さんにもクレープを食べさせますからね!」と意気込む少年の声が、わずかに世界を彩っていた。
「……やれやれ。明日こそは、いい死に場所が見つかるといいのだけれど」
彼女は、誰にも聞こえない声でそう呟くと、夕闇に溶けていく探偵社の扉を、ゆっくりと押し開けた。 中からは、予期していた通りの、懐かしくも騒がしい怒号が聞こえてきた。
「太宰! 遅いと言っているだろうが、この唐変木!!」
太宰治は、ふわりと髪を揺らし、いつものように無責任な笑顔を浮かべて、その日常へと戻っていった。