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この物語はキャラクターの死や心の揺れを含む描写があります。読む際はご自身の心の状態にご配慮ください。
机に向かって、俺はレポート課題を黙々と進めていた。
通信制高校は、学校に通う日数が少なく、時間を自由に使える代わりに、レポート課題が大量にあるのだ。
「あ”ー……もう無理、しんど。」
俺は、いつも、ひぃひぃ言いながら何とか完了させている。
なぜこんなに多いのか、いや、学校に行く日数が少なくていいのだが、(そのおかげで色々できるから)
毎回毎回、地獄見るのは、精神が削られる。
頭から流れた汗が、どんどん垂れて行って、服の中に侵入し、腹を擽る。
暑い部屋の中を、扇風機が一生懸命冷やそうとしてくれる。
無機質な機械音が部屋に満ちて、何故かこの音は心地よく感じる。
ふぅ……と一度手を止めて、窓の外を見る。
空は、雲がいくつかあって、太陽に重なって、太陽がちぎり取られたように見えた。
それでも、今季最高の暑さで、本当は扇風機だけじゃ耐えられない。
「あぁ……おかしいだろ。なんでこんな暑いんだよ。」
七月って、こんな殺意高かったっけ。
人を焼く気満々じゃないか。
もう、こんな暑いのは、耐えられない。
机に突っ伏して、もう一度、かすれ声を出した。
一旦休もう。
今日は、なんだかやる気が出ない。
その理由は、自分で痛いほどにわかっている。
つい先日の、「あの話」のことだ。
「イロハめ……ほんと、思考が読めない。」
数日前の彼女の発言を、俺は思い返した。
その日も当然暑かった。
空は快晴。
イロハは湖に落ちたり、記憶を取り戻したりして、もう一日に色々なことが起きすぎていた。
俺も、虚霊と会話をしたりして、本当に不思議としか言えなかった。
そして、俺とイロハの意見が噛み合わずに、少しぶつかりあった。
その解決方法として、イロハはこう言い放ったのだ。
「ーー勝負、しましょ。」
勝負ってなに?
どうしてそんなに楽しそうなんだ?
詳しく話を聞くと、勝負内容は、こうだと言う。
「レンは守られたくない、でもわたしは守りたい。なら、勝負しましょ。
どちらが、これから一緒にいる中でたくさんお互いを守れるか。
そうしたら、レンは”守られる側”であり、”守る側”にもなる。わたしもレンと同じ。
そしてこの勝負最大のきまりはーー。」
死んだら、死んだ方が負け。
「!」
「こうすれば、レンも納得するでしょう?」
イロハは、木漏れ日のような密かに温かい笑みを浮かべているのだった。
その笑みは、言葉で表せられない不穏を、孕んでいた。
「勝負……ねぇ。」
イロハの思考は読めない。いや、理解しようとしていないのは俺の方かもしれない。
そんな遊び感覚で、お互いを守るなんて、命を少々、軽く見すぎな気がする。
イロハの命への感覚は、軽いのかもしれない。
「う〜……、もう疲れたぁ。」
何考えてるんだか。
それに、彼女は「母親の想いを継いだ、託された者。ーー静寂を継ぐ者」だ。
今みたいに、楽しそうに笑ったりしてるのって、「静寂を継ぐ者」としては、いいことなのだろうか。
いや、失礼だな。
これは彼女の人生だ。どう生きようが関係ない。
でも、気になってしまう。感情を表に出すのがダメとは言っていないが、イロハの場合、それが使命であり、「母からの教え」でもあるはず。
その教えを、放棄していていいのか……。
「……なんて、なんて酷いことを言うんだ、俺は。」
あぁ、嫌だ嫌だ。気持ち悪い。
こんなこと考えるなんて、イロハからしたらただのお節介だし、うざい。
髪をわしゃわしゃして、俺は椅子から立ち上がり、背伸びをした。
一旦、水を飲みに行こう。
俺は部屋を出て、台所に向かった。
台所の冷蔵庫を開けて、ペットボトルの水を取り出して、コップに入れる。
それを、ゆっくり口に含んで、飲み込む。
「……。」
なにか悩んだ時は、いつもいつも、食道が詰まったような感覚になって、水を飲む時も違和感が残る。
一度、テレビの近くにある祭壇を眺めた。そして、答えの無い問を、漏らした。
「なぁ、俺はいつもこうだよな?」
与太者だ。俺は。
今度はぐびぐびと、水を一気飲みして、シンクに空になったコップを置いた。
同時にため息を着く。
ため息をついたって、何も変わらない。
それでも、つくのが俺だけど。
「ちっ……ああ、もう。」
舌打ちをした。頭を掻き、首を振る。でもこの行動のすべてが、余計に苛立ちが増すだけのものだということも、わかっている。
わかっていても、行動してしまう。
はやく、レポートを済ませないと……。
思考を変換して、俺はまた自室に戻ろうとした。
その時。
「何、怒ってるの?」
「!」
声の方を見たら、ドアの前に仕事終わりであろう母さんの姿が、あった。
あ、れ?やっば……! 母さんの前で舌打ちしたってこと?
気づかなかった、何やってんだ俺!
そんな焦りを殺すように、
「あ、母さん。帰ってたの。」
笑って見せた。だが自分でもわかるくらいに、下手な笑みだ。顔が引き攣って、なかなか思うように口角が上がらない。
後ろに回した手を、俺は思い切り爪で傷つけている。
俺はいつの間にか、母さんが恐怖になってしまっている。
それは、俺のせいでもあるんだけども。
母さんは、父さんが死んで以降、精神的に不安定なところがある。
機嫌を害するようなことをしたら、俺は……。
「え……えぇと、今日は仕事早いんだ……びっくりしたよ。」
「そう。」
沈黙、沈黙が舞う。
ああ、辛い。辛いなぁ、この沈黙。
怒っているのか、呆れているのか分からない、この謎の空気が俺は嫌いだ。
「最近……なに、遊び回ってるの?」
「え?遊び回ってないけど……」
「じゃあなんで、家にいないことが多いのよ。」
「う……。」
思わず目をそらす。
さすがに怪しむよな……。ほぼ毎日のように外に出かけてるんだから、でも遊びじゃないんだよな。 一応、世界に関することなんだよな。
そんなこと言ったら、病院に行くことになりそうだからやめておこう。
「あんた、忘れてないわよね?」
「忘れてないって……な、何が?」
瞬間、母さんの目が大きく開いた。 瞳孔が震えて、呼吸が浅くなっている。
拳を握って、歯ぎしりをしている。
「あ、えっと……」
怒っている。
俺が何かを忘れてしまったのか?どうしよう、どうしよう。
怒らせた。また、怒らせた。
母さんは、ドタドタと大股で俺のいる台所まで近づくと、突如胸ぐらを掴んだ。
「う……母さん……?」
「うるさい!」
これはしくった……ちゃんと答えられたら、怒られないはずだったのに。俺のせいだ。
母さんは、震える声と鋭い目で、
「お前のせいで、あの人もミヨも死んだのに!
なんでそうやって、楽しそうに遊び回ってんのよ!」
そう、叫んだ。
俺はすぐ誤解をとこうと、「いや、ちょっと聞いて、遊びに行ってる訳じゃなくて……」
と言いかけたが、母さんは聞いてくれなかった。
代わりに、返事というか、頬に痛みが走った。
「いった……!」
間髪入れずに、俺を壁に突き飛ばした。
頭を強打して、惨い音が部屋中に響く。
キーンと、耳鳴りが鳴って、目を開けるのが怖い。
これは本当に、やばい。今ここは台所だ。下手したら刃物取り出してくるかも……!!
「あ、あぁ……ごめ、さない」
これ以上攻撃が増すのを避けたくて、上手く動かない口で、小さく吐いた。
視界が歪む、前がよく見えない。怖い、怖い。
息が詰まる。頬を汗が伝う。ゆっくり、俺の焦りを加速させる。
「……忘れてないよ。あんなの忘れられるわけ……!」
「ーー出てけ。」
「え?」
母さんは、今度は俺の髪を引っ張って、部屋全体に響く、膨大な毒を吐いた。
「もうあんたの顔も見たくない!!今すぐ出てけ!!」
その毒は、よく俺の心に注入されるが、なれることは一向にない。俺は毒耐性を未だ習得できない。
素直に毒を受け止めることしか……。
「ーーごめん、なさい。」
謝るだけ謝って、俺は台所を後にした。
俺は、全部受け止める。理不尽な怒りも全部。
でもさ。
俺だって傷つくこと、知っておいて欲しいな。
自室から携帯や、財布と大事なものだけ持ち出すと、俺はそそくさと靴を履いて、家を出たのだった。
視線が重なって、同時に声を漏らした。
「あ。」
「あ。」
エレベーターの扉が開いた時、眼前に背丈の小さな女性が立っていた。
真っ白な長髪に同じく白い羽織、袴のような服装に革のブーツ。
真夏の季節にしては、少し暑いと思う格好。
そんな格好をしているのは、この街で一人しかいない。
イロハ。
「ん……え?」
「?」
なんでマンションにイロハがいるわけ!?
普通に首を傾げるイロハが、こちらからしたら不思議で仕方ない。
「え……なんで、ここに?」
「あなたに会いに。」
「なんで!?」
「あら、いいじゃない。なにか良くないことでも?」
「っ……。」
どうして、こんな時に限って。
今、一番会いたくなかった、なんて言えない。
「ーーへぇ。」
イロハは意味深な言葉を漏らすと、手で「こっち来て」と招いてきた。
俺はエレベーターの扉が閉まる前に、急いで出た。
危ない。出た瞬間、「ドアが閉まります」というアナウンスと共に、扉が閉じた。
イロハは俺の顔を眺めると、何かを測るように少し真剣な表情になった後、目を逸らしてエレベーターの扉を見た。
「……なんだよ。」
「いいえ?それより、凄いわよね。」
扉を指さして、イロハは言う。
「階段に登らなくても、楽に移動できるって。現代は凄いわよね。
わたしの幼い頃は、こんなもの無かったわ。」
「あぁ……確かに。」
「いいわね、あれで空にも行けるかしら。」
「無理だぞ。」
なぜ空?
空に行けるわけないだろ?鳥じゃないんだから。
「ははっ、面白いこと言うよな。」
「でしょ?」
イロハも、同じように声を出して笑った。
もしや、わざとこんな変なことを言ったのか。
「聞いてもいいかしら?」
イロハは、歩き出しながら、俺に尋ねた。
淡々と、足を鳴らしながら、質問内容を述べた。
「頬が赤く腫れているのは、どうして?」
ーーああ。やっぱり、イロハは悪気もなくこういうことを聞くから、だから今日だけは会いたくなかった。
本人には悪気が一切ない。純粋な質問。
さて、俺の回答方法は二つ。
嘘をつくか、馬鹿正直に答えるか。
嘘をつこう。母親と喧嘩して、って言うのは俺はちょっと気が引ける。
変な同情を買いたい訳でもないし。
「これはーー。」
「あ、嘘はつかないで。」
「……え。」
俺の心でも読んだのか?というレベルのタイミングでそう言った。
どうして、俺が嘘をつくと分かっていたんだ?
嘘、つくなって……じゃあ。
答えればいいのか?馬鹿正直に、それで変人扱いしても、俺は悪くないから。
なんだよ、マジで。
「……母さんと喧嘩した。」
若干怒りを込めた声で、俺は言った。
イロハは全く悪くない。むしろ俺が悪い。
でも、今そうやって質問されるのは、少し、しんどい。
すると、イロハは不思議そうに、歩みを止めて俺の方を振り返った。
「お母様と喧嘩したら、怪我するの?」
「……いや、母さんが怒って、俺のことをちょっと。」
「母なのに?」
その一言が、胸の奥を静かに抉った。
「……母も、人間だから。」
「……へぇ。」
納得したような、していないような、曖昧な返事をイロハはした。
こつん、と首を傾げて、珍しそうに「それは母とは言えないんじゃないかしら。」
と言い放った。
「え……。」
でも、それを認めたら、帰る場所がなくなる気がした。だから否定したい、のに、口は開かない。
ただ彼女の言葉を聞く。
「少なくとも、わたしは、お母様に打たれるとか、そういうことをされたことは無い。
喧嘩をする……という感覚もいまいちよくわかっていないし」
彼女はおそらく、今までずっと、母親からの愛情をたっぷりと注がれているのだろう。でなければ、喧嘩がよく分からない、なんて言葉も出てくるはずない。
友達と喧嘩をする可能性もあるだろうに、驚きだ。
どんな母親でも、子が限度を超えれば躾として叩いたりすることはあるはずだ。それがないのなら、 じゃあイロハは、どういう風な説教を受け出来たんだ。
「わぁ、それよりレン、見て。今日も空は綺麗よ。」
無邪気に空を指さして、イロハは楽しそうだった。その姿が、本当に小さな、子供にしか見えなくて、少し笑いそうになる。
確かに言う通り、空は青かった。
紺碧の空は、綺麗だ、綺麗なのだが、それよりも
暴力的な太陽の暑さの方が気になって、それどころでは無い。
そんな炎天下でも、イロハは笑っている。
きらびやかに髪が光に反射して、虹色のプリズムのような色合いに見えるそれの方が、俺は余程綺麗に思えた。
それを眺めて、俺の心はため息をついた。
やっぱり会ってよかった、と心底思ったのだ。
加減を知らない太陽に比べて、イロハは、優しい癒しを灯してくれる。
そんな灯火の前で、言おうとなんて思っていない言葉を、吐いた。
「……変だよなぁ、母さんって。そう思っちゃいけないのにさ。」
その言葉を、俺自身だけが聞いていた。
イロハは空に夢中で、「飛行機雲だわ」なんて言っている。
その後ろ姿を見て、どことなく妹に似ている気がした。
「ねぇ。レン?」
「なんだよ?」
「聞いてくれる?」
「……いいよ。」
ああ、こんな平和が続けばいい。
ずっと綺麗なものを眺めて、程よい熱さを味わっていたい。
そんな我儘を、誰か聞いてはくれないだろうか。
俺はそこで首を振って、イロハの話に耳を傾けた。
イロハはステップを踏みながら、語る。
「わたし、抑えるのはやめたの。」
「抑える?」
「そう、感情を抑えること。そうしたら、今ものすごく、軽い。」
ステップの速度がゆっくり、しかし確かに上がって行く。わくわくと希望に満ちたリズム。
イロハの語りも、止まらない。
「でも、これでいいのかも迷うの。”静寂を継ぐ者”としての使命を、捨てた気分にもなって。」
今度は、ゆっくり減速していく。
そして、誰かに確認するように、言った。
「でも、今はね。
自分の犯した罪を償うために、
もう決して逃げたり、嘘をついたりしないって決めたの。
……わたしにとって、感情を抑えることは“逃げ”だから。
……贖罪のためなら、
お母様も、赦してくれるわよね?」
イロハの言葉が、風の音に溶けて消えた。
俺は、何も言えなかった。
「違う」と言うには、
彼女の覚悟は、あまりにも真っ直ぐで。
「わかる」と言うには、
俺はまだ、何も受け止められていなかった。
喉が、詰まったみたいに動かない。
慰める言葉も、否定する言葉も、
どちらも嘘になる気がして。
だから俺は、ただ、立ち尽くしていた。
イロハは、俺の返事を待っている様子はなかった。
ただ、空を見上げたまま、穏やかに笑っている。
その横顔を見て、
俺は初めて、何も言えないことが、逃げじゃない瞬間もあるんだと知った。
「……レン?」
「……なぁに?」
「呼んだだけ。」
なんだよ、と小さく息を吐いた。
イロハのことをよく見ると、顔や首から汗がびしょりと出ていた。
暑いよなぁ、なんて思った時、ひとつの平凡な着想を得た。
「あ、なぁ、イロハ。」
「?」
俺は、人差し指を自分の頬の横まで寄せて、ひとつの提案をした。
それは、本当にしょうもない提案だったが、暑さを凌ぐにはちょうどいい発想だった。
「ーーアイス、食べない?」
「……アイス?」
予想通りの反応。
目を何度も何度もぱちくりさせて、「なんだそりゃ」と言いたげに首を傾げた。
ついでに、歩く足の動きまで止まっている。
アイスも知らないかー、と思って、ちょっと戸惑いながら、俺は遠くを指さした。
「こっちの方向にさ、コンビニがあるから、そこで買って食べようぜ。涼しくなるぞ。」
にひっ、と笑ってやると、イロハも顔を輝かせて、「食べたい」といった。
その瞳がいくつもの星を宿らせて、幸せそうだった。
あ……でもあそこのコンビニって確か……。
まぁ、いっか。
また、イロハの嬉しそうなステップが始まる。
「今日は太陽に魂を取られそうなほど熱いものね……!楽しみだわ、アイス。」
太陽に魂取られそうって、どんな表現だ。
イロハが幻想小説でも書いたら、面白い文体になりそうだな。
「いらっしゃいませー」
聞き慣れた入店音と共に、俺とイロハはコンビニにやってきた。
店内にはたくさんの商品棚、揚げ物、休止中のレジと、一人店員がぽつりと立っているレジ、そしてーー。
アイスの入った、冷凍ショーケース。
「わぁ……凄い、こんなに種類が?」
「だろ?」
イロハはショーケースの中に釘付けだった。
たくさんのアイスを、それぞれじっくり眺めながら、最終的に選び抜いたのは、シンプルなバニラのアイスだった。
「それでいいのか?」
すると、誇らしげにイロハは胸を張った。
「最初は無難な方がいいのよ。あとから色々なものに挑戦するのが、賢い生き方。」
確かに、最初からちょっと変わったものに挑戦すると、後悔することがある。
そういう点では、最初は無難な道を行くのがベストなのかも。
「レンは?」
「んー、じゃあ俺、チョコミント。」
「ミントって、少し口が洗われる感じがするわよね。」
「うん、歯磨き粉と同じ味だし、苦手な人は多いけど。」
俺は、この”洗われる感じ”が、好きなのだ。
各々選び終わったから、ぽつりと立っている店員のレジに向かった。
が、そのレジに行かなかったら良かった、と店員の顔をよく見て思った。
イロハとの会話に夢中でよく見ていなかったが、
ここのコンビニにいる若い女性の店員には、あんまり関わりたくは無い。
失礼だけども。
俺は、その思いを悟られぬように、店員にアイス二本を渡した。
店員の外見は、若い二十代くらいの女性だ。
真っ白な、狼を思わせるウルフカットの髪。
前髪の一部分だけが、花浅葱となっている。
そして目は、満月をそのまま放り込んだような半透明な黄色だった。
「袋はお付けしますか?」
「いえ、大丈夫です。」
店員と客としての会話を済ませて、今日は大丈夫かな、なんて思っていたら、
店員は、しれっと、こんなことを言い始めた。
「アイスは、温めますか?」
「ん?温め……?」
一瞬、理解が追いつかなかった。
「どういたしますか?」
にたり、と悪戯な笑み。
ほら、やってきた、この時間。
この店員は、こうやって人を引っ掛けるような質問をレジの途中に挟んでくるのだ。
しかもそれを楽しそうにやるもんだから、めんどくさい。
ため息をつきたいところを、グッと堪えて、にこやかな笑みを作ってみた。
「大丈夫ですーー。」
そこで、問題が発生した。
イロハが隣で、興味深そうにアイスを眺めている。
嫌な予感が、背中を這った。
「……アイスって、温めたら美味しいの?」
一瞬、店内の時間が止まった。
店員は目を丸くし、
俺は思考を放棄し、
イロハだけが本気で悩んでいる顔をしている。
「え、えっと……」
俺が口を開くより早く、店員が肩を震わせた。
「ふ……ぶふ……っ」
口を抑えて、一生懸命堪えているようだが、堪えられていない。
俺は、そんな勘違いさせるまいと、イロハに説明した。
「い、イロハ。アイスは温めたら溶けて食べれなくなるって。」
「飲み物みたいになって美味しそうね。」
「それもはや、アイスじゃなくてシェイクだろ!?アイス買った意味!!」
「あの」
店員が、話を遮った。
ニコッとした笑み、切れ長の目。
「凄いですね。ワタシ、あなたがたがこう言うって分かっていたのに、つい笑ってしまいました。」
こんなに素直に騙されたヒトは、初めてだと店員はそう言った。
店員の顔が見れたようでもあった後、それよりイロハのあまりにも無知な発言が、さすがに心配になってくる。
「お会計、三百六十円となります。」
「あっ、はい。」
三百六十円を店員に渡して、俺は半透明の袋に包まれたバニラのアイスをイロハに手渡し、自分の分のアイスは左手に持った。
最後に「ありがとうございます」とお辞儀をして、さっさと外に出ようとした時、
「あ、お客様!」
店員が呼び止めてきた。
その声に振り返ってみると、店員はまたもや悪戯な笑みを浮かべて、
「コンビニでアイス買うのはよしておいた方がいいわ。家が近くにあるってバレちゃう。」
怖がらせようとしたのか、心配したのか知らないが、とにかく俺はそのアドバイスにこう返した。
「今からコンビニの駐車場で食べるから、問題ないです。」
これ以上弄ばれるのも癪なので、俺はイロハと、足早に店の外に出たのだった。
ここのコンビニはしばらく来ないでおこうかな。
コンビニの駐車場にある、アーチ状のポールに腰掛けた。
当然、延々と日光に照らされているから、ヒリヒリとした熱さが、じんわりと伝わってくる。
隣で、イロハも同じように腰かけたが、「あつ……!」と言って素早く立ち上がった。
そのまま、「なにこれ……」と言って数秒ポールを見つめ、
覚悟を決めたようにイロハはもう一度、ゆっくり腰掛けた。
「ねぇ、これ熱すぎるわ。一種の凶器よ。」
「凶器って。」
イロハの言葉は、大変面白いものが沢山だ。
たまに、詩的な比喩表現をするから、ちょっと感心してしまう。
いつか詩人になれるんじゃないか?
なんて、ちょっと本気で思ってみたり。
俺は、チョコミントアイスを、一口かじった。
瞬間、冷たさと、すぅ……とした清涼感。
そこにチョコレートの甘さが重なり、なんとも言えない味が口いっぱいに広がった。
暑さに疲れた身体に、ゆっくりと染みる。
イロハも、珍しいものを見る目で、じーっとバニラアイスを眺めている。
食べようとはしない、外見を隅々まで観察している。
あーあ、そんなことしたら……。
「溶けるよ。早くしないと。」
そこで大事なことを思い出したかのように、目を大きくすると、
急いでアイスを食べだした。
大きく、一口。
最初は無表情だった。値踏みをするかのように、じっくりと舌で味わっている。何も言わない。
……口に、合わないか?
感想が気になって、「どう?」と尋ねると、イロハは口元を抑えて、こう言った。
「口の中で、南極大陸が出来上がった!」
「は?」
口の中で、南極……大陸?
……俺の思考がおかしいのだろうか。
「口の中で南極大陸」って、どういう思考回路をしたら出てくる?
「そうだなぁ、口の中で南極大陸だわ。」
意味をよく分からないままに、俺は頷いた。
続けて、もう一口、二口、アイスをかじった。
イロハも、もうそれは幸せそうにアイスを食べて、へにゃりとした笑みを滲ませている。
今日は何度か思っているが、幼い子供のように見えてしまう。
もしかすると、今まで抑えていた感情を、最近は抑制せずに出しているから、こんなにあどけないのか。
彼女を見て、そんな確証のないことを考えた。
そんな時、じわぁ、と太ももに冷たさを感じた。
一瞬遅れて、嫌な予感がする。
気になって見てみると、溶けたアイスが、ズボンにぽたぽたと垂れて、小さな水たまりを作っていた。
「あっ……」
人のこと心配する前に、自分が溶けないように気をつけるんだった。
急いでかじって、これ以上垂れないように頑張った。
こんなに早く溶けるとは。夏、恐るべし。
イロハが隣から、からかうように言った。
「わたしに注意していたのに、溶けてるじゃないの。」
「うっ……いいだろ別に!」
気恥ずかしくて、アイスを全部口に放り込んだ。
棒だけになったアイスを見て、当たりとかハズレとか書かれているか見たけれど、何も無かった。
横目でイロハを見ると、彼女も食べ終わりそうな
頃合いだった。
溶けかけたアイスを口に入れて、美味しそうに食べている。
でも、突然、ピタリと動きが止まった。
「?」
イロハは遠くを横目で睨んでいた。
何かが、そこにいるように。
「……イロハ?」
どうしたんだ?と聞こうとした時、
俺も、察した。
未来予測の能力が、発動した。
音もなく、イロハの手から赤い飛沫。
落ちるアイス。
だが、そこで映像は途切れた。
俺は、勢いよく叫んだ。
「待っ……イロハ! 逃げろ!」
「わかってる」
返ってきたのはその返事だった。
ポールから軽やかに立ち上がると、アイスを持っている手を、挙げた。
瞬間、
シュッーー。
風切り音が、アイスの棒を割り、アイスが飛び散った。
発砲音がない銃弾が、飛んできたのだ。
カラン、と銃弾は地面に落ちて、そのまま固まる。
だがすぐに、アイスが溶けるかのように、形を曖昧にして消えていく。
遅れて、イロハの指先からは、微量の血液が垂れていた。
手首を、ゆっくり伝っている。
俺はアイスの棒を地面に捨てて立ち上がった。
そのままイロハの手を強引に引っ張り、駆け出した。
「逃げるぞ!!」
「ええ……!誰よ、もう。せっかく最後の一口だったのに!」
「そんなの今はどうでもいいだろ!!」
こんな状況で、なんで軽口叩けるんだ!
アイスなんかより、よっぽどイロハの命が大事に決まってる!
だがイロハは能天気に、「駐車場を汚しちゃったわ。大丈夫かしら?」なんて言う。
ほんとにもう……!
「危機感を持ちやがれ!!」
周囲の人に迷惑をかけぬよう、できるだけ人通りの少ない場所を走った。
にしても、攻撃はおそらく狙撃者か何かだから、
発砲音でも、着弾音でもするはず。
なのにしない?サイレンサーか?
とにかく、無我夢中で走った。
イロハの手を引き、安全な場所を探す。
でも、見当たらない。
どうすれば……!!
「うぁ……!」
「イロハ!?」
音もないから気づけなかったが、イロハの走る速度が落ちた。
原因は単純で、足から大量の血が流れていた。
イロハの息が上がって、見ているだけで苦しそうだ。
ーー撃たれた!
誰だが知らないが、いい加減にしろよ!
「イロハ!走れるか!?」
「ええ、平気。経験上、慣れてる。」
そういう問題じゃ……!
まだ背後からは、獲物を捕らえるようなゾクゾクとした視線を感じる。
首だけを振り返ってよく見ると、ビルの屋上に黒い人影が見えた。
この距離はさすがに顔も見えない。
「レン!そこの角曲がって!」
「え?」
「早く!人のいない所、知ってるから!」
イロハが指さした角を曲がって、その後も、人気のない道を曲がって駆けて、とにかく「安全」を捜しまわった。
途中、イロハがふらり転倒しかけたり、走るスピードがさらに遅くなったり、状況的に最悪だった。
それを繰り返すうちに、
人に忘れ去られたような雰囲気のある、商店街にたどり着いた。
亀裂の入ったアスファルト。
全ての建物のシャッターが閉まって、
古い雰囲気のする看板だけが、かつて賑わっていたことを象徴している。
そこで、イロハが「止まって……」と、今にも消えそうな声で言った。
一度手を離すと、イロハは地面にしゃがみ込んだ。大きく肩を上下させて、呼吸のリズムが不安定。
「大丈夫か?」
顔色もよく見ると、相当悪い。
さっきから、様子がおかしい。
「……だ、いじょうぶ。」
嘘だ。こんなに体調悪そうにして、大丈夫なわけ。
「……やられた。」
「え?」
「あいつ、わたしの弱点を突いてきた。」
イロハの息が、さらに不規則になる。
顔色も真っ青。
「……ーー、が……。」
声はあまりに掠れて、何を言っているのか一切聞き取れなかった。
呼吸はもう、「呼吸」と呼べるかどうかわからない、「過呼吸」と呼んだ方が似合いそうな呼吸だった。
大きく、速く肩が上下している。
……おかしい。
「なぁ、イロハ!どうしたんだ!!」
しゃがみ込んで、イロハの背中に触れてみると、
少し、体温が下がっていた。
顔や首からは汗がびっしょりで、夏にかく汗の量じゃない。
大量の汗が、 地面に小さな水たまりを作っている。
これ……。
「……やられた、毒。」
……。
嘘だろ?
声は出なかった。何か発そうとしているのに、すんでのところで喉に蓋が閉まる。
毒って何?
どうやってイロハに毒を盛ったんだ?
本当に誰なんだ、そいつは。
イロハは、 俺の肩を持ちながら立ち上がった。
ふらり、ふらりとした、今にも倒れそうな動き。
「わたし……能力で傷を治したり、腕を再生させたりとか……そう、いうのはできるけど。」
続けながら、剣の柄に手をかけるイロハ。
「毒を、無効化することは出来ないの。
……”傷”を治すのであって、”毒”は専門外。」
ゆっくり、剣を抜く彼女。
まさか、この状況下で戦う気か?
「待てイロハ!毒が盛られてんなら動かない方が!!」
身体は小さいから、毒の回りも速いはず……救急車でもなんでも、助けを呼ばないと終わるぞ、これ!
「救急車は……」
「だめ……わたし保険証ないし、そもそも社会的には存在していない。……戸籍、無いもの。」
嘘だろ!!病院にも行けないのかよ!!
それでも立ち上がって、構えるイロハ。
相変わらず呼吸も安定せず、瞳孔も震えて焦点が合わない状況でも、諦めることは無い。
さっきまでの、子供のような姿とは程遠いものだった。
でも、このままでは身を滅ぼすぞ……!!
「大丈夫……あなただけは、生きて返す。
これは、勝負よ。」
その「勝負」という言葉の意味を、思い返した。
ーーどちらが、多くお互いを守ることができるか。
そして、
絶対に、死なないこと。
俺は、立ち上がって歯を力強く噛み締めた。
そして、 無理やり引き攣った笑いを作ってみた。
「はは……!負けるかよ、お前も絶対、
死ぬんじゃないぞ!!」
「……ええ。」
そう返事をした横顔は、俺を見ていなかった。
そんな時だった。
商店街の遠く、小さな小さな、二つの影が見えた。
どちらも背丈は同じくらいで、全身は黒いマントを身につけているから、顔も不確かだ。
でも明らかに、敵だということは分かる。
俺も剣を構えようと、考えた瞬間。
イロハが、 俺に倒れかかって来た。
力を失ったように、全体重をこちらに預けて。
「え!?イロハ、しっかりーー!」
イロハの肩をゆさぶって、声をかける。
身体の力が全部抜けているみたいだ。
か細い息が、俺の心を にも毒を注入して、正気を奪っていく。
そして、それを見た瞬間、俺の声は小さな悲鳴に変わった。
イロハの脇腹に、小さなナイフが、深々と刺さっていたのだ。
呼吸はさらに悪化し、武器である剣は地面に落とした。
俺の手に、べったりと鉄の匂いがする血が、こびりつく。
「え、あぁ……まって……待てよ……」
どうしよう……イロハが、このままじゃ冗談抜きでやられる。
俺の未来予測の力が、ここで発動していれば、イロハはこんな重症を負わなくたって平気だったはずなのに。
自分の馬鹿らしい一面を、今、痛いほど見せられた。
守れないなら、意味ないじゃねぇか!
そう思って、敵の影の方を見た。
どうやら敵は二人で、さっきの攻撃を見るに、
一人は銃を使い、もう一人は刃物を使う能力者だろう。
つまり、えっと……それで……。
俺の思考が、まとまらなくなってきた。
イロハが危機的状況だと言うのに、俺までパニックになってどうする!!
敵が、マントを脱ぐ。
その瞬間、素顔が明かされ、俺の動きは完全停止した。
イロハが命の危機に迫られる中で、銃を持った方の敵の顔が、俺にとって見覚えのあるものだった。
忘れることのない、顔だった。
「お前……」
そう口にしたのは、間違いだったかもしれない。
金髪でセンター分けの、俺と同い年の男は、俺のことなど忘れたように銃口をこちらに向けるのだった。
その銃は、普通の銃とは違う、特別な空気感を放っていた。
挨拶もなしに銃を構えた男の代わりに、もう一人の黒髪で長髪の男(女かもしれない)は、ふふっと笑って、
こういって見せたのだった。
「悪い奴らには毒があり、……覚えておいてね。」
その言葉が、やけに楽しそうに聞こえたのが、何よりも恐ろしかった。
第二十の月夜「危急存亡の末に」へ続く。