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ナディエルの部屋を辞したあと、リリアンナは侍女部屋外で待機してくれていたブリジットに伴われて食堂へ向かった。
長卓には白いクロスが掛けられ、焼きたてのパンと温かなスープ、香草をまとった鶏肉が美しく盛られている。窓から差し込む昼下がりの光が銀器に反射して、室内をきらめかせていた。
すでに席へ着いていたランディリックは、リリアンナが椅子に腰掛けるのを待ってから、胸に手を当て、静かに口を開いた。
「女神エリュナに感謝を。この命を無駄にせず、我らの生きる糧としよう」
久しぶりに聞いたその響きに、リリアンナはわずかに戸惑いを覚える。
ここしばらくはずっと、自分と同じ王都出身の家庭教師のクラリーチェに倣ってきたせいだろう。食前の祈りといえば、耳馴染みのある豊穣を司る女神セイレスへ捧げるものが当たり前だったからだ。
長らくご無沙汰だった「エリュナ」という名は、ここへきてすぐの頃も、ただ新しい土地の習わしを実感させるものとして響いたのを思い出す。
初日にそのことへ目を白黒させたリリアンナに、『エリュナは、狩られた獣の魂を天へ還すと信じられている鷹の翼をもつ女神様の名でございます。王都の方では豊穣の女神セイレス様へお祈りを捧げられますね? それと同じような意味合いです』と教えてくれたのは侍女頭のブリジットだった。
牧畜と狩猟の地ニンルシーラでは、肉や乳を口にする前にはこうして感謝の祈りがエリュナへ捧げられるのが習わしとなっているという。
同じイスグラン帝国内でも場所が変われば微妙に文化が違う。
きっと母の生まれ故郷のマーロケリー国ではまた違った風習があるんだろう。
「……あの」
思わず口をついて出たリリアンナの声に、ランディリックが顔を上げた。
「こちらに移り住んできて思ったのですが、こちらの食事前のお作法は王都エスパハレのものとは少し違っています。……隣国マーロケリー国のお作法も、やはりニンルシーラやエスパハレとは違うのでしょうか?」
リリアンナの素朴な疑問に、一瞬ランディリックの胸に微かなざわめきが走った。
(リリアンナの母君は、マーロケリーのご出身だったな)
「そうだな。彼らは狩りと戦を神聖なものとし、糧を分かち合う際にも独自の作法があると聞き及んでいる。……だが、今は国境を挟んで剣を交えかねない相手だ。――深く知る必要はない」
淡々と答えを紡ぎながらも、声にはどこか硬さが滲む。
たまたまとはいえ、母君の特徴――マーロケリー国の民に近い見た目を色濃く受け継いでしまっているリリアンナだ。それだけでもここ――イスグラン帝国では風当たりが強くなりかねない。そんな彼女があちらへ興味を向けること自体が危うく思えたのだ。
それでだろう。最後の一文には特に、冷ややかな響きが宿ってしまった。
「あの……でも……」
それでも何か言い募ろうとするリリアンナに、小さく首を振ってこれ以上この話を続けるつもりはないと意思表示したランディリックに、リリアンナは小さく息をのんでスプーンを持つ手を止めた。
「リリアンナ。食事の手が止まっているよ?」
しばしのち。ランディリックにそう指摘されたリリアンナは慌てて食事を再開した。
いつもより空気が重苦しく感じられるのは、先ほどの質問のせいだろうか。
「ナイフはもう少し軽く持って。そうだ。その角度の方が、肉が切りやすい」
「……はい」
リリアンナは素直に従い、フォークで小さく切り分けた肉を口に運ぶ。
香草が使われた鶏肉は、柔らかく……美味しそうな色合いをしていた。でも、やっぱり何の味もしなかった。
ランディリックの視線を感じたリリアンナは、形ばかりの笑みを浮かべて「美味しいです」と短く告げる。
けれど、実際には味なんて分からない。リリアンナの声音に熱はなく、一瞬だけランディリックに向けられた眼差しも、すぐさま皿の上へ落とされる。
ランディリックはその様子に、胸の奥がわずかにざわつくのを覚えた。
(本当に、美味しいと思っているのか……?)
ふと脳裏に蘇るのは、リリアンナが幼かった日の記憶。
船旅の途上、客室通路の片隅で小さな手に真っ赤な林檎の果実を乗せてランディリックへと差し出してきた少女は、まだ不器用な手で皮を剥き、指先を傷付けて血をにじませながらも、「甘酸っぱくて美味しいの よ?」と無邪気に笑っていた――。
その姿と、いま目の前にいる無表情に近いリリアンナの表情とが、どうしても重ならなかった。
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リリアンナの味覚障害に気づいた?