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派手な格好の女がいる。とは言っても自発的世捨て人たる魔法使いの類ではない。人の目を気にしない魔法使いと違って、その女は人の目を引き付けるための格好をしている。鸚鵡の羽根のように魅惑的な色彩が、孔雀の羽根のように蠱惑的な模様を描いている。それでいてそれは見る者を困惑させる滑稽な格好だ。多すぎる羽根飾り、笑顔を描いたような白塗りの化粧。道化師だ。
日々の労苦からただ一時逃れるためのしがない酒場では今日も胸の悪くなるような酒気が漂い、だみ声が響いている。
僅かな灯火の薄暗い店で道化師は机にもたれ、杯を傾け、酒を呷るだけの当たり前の振舞いもわざとらしく強調し、戯画化している。職業病のようなものだ。
「まだ飲めるのかい? あんた。大丈夫なの?」と恰幅の良い女、この酒場の店主が道化師のふざけた顔を覗き込む。
「いいのよ、いいの。問題ないの」道化師は掌を振り、煩わしそうに跳ね除ける。「あたしはいくらでも飲めるし、お金もある。心配はご無用よ。そんなに不安なら先払いしましょうか? 女将さん? あたしが信じられないって言うならさ」
道化師は店主を睨みつけつつ懐を探る。
「別に疑う訳じゃないよ。あんたの評判は聞いてるからね。ちょっと信じがたいけど」
「分かればいいのよ、分かれば。流しの道化師だからって舐めないことね。あたしほどの道化師はそうそういないんだから」
そう言ってまた杯を乾かし、おかわりを注文する。そして視線を前から横に移す。赤ら顔の酔客が隣に座ったのだ。
「流しの道化師なんて聞いたことないな。酒場をまわってんのかい?」
「ええ、そうよ。流しの道化師。ここら辺では珍しい? まあ、あたしも見たことないわね」
「ここでは演らないのかい。何か面白い話でも聞かせてくれよ」
道化師は笑顔の化粧を顰める。「面白い話? いいわよ、これはただで道化師を働かせようっていう愚かな男の話なんだけど――」
「わかったよ。一杯奢るぜ?」
「え? 奢り?」
道化師は奢りの酒を受け取り、掲げる。
「気前のいいお兄さんに乾杯。いいわ。でもほんのちょっとね」
道化師は少しだけ唇を潤し、体を傾け、声を潜めて男の耳に冗句を囁く。しかし言い終えるか言い終えない内に、酔客は引っ繰り返ってしまい、道化師は驚いて身を反らす。
「わあ! 倒れちゃった。酔っ払い過ぎよ。ちょっと! この人の連れはいないの? 倒れちゃったわ! 早く片付けて」
顔見知りだという者たちが介抱して運び去る。道化師は視線で見送って自分の杯に戻る。
「まったく。酔うなとは言わないけど、身の程を知るべきよね。女将さん」
「あんたの懐の程はどうなんだい?」店主の冷ややかな眼差しが道化師に突き刺さる。「一杯奢ってもらったくらいで大喜びだったけど」
「あたしの懐? ねえ、女将さん? さっきも言ったけど……、分かったってば、分かったわよ。そう睨まないで。払えばいいんでしょ、払えば。大袈裟なんだから。まだほんの十杯くらいで。いくらなの?」
道化師は懐から革袋を取り出す。とても軽い革袋だ。
「……それで、いつまでに払えばいい? 冗談よ、冗談だってば」道化師は服のあちこちをまさぐる。袖、裾、靴の中。「いや、本当にあったのよ! 百杯は飲めるくらいね」
「ただ酒喰らおうってのかい?」
「やだなあ。ただ酒だなんてとんでもない。確かにあったはずなの。今思い出すわ。昨夜も沢山笑わせて沢山御捻りを貰って、えーっと……沢山飲んだのよね」
「つまり昨夜もほんの百杯飲んだってわけだね」
「ええ、ええ、ええ。分かってるわ。こうしましょう。今ここで稼がせて? 言ったでしょ。流しの道化師なの。すぐに稼げるわ。何なら飲んだ分以上に稼いだものも全てあげるわ。ね? 良いでしょ? 信じてないわね。でもとりあえず演らせてみない? 駄目だった時は、その時は煮るなり焼くなり蒸すなり揚げるなり好きにしていいわ」
「支払いが終わるまで逃がすつもりはないよ」
「……ありがとう!」
道化師は立ち上がり、振り返る。
「さあ、さあ、お集まりの紳……、淑……、酔いどれの皆様方。ご注目戴いているのはあたし、稀代の道化師、お道化る者。あたしに出会えた御幸運は比べることも出来ません。今宵、このしけた酒場に来ようなどという片腹痛い選択をなさった皆様だからこそ、寂しい懐を沢山の笑いで満たす御幸運を授かったのでございましょう。どうかご注意くださいませ。せっかく飲んで、気持ちよくなっていたところではございましょうが、あたしの話で酔いが吹き飛ぶのは必定。そんなことは御免蒙るという方々は今すぐに店を出て、大通りにある本物の紳士淑女の社交場、月光亭にて……。と、どうにも憎々しげな視線を背後に感じますのでお話に入りましょう」
エリカヴォネは視線という光を浴びるように両腕を広げる。そして店内を舞台に演じ始める。
「今は流しとして街々をふらふらと歩いているあたし、エリカヴォネですが、元は名も無き小王国の宮廷道化師として働いておりました。それはもう、辛い日々でございます。面白い話というのはそう簡単に出てくるものではありません。日々、脳がねじ切れるほどに悩み、冗句や風刺で王を笑わせ、時に考えさせる必要があるのです」
エリカヴォネは大袈裟に溜息をつき、机の一つに飛び乗って寝転がり、大きな欠伸をする。
「朝はとても早うございました。ライゼン産の温かな羽根布団に包まれて、長い時間のかかる王の朝の支度をする召使いたちのそばで二度寝か三度寝が精々の精一杯」
酔っ払いたちもまた酒気立ち込める酒場に、見たことのない王の寝室を幻視する。エリカヴォネは立ち上がり、机の上でくるりと回る。
「豪華絢爛なお召し物を召す王様の傍らで、あたしはといえば着たい服を着ることも出来ず、仕立て屋手ずからの宝石に彩られた絹の衣装を着せられ、王様の目を楽しませる辛い日々」
机の上の飲みかけの麦酒を呷り、塩漬け肉をつまみ食いする。
「食事はといえば王様の召す質も量も申し分ない豪勢な肉料理だけでいいのに、嫌いな野菜まで食べさせられました。え? 羨ましい?」
道化師は周囲の赤ら顔を見渡し、呆気に取られている風な顔をする。
「とんでもございません。本題はここからでございます。あたしの申しつけられた仕事をなされば皆様も辟易し、宮廷を飛び出したくなることでしょう。そうして流しの道化師に身を落とし、酒場の店主をだまくらかしてただ酒を……、ではなく市井の皆様のささやかな笑顔を喜びに生きたくなることでしょう。と、いうのもですよ」
エリカヴォネはそこで言葉を区切り、杯を返し、酔客を見渡す。
「何せその王様、人が良かった。あたしの冗句、冗談でお笑いになり、是非とも国民を楽しませてやってくれと御申しつけになったのです。一人を相手にするだけで手一杯なのに。正直逃げようかとも思いましたが、命令とあっては致し方なし」
エリカヴォネは机から飛び降りるとどこからか短剣や色とりどりの鞠、派手に装飾された棍棒を取り出して見せる。
「もちろん初めはあたしも張り切りました。演目を練り上げ、あたしのために用意された舞台に挑んだのです。日々弛まぬ努力で身に着けた奇妙な踊り、滑稽な表情、沈黙劇に冗談、悪戯、曲芸。公演は大成功です」
エリカヴォネはそう言いながら実際に曲芸を見せる。短剣が弧を描き、鞠が生き物のように跳ね、棍棒が宙を舞い、御捻りが投げて寄越される。
「だけどそれが良くなかった。連日連夜お客様が詰めかけ、あたしも多少は手を変え品を変え、芸を披露しましたがすぐに演目が尽きてしまった」
全ての道具を床に落とし、エリカヴォネは肩を落とし、拾い集める。
「しかしそれでもお客様は参られる。終いには同じ演目でも構わないと仰る。しかしあたしだって道化師の端くれ、同じ演目をするなんて、いや、少し似ただけでも恥というもの。百の個性的な演目を出してやろうというものです。百一だったならば難しかったでしょうが百ならば可能です。閑話休題。ともかくあたしは精一杯やりました。そんな時に編み出したのが大陸一面白い伽句です。これを聞けば、どんな堅物も満面破顔。引っ繰り返って笑い転げたものです」
酒場の誰もが固唾を飲んだ。
「それも良くなかった。面白過ぎて誰もがあたしの公演に通い詰めるあまり、誰も働かなくなっちゃいました!」
エリカヴォネはにやりと笑みを浮かべ、大袈裟に腕を広げる。酒客の誰も彼もに今か今かと見守られている。エリカヴォネの笑みは消え、店主の方に顔を寄せて囁く。
「え? つまらなかったですか?」
「え? 終わったの?」
「……はい。今のが結末ですけど」
「大陸一面白い伽句は?」
「え?」
「具体的に大陸一面白い伽句を言いなよ」
「いや、それは駄目ですよ。面白過ぎて御捻りどころじゃなくなっちゃいますからね」
店主のエリカヴォネに向けた眼差しは路傍の小石に向けられるものだった。
「そう。お疲れ様。じゃあ足りない分は――」
「まだあります! まだいけます!」
エリカヴォネは観客の元へ戻る。
「さあ、皆様、まだまだ序の口でございます。ここからが本番ですよ。そうです。お話には続きがあります。王様は賢い御方でした。勿論国民には働いてもらわなくちゃあいけません。あたしは元の普通の宮廷道化師に戻るのだろうと思いましたが、そこは王様、狡猾な御方です。あたしの別の使い道をお考えになりました。誰もが笑いを求めて本業の手がつかなくなる。これほど笑いの神に愛されたあたしを、かの王様の恐ろしき策謀には驚かされたものです!」
笑顔の化粧でもなお恐ろしさを十分に伝えるエリカヴォネの表情に酔いの吹き飛んだ視線が集まる。
「すなわち、あたしを戦場に投入なさるご決断をなされました。とはいえ、あたしも道化師の中の道化師、平和に生きる皆様の中にはご存じない方もおられるかもしれませんが、道化師という生業はもとより場所を選ばないものです」
エリカヴォネはどこかからか取り出した喇叭を吹きながら太鼓を叩き、弦を爪弾く。
「兵士を励まし、敵方の将軍や王を馬鹿にし、歌い、踊り、こちらの士気を上げ、あちらの士気を下げる。醜聞があればこき下ろし、あることないこと吹聴したものです。あたしに限ったことではありません。時には敵方の道化師と笑い合戦になったこともありました。如何に味方の兵士を笑わせるか? いいえ、それは三流です。敵兵士を笑わせて、ようやく二流。あたしともなると敵方の道化師自身を笑わせ、腹をねじ切ったものです。それが一流のなせる技というものです」
荒唐無稽な話に野次が飛ぶ。
「おやおや、信じていませんね。なんならこの場でその冗談を披露してもいいのですよ? ……でもまあ本当に皆様の腹をねじ切ってしまっては大変なのでやめておきますが。いや、できますけどね。できますから、やらないだけですから」野次は続くが無視して続ける。「……ともかくあたしは王様のご命令通り、戦場で滑稽な振る舞いをしたのです。まあ、連日連夜は少し難しかったです。週一回くらいなら出来るんですけどね。たまに休みをいただくかもしれませんが、週一なら何とか。閑話休題。そうして次々に戦を仕掛け、その規模が大きくなるにつれ、あたしの頑張り具合も大きくなるわけですが、それもやっぱり良くなかった。人が増え、誰もかもが笑える冗談となると限られます。戦意を喪失するほどの世界一面白い伽句を使わざるを得ませんでした。途端に敵方は総崩れ。誰もが涙を流し、身を捩って戦場は笑い声に包まれました。ただ味方すらあたしの冗談に笑いこげて戦えなくなってしまったんですけどね!」
再び店主の元まで戻って来たエリカヴォネはにやりと笑みを浮かべ、観衆を前に大袈裟に腕を広げる。しかしやはり途中まではちらほら聞こえた笑い声さえ消え失せてしまっていた。思わぬ結果にエリカヴォネの笑みも消え、店主の方に顔を寄せて囁く。
「聞こえました? あたしの声、小さかったですか?」
「曲芸も演奏も上手かったけど、話しはつまらなかったね」
「え? つまら……」
「だいたいその世界一面白い伽句とやらを披露すればいいじゃないか」
「待ってください! 分かりました! 本気出しますよ! あーあ、あたしに本気出させちゃうんですね。知らないですよ? どうなっても」
エリカヴォネは三度酒客を見渡す。
「さあ、皆様、今のはほんの閑話です。外伝みたいなものです。長い本編の合間のお口直し、一服の清涼剤です。閑話休題。これは面白い以上にとても危ないお話です。果たして最後まで聞いていただけるかどうか」
「稼げりゃ良いんだよ」
「え? 何ですか? 女将さん。御捻り? ああ、勿論、最後には最大級の盛大な喝采と共に御捻りを頂戴いたしたく存じます。さてさて件の国王様、あたしが戦争にも使えないとなり、新たな使い道を模索し始めました。とはいえ、どうあがいてもあたしのおふざけにかかれば人間という生き物は営みを停止させてしまいます。そこで企てた一計は何とも残酷、何とあたしを手放し、敵国に送り込むという策を講じたのです。あたしは……、まあ、詳しくは話せませんが魔法によって命令を忠実に実行する木偶人形となってしまい、敵国に送り込まれました。そしてその国でただひたすら人々を笑わせるのだ、と命令を受けた次第です。その国がここだ、なんて恐ろしい結末ではございません」
「だったら作戦失敗だな!」と野次が飛ぶ。その夜一番の笑い声が起きた。
「……あたしは命令通りに敵国の民衆を笑わせたのですが、まあ、命令を書き換えるのはそう難しいことではありませんでした。すぐさま敵国の魔法使いによって囚われたあたしは再び同じ命令を受けて元の国に返されたのです。あれは何とも気恥しいものでした。ともかくあたしは元の国で人々を笑わせまくりましたが、何せ誰よりあたしのことをよく知る王の国、再びあたしは捕まり……と、二国はあたしをまるで厄介払いするように押し付けあうようになったのです」
「女将さんと同じ気持ちだろうよ!」
「……日々、人々を笑わせることに命を懸けているあたしには腹立たしいことでした。あたしは最後の最後に宇宙一面白い伽句をぶちかまし、逃げ去ることにしました。なので、これから後のことは風に聞いた話ですが、宇宙一面白い伽句を聞いた人々は二度とそれ以下の伽句で笑えなくなったそうです!」
エリカヴォネはにやりと笑みを浮かべ、大袈裟に腕を広げる。しかし思わぬ結果に笑みは消え、女将さんの方に顔を寄せて囁く。
「もしかして皆様、宇宙一面白い伽句を聞いたことがあります? いや、面白いでしょ? 笑い話の究極形が笑えない話っていう……その……あの……。酒代どうにかなりません?」
エリカヴォネは視線を追うように周囲を見渡す。どこからかいつの間に現れた屈強な男が三人、エリカヴォネの方へと近づいてくる。
「どなたですか? 用心棒? ちょっと待ってくださいよ。ほら、皆さん、遠慮することはありません。御捻りを入れる余地はありますよ」
そう言ってエリカヴォネは空の革袋の口を開いて見せる。しかしその袋が重くなることはない。
「分かりました。分かりましたよ。あたしを馬鹿にしたこと、後悔しても知りませんからね」
そう言うとエリカヴォネは周囲を見渡し、にっこりと笑う。そして宇宙一面白い伽句を披露した。途端に人々は腹を抱えて大口を開け、笑い転げた。宇宙一面白い伽句なのだからそうなるのも当然のことだった。