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第5算話 式を組むということ
その日は、坂の上まで来る前から、ローリエの頭の中で珠が鳴っていた。
学校の机の上でも、
帰り道の横断歩道でも、
かばんを持ち替えた時でも、
最上位から右へ。
その言葉が、細い糸みたいにずっと張っていた。
駄菓子屋の戸を開けると、いつものにおいが先に来た。
甘い粉。
しょうゆせんべい。
紙箱の乾いたにおい。
缶のふたの、少しだけ鉄っぽい気配。
おばあちゃんはレジの奥で、細い紙の束をそろえていた。
指先が、ずれた角をひとつずつ戻していく。
その動きだけで、店の中の小さな乱れまで一緒に整っていくみたいだった。
「いらっしゃい」
ローリエは戸を閉めて、かばんの肩ひもを握り直した。
「……今日は、菓子じゃなくて」
「そういう顔しとるね」
おばあちゃんは紙の束を置いた。
それだけで、もう続きを聞く準備ができている顔になる。
ローリエはレジの前まで歩き、少しだけ息を整えた。
「ちゃんと教わりたいです」
おばあちゃんはすぐには返事をしなかった。
代わりに、レジ横の古いそろばんへ目をやった。
木枠の端がなめらかになった、長く使われてきたそろばんだ。
「ちゃんとって、どこからどこまで」
「式です」
その言葉を口にした瞬間、ローリエは胸の中で少しだけ落ち着いた。
探していた呼び方に、ようやく手が届いた感じがした。
「位が順番で、珠が命令で、数字が強さで」
そこまで言うと、おばあちゃんの目が少しだけ細くなる。
「ほう」
「それで、そろばん全体で、ひとつの流れになる」
レジの向こうで、おばあちゃんが小さく頷いた。
「誰に習った」
「まだ、誰にも」
「じゃあ、どこでつながった」
ローリエは少しだけ考えた。
坂の下の空き地。
子どもたちの輪。
チョウの乱暴な手。
店で見たおばあちゃんの一打。
それから、古い機械の前で何度もやり直した夜。
「たぶん」
ローリエは言う。
「もともとそういうふうに見てたんだと思います」
おばあちゃんは、ふうん、と短く言った。
「部活の方かい」
「はい」
「古い機械いじっとるやつ」
ローリエはうなずいた。
「動かないものを、動く形に合わせていく時と似てるんです」
おばあちゃんは笑わなかったが、否定もしなかった。
その代わり、レジの下から細い木箱を出した。
中には、色の違う珠がいくつか、きちんと分けられて並んでいる。
「なら、今日は菓子抜きじゃ」
「はい」
「泣くなよ」
「泣きません」
「どうかね」
ローリエは少しだけ口元を動かした。
おばあちゃんもほんの少しだけ目尻をやわらげる。
それで始まった。
店の奥には、小さな作業台みたいな板机がある。
菓子の箱をたたむ時にも使うらしいその机へ、そろばんが一台置かれた。
ローリエのものだ。
学校へ持っていく、見慣れた枠。
でも今日は、授業の道具ではなく、途中の何かみたいに見える。
おばあちゃんは向かいへ座らず、斜め横へ立った。
その位置だと、手元も見えるし、坂のひかりも入る。
「まず」
おばあちゃんがそろばんの左端を指で軽くたたく。
「位は順番じゃ」
「最上位から右へ」
「うん」
もう知っている言葉だ。
なのに、店の中で改めて聞くと、ただの知識より少し重い。
「先に置いたからえらい、とかじゃない」
「はい」
「先に通る、だけ」
おばあちゃんの指は左から右へ、珠の列をなぞるように動いた。
「水が流れるとして」
その言い方で、ローリエの頭の中へすぐに細い線が引かれる。
「上から下へじゃないんですね」
「この子らは横へ行く」
「左から右」
「そう」
おばあちゃんは、箱の中から水色の玉をひとつ取り出した。
上段へ。
上から。
すべる。
止まる。
小さな音。
「ここで、まず何が起こるか決まる」
次に、茶色のおはじきをひとつ。
下から。
押し上げる。
重なったところで止める。
「次で、そこへ何を足すか決まる」
ローリエは見つめた。
「つまり、前が骨組みで」
「そう言いたい顔しとるね」
「……はい」
「言いたきゃ言えばいい」
ローリエは少しだけ照れたが、続けた。
「左で骨組みを作って、右で近いところを仕上げる」
「それでいい」
その言葉が出た瞬間、頭の中で急にいくつかの感覚がひとつにつながった。
授業での計算。
部活での移し替え。
坂の下での初戦。
全部、違う場所にあったものが、急に同じ机の上へ並んだみたいだった。
おばあちゃんは、今度は珠を外した。
「珠は命令」
箱から火の気配を持った玉をひとつ取り出す。
緑や水色とは少し違う、内側に熱を持っているような色だ。
「これは押しが強い」
次に、水色。
「これは広がる」
次に、薄い灰色寄りの玉。
「これは抜ける」
次に、茶色のおはじき。
「これは受ける」
最後に、光を抱えたみたいな小さな玉。
「これは速い」
おばあちゃんは名前を言いすぎなかった。
でも、手の動きだけで、それぞれの珠が持つ癖が見えてくる。
押す。
広がる。
抜ける。
受ける。
速い。
ローリエは思わず、机の端にあった包装紙の切れ端を引き寄せ、指で並べ始めた。
左にひとつ。
右にひとつ。
その横にまたひとつ。
「なんじゃ」
「置いた時の順番を見たいんです」
「紙でかい」
「紙なら、やり直しが速いので」
おばあちゃんは少しだけあきれたみたいに見えたが、止めなかった。
ローリエは包装紙の切れ端へ、目に見えない線を引く。
最上位。
次。
その次。
ここに受けを置いて、次で押し返す。
いや、広がるのを先に置けば、相手の逃げ場が変わる。
そこへ速い珠を入れたら、間に合う。
でも、数字を重くしたら遅れる。
「数字は」
ローリエが顔を上げる。
「強さだけじゃないですよね」
「うん」
「軽いのは、出るのが早い」
「うん」
「重いのは、遅いけど深い」
おばあちゃんが、そこで初めて、そう、と少しだけはっきり言った。
「だから、強いのを置けばええ話じゃない」
ローリエは紙の上の切れ端を指で動かしながら、うなずいた。
部活で古い機械へ遊びを移す時、処理の重いものを最初に置きすぎると、画面はすぐ固まる。
逆に軽いものだけで組むと、動くけれど深みが出ない。
何を先に立ち上げて、何をあとから乗せるか。
それで全部変わる。
「数字って」
ローリエは言った。
「火力の大きさっていうより、重さなんですね」
「そう思っとると、だいたい外さん」
おばあちゃんは木箱をローリエの前へ少し押した。
「やってみ」
ローリエは、自分の珠ではなく、箱の中のものを見た。
いつもと違う。
練習用に分けられているのだろう。
少し軽い玉。
少し古いおはじき。
でも、どれも扱いには十分な顔をしている。
まず左へ、水色。
広がる形。
次に、茶色。
受ける。
その右へ、軽い玉。
速く。
さらにもうひとつ。
手が動く。
考えながら動く。
でも、前みたいに迷ってはいない。
順番が頭の中だけでなく、指先の近くまで降りてきている。
上から。
下から。
止める。
上から。
止める。
下から。
止める。
おばあちゃんは何も言わない。
店の外では、坂を上がる子どもの笑い声が一度だけ弾けた。
それでも、この机のまわりだけは別の静けさだった。
ローリエは珠を弾いた。
パチ。
ひとつ目で、机の端に立てた紙片が横へ揺れる。
次に、二つ目の流れでその揺れが少し広がる。
最後の軽い珠で、紙片の手前に置いた空の袋が持ち上がる。
小さい。
でも、順番がある。
おばあちゃんが初めて声を出した。
「今、何した」
ローリエはそろばんを見たまま答える。
「左で広がる形を置いて」
「うん」
「次で受ける面を決めて」
「うん」
「最後で軽く前へ出しました」
おばあちゃんは少しだけ目を細めた。
「よう喋るね」
「違いましたか」
「いや」
それだけ言って、今度は別の袋を立てた。
少し背の高い、口の広い袋だ。
「なら、こいつ倒してみ」
ローリエは袋を見る。
前より大きい。
軽く揺らすだけでは倒れない。
どう置く。
どこから立てる。
重いのを早く入れるか。
いや、最初に重いのを置くと遅れる。
なら、軽いので足元をゆるめるか。
でも、ただ当てるだけでは足りない。
その前に、広がる形で空気を動かして、最後に押すか。
考えが流れる。
でも今回は、流れたまま止まらなかった。
珠を選ぶ。
水色。
茶色。
少し重め。
その次に、軽い玉。
上から。
止める。
下から。
止める。
右へ、少し重い数字。
最後に軽い数字。
弾く。
最初の流れで袋の口が揺れる。
次で前側の空気がわずかに持ち上がる。
三つ目で袋の重心がずれ、最後の軽い一打で、袋が後ろへ倒れた。
乾いた音がして、袋が机へ寝る。
ローリエは目を瞬かせる。
「……できた」
「できたね」
おばあちゃんの声は平らだった。
でも、その平らさの奥に、ほんの少しだけ重みがあった。
ローリエは、思わず笑いそうになった。
初めて空き地で勝った時とも、イオウに負けた時とも違う感じだった。
強く出せた、ではない。
組んだものが、そのまま出た。
そのことが、妙にうれしい。
「見えてきました」
ローリエが言うと、おばあちゃんは机の上の倒れた袋を起こした。
「何が」
「そろばん全体です」
口にしながら、ローリエは自分でも少し驚いた。
でも、本当にそうだった。
今までは、珠を入れる場所を見ていた。
止める位置を見ていた。
どう弾くかを見ていた。
でも今は違う。
左から右までが一本につながっている。
上段も下段も、ただ分かれているわけではない。
全部がひとつの流れの中にある。
そろばん全体が、ひとつの大きな式として立ち上がる感じ。
「部活で」
ローリエは言う。
「古い機械へ遊びを移す時、ばらばらの処理をつないでいくんです」
おばあちゃんは黙って聞いている。
「画面を出すところ、音を鳴らすところ、落ちる形を読むところ、動かすところ」
ローリエの指が空中で小さく動く。
見えない四角を並べるみたいに。
「一個ずつ見てると、ただの部品なんです。でも、順番通りにつなぐと、急に遊びになる」
おばあちゃんの目が少しだけやわらいだ。
「この子もそう見えたかい」
ローリエはそろばんを見た。
「はい」
「珠が命令で」
「うん」
「位が順番で」
「うん」
「数字が重さで」
「うん」
「全部つながると、ひとつの……」
そこで少しだけ言葉を選び、ローリエは続けた。
「戦うための式になる」
おばあちゃんは、ようやく、そう、と言った。
短く。
でも、その短さに、今までの全部が詰まっている感じがした。
店の外で、誰かがラムネの瓶を鳴らしたような音がした。
坂の途中の風が、戸のすきまから少しだけ入ってくる。
ローリエは、また別の形を組み始めた。
今度は軽い珠を多めにする。
左へひとつ。
右へふたつ。
広がる前に速さを置く。
あるいは、受けを薄くして、抜ける形を先に立てる。
何通りも浮かぶ。
何通りも試せる。
そのことが楽しかった。
机の上の紙袋。
切れ端。
立てた板。
どれも小さな相手でしかない。
それでも、順番を変えるたび、出るものが微妙に変わる。
同じ珠を使っても、左を変えると右が変わる。
右を軽くすると、同じ押しでも見え方が変わる。
ローリエは途中で、ほとんど夢中になった。
「ここで抜ける形を先に作って」
「うん」
「次で受けを薄くしておいて」
「うん」
「最後を速くすれば」
袋が横へずれ、板の縁を浅く叩く。
「ちがう」
自分で言う。
すぐに一個戻す。
数字を軽くする。
位をひとつ変える。
もう一度入れる。
今度はうまくいく。
「こっち」
ローリエの声が少しだけ明るくなる。
おばあちゃんはそのたびに、うん、だの、ほう、だの、短く返すだけだった。
それが逆にやりやすかった。
褒めすぎない。
止めすぎない。
でも、外した時には少しだけ目が細くなる。
その目の変化だけで、ローリエは自分の手元を直せる。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
気づくと、店の中のひかりは少し傾き、木箱の影が机の上をじわりと伸びていた。
最初に立てた袋はもう何度も倒され、何度も起こされている。
ローリエはひとつ大きく息を吐いた。
「……面白い」
思わず出た言葉だった。
おばあちゃんが、今度は少しだけ笑う。
「そういう顔しとるよ」
ローリエは自分の手を見た。
指先が少し赤くなっている。
でも痛くはない。
むしろ、今の手はまだ動きたがっていた。
「組める気がします」
そう言うと、おばあちゃんは机の上の袋を全部片づけた。
切れ端も、立てた板も、端へ寄せる。
代わりに、何も置かない机の上を、平らに空けた。
「組めるじゃろうね」
その返事は、ローリエの胸を少しだけ持ち上げた。
けれど、おばあちゃんは続けた。
「でも、勝てるとは限らん」
その一言で、浮いた胸が机の高さまで戻る。
ローリエは黙った。
おばあちゃんはそろばんの左端を指で軽く叩いた。
「組めることと、勝てることは違う」
「……はい」
「式は立っとる。きれいに流れとる。出るものも合っとる」
ひとつひとつが、今のローリエの机の上を認めているようで、だからこそ次の言葉が重かった。
「でも、相手は袋じゃない」
店の外の笑い声が、少し遠くなった。
誰かが坂を駆け下りる足音がして、すぐ見えなくなる。
「止まってくれる相手ならええ」
おばあちゃんの声は変わらない。
「立っとる相手もええ。置いたとこで受けてくれる相手もええ」
ローリエはイオウの顔を思い出した。
細い目。
待たない指。
前へ倒れつづけるみたいな体。
おばあちゃんは、ローリエの顔を見た。
ほんの少しだけで、何を思い出したかまで見抜いている顔だった。
「でも、動く」
「はい」
「読まれて、ずらされる」
「はい」
「考えとる間に、もう次が来る」
その言葉に、ローリエの背中が少しだけ固くなる。
机の上で、きれいに組める。
順番も分かる。
左から右へ、ひとつの戦闘プログラムになる感覚も、もう見えている。
なのに、それだけで届かない壁がある。
「じゃあ、どうすれば」
ローリエが訊くと、おばあちゃんは少しだけ首をかしげた。
「それを今ぜんぶ言うたら、つまらん」
ローリエは思わず息を漏らした。
笑いに近かったが、完全には笑えない。
「でも、ひとつだけ」
おばあちゃんが言う。
「組める子は、組めることに安心しやすい」
ローリエは何も返さなかった。
返さなかったのに、それが自分のことだとすぐ分かった。
「立った式は、たしかに強い」
おばあちゃんの指が、そろばんの上をゆっくり右へなぞる。
「けど、立ったから勝ちじゃない」
店の中が少しだけ静かになる。
いや、静かだったのは最初からで、その静けさの底が少し深くなった。
ローリエは机の上の何もない場所を見た。
さっきまで袋や板があったところ。
いくらでも試せたところ。
相手が袋なら、いくらでも正しく組める。
相手が机なら、何度でもやり直せる。
でも、坂の下の空き地も、石段脇の道も、そんなふうには待ってくれなかった。
「……でも」
ローリエはゆっくり言う。
「組めないと、そもそも始まらないですよね」
おばあちゃんはそこで、はっきり頷いた。
「そう」
そのひと言は、まっすぐだった。
「だから、組むことはよう覚えな」
「はい」
「理屈は裏切らん。遅れることはあるけど、裏切らん」
ローリエはその言葉を胸の中へ置いた。
遅れることはある。
でも裏切らない。
それは慰めとも違った。
もう少し骨のある言い方だった。
おばあちゃんは木箱のふたを閉める。
「今日はここまで」
「もうですか」
「足りん顔しとるね」
「まだ、やれます」
「やれるのと、入るのは違う」
そう言われると、ローリエは反論できなかった。
頭の中はまだ動いている。
でも、その動いているものを今日はここで止める方が、たぶん明日に残る。
ローリエは珠を袋へ戻した。
玉同士が小さく触れ合う。
その音は、最初に聞いた時より、もう少し意味のある音に聞こえた。
「明日も来ていいですか」
「菓子買うなら」
前にも聞いた返事だった。
でも今日は、その中に少しだけ続きを許す気配があった。
ローリエは笑って、うなずいた。
「買います」
「よろしい」
レジでラムネをひとつ買う。
おばあちゃんは会計をそろばんで出した。
珠の音が、さっきまでの練習と違って、生活の速さで鳴る。
でも、そこにもやっぱり順番がある。
店を出る時、坂の風が少しだけ冷たくなっていた。
ローリエは戸を閉めてから、紙袋の中の珠へ一度だけ触れた。
上から。
下から。
止める。
左から右へ。
順番。
命令。
強度。
言葉にしなくても、もう手の近くにある。
坂を下りながら、ローリエは頭の中でいくつもの式を組んだ。
水色を先に。
いや、茶色で受けを作ってから。
重いのは右へ寄せる。
軽いのを最後に置けば、速く届く。
広がる形のあとに抜ける形を入れたら。
逆に、抜ける形を左へ置いたらどうなる。
数字をひとつ軽くしたら。
位をひとつずらしたら。
どれも試したくなる。
それが楽しい。
けれど、その楽しさの奥で、さっきのおばあちゃんの声もちゃんと残っていた。
組めることと、勝てることは違う。
坂の途中で、ローリエは一度だけ足を止めた。
夕方の町が少しずつ色を変えていく。
屋根の端。
塀の影。
用水路の細い光。
子どもの笑い声。
机の上では、何も言い返してこない相手ばかりだった。
でも、町は違う。
相手は袋ではなく、人だ。
動く。
ずらす。
待たない。
それでも。
だからこそ。
まずは組めるようになりたい、とローリエは思った。
強くなる、より少し手前の願いだった。
でも、その手前が今はひどく確かだった。
紙袋の中で珠が鳴る。
返事みたいな音だった。
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