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カフェ店員として無難と思われる白いシャツを着てエレベーターを降りると、ちょうど出かけるところの小山親子と一緒になった。
祐輔が大きなリュックに、バスケットボールを小脇に抱えて、反対側の手をぱっと上げる。
「桐野さーん! おはようございます」
ぺこりと頭も下げてくる。雪緒も倣って頭を下げ、
「おはようございます。部活、練習?」
「今日ね、試合だよ」
「そっか、勝てそう?」
「わかんない。相手、強いとこみたい」
ボールを器用に左右に持ち換える。鍵を掛けた美智が振り返って、
「どーせまだ試合なんか出ないもんね。応援要員、あとタオル渡す要員」
「先輩がファールで退場したら出るもん」
「あんたに出番回るなんて、どんだけ荒れた試合よ」
二人のやり取りを笑って見ていた雪緒を見上げ、祐輔が首を傾げた。
「桐野さん、背高くていいなぁー。オレもそんくらい欲しい」
「祐輔は、パパでかかったから大きくなるよ」
「高校生なってから伸びるんじゃ、遅いんだけど」
不満げな祐輔の頭をくしゃくしゃと撫でる美智の目が温かい。
美智は旦那さんと死別したと聞いている。
こうして笑って話ができるようになるまで、どれだけの山を乗り越えてきたのだろうと考えると、二人をまとめて抱きしめたくなる。
「桐野さんはバスケしてた? バレーとか?」
祐輔に無邪気に問われて、雪緒はうっと詰まる。
「桐野さんはね、運動苦手だからスポーツはしてなかったんだ……」
「そうかーもったいないねー」
「ぼちぼち行こうか。下っ端が遅刻したらまずいし」
「じゃあまたねー桐野さん」
「うん、頑張ってね」
連れだって歩いていく二人を見送って、雪緒も駅の方へと向かって歩き出した。
桐野さん、か。
繰り返し呼ばれたその名前。結婚してからの名前だ。
ここに越してきたとき――正確には現在も、離婚していないから、雪緒の苗字は法律的にも「桐野」だ。
ここを契約するときに旧姓を使うこともできたが、結婚後の姓を使ったのは……おかしな意地のせいだった。
会社ではずっと旧姓を使っているし、雪緒を桐野と呼んでくれるのは小山親子だけ……かもしれない。
それはまるで、真と結婚していたこと自体が嘘になるようで、もしかしたら幻想だったのかもしれないと思ってしまう。
そんなはずはない。
だって、結婚した証の指輪が、靴だなに潜んでいるじゃないか。