妖しく光る黄金の甲殻に覆われた猿のような怪物がざぶざぶと浅瀬へと近づいてくる。背を丸め、量の腕をだらりと下ろし、大きく肩を揺らしながら、まるで倒れた獲物にとどめを刺そうとしているかのように近づいてくる。
「蟹猿ですわね」とレモニカが野太い声で冷静に言った。
ベルニージュは少し驚いてレモニカをちらりと振り返って囁くように尋ねる。「知ってるの?」
「いえ、見た目がそういう感じだと思いましたの」とレモニカは鷹揚に答える。
少し呑気ではないか、とベルニージュは思ったが、分かりやすくて良い命名だとも思った。
どこからか無数の小さな泡が弾けるような音が聞こえ、ベルニージュは耳をそばだてる。その正体までは分からなかったが、それは蟹猿の唱える敵意に満ちた呪文だと気づく。
「下がって!」とレモニカに命じる。
三十を超える蟹猿たちが河岸の境で三列になってベルニージュ達の方を注視し、ばらばらに唱え始めた呪文を同時に唱え切った。すると蟹猿たちの甲殻を薄く覆っていたらしい黄金が溶け落ち、意志を持った不定形の生命体のように集い、形を定めていく。金鍍金が剥がれて青緑の甲殻が露わになった蟹猿たちの前に、黄金の偶像が作り上げられる。それは人間とも蟹猿とも違う、細く長い手足の生えた魚のような姿だ。水に濡れて星明りを受けて、ますます不気味に光を照り返す魚人の偶像は蟹猿たちの不快な囃し立てる声を背にして不器用に動き出し、ベルニージュたちに迫りくる。
ベルニージュは対抗するように緻密に織り上げた魔術を手際よく展開する。河原の石が火花を発したかと思うと爆発的に火炎を噴き上げ、偶像と同程度の大きさの炎の巨人が現れる。
蟹猿たちの激した心に呼応するように魚人の偶像が勢いよく水飛沫を蹴立て、ぎらぎらと光と熱を発する炎の巨人につかみかかる。しかしそれぞれの体躯に込められた魔法の力には圧倒的な差があり、まるで勝負にはならなかった。
炎の巨人は魚人の偶像をつかみ倒し、濡れた河原に押し付ける。魚人の偶像は拘束から逃れようと身悶えするが、炎の巨人は空気を揺らめかせるばかりでその巨躯はびくともしない。
ベルニージュと蟹猿たちは睨み合ったままだ。黄金の甲殻が剥がれた蟹猿たちの表情が何となくわかる。忙しなく口を動かし、目を大きく開いている。明らかに憎悪の眼差しを向けられていた。
川の中の蟹猿たちは再び呪文を唱え始める。弾ける泡と水の流れ、黄金を打ち合わせる重い音を組み合わせたような、人間の喉や舌や唇には真似できない呪文が紡がれる。
ベルニージュは警戒するが、水魔たちが差し向けた魔法はその警戒の隙を縫ってやってきた。
ベルニージュは背後から羽交い絞めにされ、口をも覆われた。河原の石の隙間から黄金が染み出ていることに気づく。同時に炎の巨人が押さえつけている魚人の偶像が卵のように割れる。偶像の中身は空洞になっていた。蟹猿たちの魔法は黄金の偶像の中身だけ抜き出して移動させたのだ。
夜の河原の何でもない石の隙間から染み出した黄金が形を成し、今度は蟹猿と変わらない大きさの魚人の偶像が多数現れた。ベルニージュを拘束している偶像以外全て炎の巨人の方へと群がる。主の力も支えも失った炎の巨人は劣勢を強いられる。
すると蟹猿たちは勝ちを確信したのか川から上がってきて、呪文を唱えながらベルニージュの元へ近づいてくる。
その時、「わー!」と叫びながら、ベルニージュを羽交い絞めにしている蟹猿たちに殴りかかったのはクオルだった。
「なんで魔法を使わないの!?」口が自由になったベルニージュはそう言わずにはいられなかった。
ベルニージュを拘束していた偶像も、炎の巨人に群がっていた偶像も、全てが唐突に気が変わったのか、クオルの方へ向かう。そして身を守るように丸まるクオルを小突き、蹴る。ばしゃばしゃと川遊びでもしているかのような水飛沫が立つ。
ベルニージュが助けに入ろうとしたその時、河原の大きな石さえも砂のように巻き上げる強烈な風が起こった。蟹猿たちと黄金の偶像、そして流れる川の水を全て対岸へと吹き飛ばす。ただしベルニージュとクオルに対してだけは手加減をしてくれる風だった。
ベルニージュはクオルの元へ駆け寄るが、それは先程まで一緒にいた見知らぬ男に変身した。レモニカだった。
「ごめん! レモニカ! てっきりクオルかと! いや、クオルだとしても助けようとはしたんだよ?」
ベルニージュは男が苦手なことも忘れて、再び水が上流から押し寄せる前にレモニカに肩を貸して河原へと戻った。
「大丈夫!? レモニカ!」と叫んでユカリが河原へと駆け降りてくる。
「大丈夫ですわ。こんなの鞭に比べれば」そう言って、焚書官になったり男になったり忙しくもレモニカは微笑みを浮かべる。「それよりベルニージュさまは大丈夫ですか? わたくし、これといって喧嘩の心得はなくて、魔法もあまり使えなくて」
「いや、さっきのはクオルに言ったつもりだったんだよ。というかクオル、どこ行った?」
三人は辺りを見渡すがクオルの姿はどこにもない。
「怪物と一緒に吹き飛ばしちゃったのかも?」ユカリは呟き、何もない空中に視線を向けて耳を傾ける。「ああ、そう? グリュエーがそう言うならそうなんだろうね」
どうやらグリュエーにも心当たりはないらしい。
ベルニージュができうる魔法の限り、レモニカの傷を癒していると、ヴァミア川の怪物、蟹猿たちが対岸から泳いで戻って来る。一層の怒りを滾らせているのは言葉が通じなくても分かる。
「レモニカがクオルに変身したってことは、怪物たちが一番嫌いな生き物はクオルってことだよ」ベルニージュはユカリとレモニカに説明する。「何があったのか聞いてみて、ユカリ」
「そういうことか」ユカリは合点がいった様子で何度も頷く。そしてレモニカに視線を向ける。「動物だと変身しないのにあの怪物たちだと変身するんだね」
確かにそうだ。レモニカの変身する特性は人間にしか反応しないものと思っていたが、蟹猿たちにも反応していた。一定以上の知性に反応しているのだろうか。
蟹猿たちが再び敵対的な呪文を唱え始める前にユカリが【話しかける】。ユカリの言葉は怪物たちに通じているらしく、怪物たちの喚き声はユカリに通じているらしい。
ユカリは通訳をしつつ話を進める。「どうやら彼らも呪われたみたいだね。それもクオルに」
「あの女はろくなことしないね。それでどういう呪い?」とベルニージュは尋ねる。
怪物たちの吠えるような声をユカリは通訳する。「黄金への渇望が止まなくなったみたい。元々黄金を集めてはいたけど、人間と争うつもりはなかったんだって」
ことの全貌が明らかになった。
「つまりあの女は」ベルニージュは話をまとめる。「彼らに街を襲わせ、街の自警団には彼らに対抗できる武器を売っていたってわけだ」
金儲けと魔法道具の実験辺りを目的に街と怪物の争いを仕組んだらしい。
「呪いを解いてあげられませんか?」とレモニカは乞うように言った。
「やれるだけやってみよう」とベルニージュは言う。「彼らの協力を得られればさほど難しくはないと思う」
ベルニージュと蟹猿たちの交渉と相談をユカリは通訳する。
怪物たちは了承し、早速作業に取り掛かる。黄金で出来た魚人の偶像が集まってきて、再び不定形な姿になる。そしてベルニージュの指示に従い、【回復】の形を作る。
変身を解いたユカリが「歌、歌う月、惑いの言葉、神秘、黄金の輝き、黄金の煌めき、尽きぬ財宝、再生、【回復】」と一息に言って、ベルニージュの評価を待つ。
「まだ何も言ってないけど」とベルニージュはわざと冷たく言う。
「どう?」ユカリはしたり顔で言った。「完璧じゃない?」
「よろしい」とベルニージュが苦笑して言うと、ユカリはレモニカと手を取り合って喜んだ。
”月の妬みが黄金を飾る”に従って、黄金で作られた【回復】に月の光を浴びせる。
月は素直に光を降りそそがせ、それに劣ることのない目も眩むほどの強い光を【回復】は放つ。事前に説明していたにもかかわらず蟹猿たちは大騒ぎだった。
蟹猿たちが落ち着きを取り戻すと今度はベルニージュが仕事に取り掛かる。蟹猿たちの甲殻に【回復】を含んだ解呪の呪文を記していく。ベルニージュの他にこの魔法を扱える者はいなかったので手間と時間がかかった。
最後に蟹猿たちを三列に並ばせ、ベルニージュが指を鳴らす。すると怪物たちが一斉に小さな影をその奇妙な口から吐き出した。それは毒々しい紫色の蜥蜴で、それらはどれも尻尾がない。蜥蜴の形をした呪いたちは各々その場から逃げ去っていく。一部は街の方へ消え、残りは【回復】を作った黄金に取りつく。すると染み出るように黄金塊から緑色の尻尾が現れ、蜥蜴とくっついた。そうした後、今度こそ呪いは空中に解けて消えた。
ベルニージュは呪いの一匹が尾とくっつく前に摘まみ上げ、手持ちの小さな硝子瓶にそれぞれを閉じ込めた。簡単な魔術だろうとは思ったが、見たことのない呪いなので念のために研究させてもらう。
その時、ユカリが蟹猿に囲まれていることにベルニージュは気づいて焦る。しかしユカリは困ったような笑顔で怪物たちと話していた。蟹猿たちに襲われているわけではなかった。
「だからほとんどベルのお陰なんだって」とユカリは蟹猿たちに説くが、蟹猿たちはまるで聞く耳を持たず呻くような声でユカリに奇妙な言葉を投げ掛けている。
「そう、クオルさんを……。えっと、ほどほどにしてあげてね?」
どうやらクオルはこれからこの怪物たちに追い回される運命にあるらしい。
街から奪った分以外の黄金を再び纏うと、怪物たちはヴァミア川の下流へと去っていく。月明りの流れ去るその光景を三人がじっと見ていると、突然怪物の一人が振り返って親し気に手を振った。何か手に持っているが暗くてよく見えない。
「それではエイカさん、ベルニージュさん、レモニカさん、さようなら。それとエイカさん。貴女の力の秘密をいただきます。悪く思わないでくださいね」
その声はまるでクオルの声だった。
「ああ……」と合切袋を漁りながらユカリが声を上げる。「やられたよ。わたしの……。『我が奥義書』が盗まれたみたいだね」
ベルニージュも合切袋を覗き込む。「『我が奥義書』だけ? ふうん。魔導書だって分かってて盗んだのかな」
「どうだろう?」ユカリは首を傾げる。「たぶん、私が魔法少女に変身してる姿を見て、留め具にある『我が奥義書』に気づいて関連性を見抜いたんだろうけど」
何が起こったのかいまいち分かっていないレモニカに魔法少女の魔導書について簡単に説明する。
レモニカは慌てて言う。「大変なことではありませんか! なぜ落ち着いているんですか? 取り戻さないと」
ベルニージュとユカリは微笑み、レモニカを宥める。何も心配することはない、と。
「それよりレモニカ」ユカリは再び合切袋を漁り、何かを引っ張り出す。「これ、あげる」
それは輝かしいばかりの衣服だった。滑らかな黄蘗色の毛織物に青白い樹状模様が描かれている。それは月の光を浴びると黄金のように煌めき、爽やかながら只ならぬ不思議な気配を辺りに漂わせた。
「これは」レモニカは息を呑み、言葉が出てこないようだった。「どうしてですか?」
「レモニカが目を奪われるほどだからね。よほど魅力的だったんだろうと思って」とユカリは笑みを浮かべて言う。そしてベルニージュに皮肉っぽい視線を向ける。「それに一人だけ高い本を買った人がいるからね」
どうやらこの衣服が、レモニカの足を遅れさせ、街中で怪物に変身してしまった原因らしいとベルニージュは気づく。
「でも、申し訳ございません。わたくしがこの服を着ると破けてしまうことでしょう」
確かにそうだ。突然、筋骨隆々の男になってしまうかもしれないのだ。それ以外にも獅子の姿でも駄目だろう。他に世の中の誰がどんな巨大な怪物を嫌っているか分かりはしない。だからこそ、このような服に憧れているのかもしれないが。
「そっか。そうだった。そこまで考えてなかったよ」とユカリは申し訳なさそうに呟く。「何か別の形に繕うこともできるけど。それは違う、よね? それじゃあ何かいい方法が思いつくまで預かっておくよ」
「申し訳ございません。お手間をかけてしまいます」レモニカは目を伏せ、舌をもつれさせて言う。
「謝らないでよ」ユカリは衣服を片づけながら快活に言う。「私が勝手にやったことなんだからさ」
「それと、ありがとうございます」とレモニカは漏れ出す感情を押し殺すように言う。
それを聞いたユカリの方が嬉しそうだった。
「あ、ほら! 見て! もう戻ってきた」ユカリが三度合切袋を漁り、取り出したのはクオルに奪われたはずの魔導書『我が奥義書』だった。「クオルさんは今頃悔しがってるだろうね」
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