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魔導書の詩に”月の妬みが黄金を飾る”という箇所がある。黄金はどれくらい必要なのだろうか、と旅のあいだ時折話題に上がっていたのだった。答えは試してみるまで分からないが、試してみるにも最低限を確保しなくてはならない。つまり、今回のことは丁度良かった。
何はともあれ情報収集だ。日が完全に暮れる前に素早く議論を重ねた結果、自警団と応戦する直前に魔法少女に変身していたユカリならば、変身前の姿で街に入っても見咎められない可能性が高いのではないかと、推察するに至った。レモニカは言わずもがな、少なくともベルニージュよりましだろう。
そういうわけで、一番星がほっと白い吐息をつく頃、杉の森の疑り深い梟が身を震わせて目覚めた頃、ユカリは一人、まだ昼間の騒ぎが道の端で囁いている夜のケマインの街へと入った。
ベルニージュとレモニカは二人、体温を奪う雪から逃れるようにヴァミア川にかかる橋の下でユカリを待つこととなった。念のために、とユカリが二冊の完成した魔導書を押し付けて行った。さすがに念を入れ過ぎだ。
二人の間に流れる空気は気まずいものだった。ユカリとベルニージュ、ユカリとレモニカの組み合わせに比べると、あまり親交がない。そして何より、レモニカがベルニージュの最も嫌いな存在、男に変身していることが二人の間の濃い霧のような沈黙を更に深めている。
いかにも雄々しいと形容できる男だ。金髪は錆びた剣のようにくすみ、粗野なひげに口が覆われている様は手入れのされていない廃れた屋敷の庭のようだ。彫刻の題材に選ばれる古代の英雄然とした隆々たる筋肉は肌に深い影を落とす。また、いかにも絢爛な濃い赤と紫に染められた絹と、使い込まれてなおくたびれもせず頑丈そうな革という相反した衣装を身につけている。剣も佩いてはいるが抜くことはできない。俳優か何かでないなら間違いなく高貴な出の者だ。そのような姿でありながら、中身はレモニカなので、ちょこんと河原に丸く座っている様は少し滑稽だった。
しかしレモニカであると分かっていても、ベルニージュには心許すことができなかった。理屈ではないことは理解している。失われた記憶は、しかし頭の中にないわけではなく、はっきりと読み取れないだけなのだ。男への嫌悪感は否応なしに記憶の澱から立ち昇ってくる。
あまりにも具体的な姿だ。ユカリのように嫌いな対象の正確な姿を知らないという状況は稀だろうが、それでも想像上の姿をレモニカの体は写し取ってしまう。だとすればこの男も記憶にはないが、記憶を失う前には見知った人物だったのだろう、とベルニージュは推測する、少し離れたところでちらちらとレモニカに視線を送りながら。
ヴァミア川の囁くようなせせらぎと気まずい空気が流れる。普段どのような会話をしていたかベルニージュは思い出せずにいた。何も喋らないレモニカはまごついている。きっと罪悪感を覚えているのだろう、とベルニージュは思った。罪悪感を覚えさせていることに罪悪感を覚える。
ベルニージュは逃げるように橋の裏の拱門に目を向けた。街に相応しい幅広さで技巧に優れた職人の手による石橋ではあるが、特別な魔法の使われている様子はない。まさか橋一つで街に貢献する魔法使いの熟練度を測れるわけでもないが。あの炎の槍は、どうにもこの街の自警団には不釣り合いに思えたことを思い出す。
視界の端で何かが動き、ベルニージュは素早く立ち上がる。誰かが首だけ出して橋の裏を覗いていた。クオルだった。深い夜を溶かしたような長い髪に、笑みを浮かべる赤茶色の瞳。青白い肌は病人のようだが、本人はすこぶる溌剌としている。
「今日は二人ですか。珍しいですね。喧嘩でもしたんです?」とクオルは挨拶の代わりに尋ねてきた。
ベルニージュはそれには答えない。「何度も会うね。もしかしてワタシたちのことをつけてる?」
「まさか。たまたまですよ。確かに貴方たち三人にはとても興味を惹かれていますが。この街には以前から何度か寄らせてもらってます。お得意様がいるのですよ。ところで――」
「助手にならならないよ」
「そうですか。残念です」本当に残念そうな表情でクオルは呟く、すぐさま元の馴れ馴れしい顔に戻るが。「ところで、エイカさんのあの変身。とんでもない魔法ですね。ただ若返るだけならまだしも体格まで大きく変わって、しかも自由自在に元に戻れる」
ベルニージュは険しい顔になるのを抑えつつ、ありがたい偶像に入ったひびの深さを探るようにクオルを見つめる。
クオルの前でユカリは魔法少女に変身したことはないはずだ。先ほどの自警団との小競り合いの姿を見ていたのだとすれば、やはりこの女に付きまとわれているのだ、とベルニージュは結論付ける。
ベルニージュは話を少し戻す。「この街に寄ってるって、もしかしてあの槍?」
クオルは嬉しそうに拍手をして言う。「ご名答。さすがベルニージュさんです。どうです? あの槍の具合は、皆さんの脅威になりましたか?」
ベルニージュは正直に、首を横に振る。
「まだ試作なんだろうけど、あまり効果的とは言えないね。一般人の武力の底上げにはなるんだろうけど、職業軍人ほどの脅威にはなれない」
「良いんですよ、それで」とクオルは反論する。「まさにベルニージュさんの言う通り、一般人の武力の底上げこそが、この魔法の肝なんですから。いずれは名高い騎士や歴戦の傭兵にも劣らない一般人を生み出してみせますよ」
それはそれで恐ろしい未来だ、とベルニージュは思う。
「傭兵を雇った方が安上り、なんてことになりそうだけど」
「現状はそうですね。けど、それはそこまで問題ないと思います。いつでもいくらでも傭兵を雇い続けられるわけではありませんからね。それにゆくゆくは傭兵だってお客様です」
「そもそも何で火をつけるの?」とベルニージュが問う。
するとレモニカが「え!?」と声を上げる。
ベルニージュは筋骨隆々のレモニカを振り返って尋ねる。「どうかした? レモニカ」
逞しい男がもじもじしながら話す。「いえ、その、意味ないんですか? あの火」
「目的によるかな」とベルニージュは再びクオルに向き直る。「松明を持つ必要がない、とか。はったりが利く、とか」
「もちろん意味はありますよ」とクオルは自信たっぷりに言った。「ヴァミア川の怪物、奴らが火を嫌うんですよ。試作の出来を調べるには丁度良いでしょう?」
「ふうん」と言ってベルニージュは冷たい目線をクオルに送る。「あれって火力は調整できるんだよね? でなけりゃ槍に油でもかけて火を灯せばいいだけだし」
クオルははっとした表情をして紙を取り出し、月の光の下で覚書をしたため始めた。ベルニージュは呆れてクオルを見つめる。
書きつけながらクオルは言う。「そうそう、ラミスカって、ご存知ですか?」
それは数日前に出会ったユカリと同じくミーチオンからやってきた行商人の娘の名だ。
「知ってる。紫燕ってトーキ大陸の鳥でしょ。それがどうかしたの?」とベルニージュは尋ねる。
「さすがベルニージュさん。よくご存じで。一応グリシアン大陸にも飛んでくる渡り鳥なんですよ。ミーチオン地方辺りでは珍しくありません。でも、いえ、人の名前です。探し人です。気に留めておいてくださると助かります」
ベルニージュは首を振って否定する。「たぶん。助けられることは何もないと思うけど」
「なぜです?」
「ラミスカって名前の哀れな助手候補に同情しているからだよ」
「そう意地悪を言わないでください」クオルは覚書を片づけながら言った。「それにラミスカは助手候補でもありません」
その時、突然ヴァミア川が騒がしくなる。土砂降りの雨に打たれているかのように、激しく沸騰しているかのように川面に水飛沫が立つ。また水飛沫だけでは説明できないような煌めきが川面から溢れ出す。月と星の光を反射してぎらぎらと輝いている。
その正体はすぐに明らかになった。まさに夕暮れ時にレモニカが町中で変身した、ヴァミア川の怪物とよばれる水魔たちだった。五歳児ほどの身の丈も黄金の輝きもレモニカが変身した姿とまるで変わらない。
それはつまりケマイン市の人々がはっきりと思い浮かべられるくらい、その姿が心に焼き付いているということだ。