「何だよそれ」
「ハルジオン。マンションの前に咲いてたから」
「どうして、これを?」
一本の茎にいくつかの白い花がついたそれは、綺麗というより見窄らしいようにも感じた。何処にでも咲いているようなそれに魅力を感じるはずないのに、見慣れた風景の中にひっそり潜んでいるようなそれに興味などそそられないのに、何処か心が温かくなるのを感じた。
俺はハルジオンを神津から受け取って、その香りを嗅ぐ。少し青臭い匂いと、甘い花の匂いがした。
「ハルジオンの花言葉は追想の愛……何だか春ちゃんみたいだと思って」
「この花がか?」
「名前にハルってついてるから」
単純だなあ。と思いつつも、渡されたそれに、確かにシンパシーを感じるものがあった。気のせいかも知れないが。
「それに、その花、春ちゃんの誕生花なんだよ。ああ、勿論数週間後に来る春ちゃんの誕生日はもっと良いものプレゼントするから期待しておいてよ」
「はあ……」
気の抜けた返事を返せば、神津はフッと笑って俺を見つめてきた。その瞳は優しく、それでいて悲しげだった。 神津は、俺の手に持っているハルジオンに触れてくると、そのまま指を絡めてきて手を繋いだ。そして、空いた方の手でハルジオンを持つ俺の手に触れる。
「ハルジオンの花言葉の元になった紫苑って花もあるんだけどね……」
「お前、詳しいな。俺は興味ねえから話しても無駄だぞ?」
「こういうの知ってると女性にモテるんじゃない」
と、嫌味なのか本気で言っているのか分からない言葉を俺に吐くと神津は「とにかく」と息継ぎをする。
「思い出にふけることも、過去を忍ぶことも悪いことじゃないから。悲しかったら悲しいって言えば良いし、春ちゃんが忘れなければその人は春ちゃんの記憶の中で生き続けるって事だから」
「……はっ、元気づけようとしてくれてたのかよ」
そういうこと。と、神津は俺の手から離れていった。
それが少し寂しく思ったのは、絶対に口にしない。
(そういえば、自分の誕生日忘れてたな……)
神津に言われて、自分の誕生日を思い出した。確かに数週間後に来るが、この年になるとただ年を取るだけという認識になるのであまりおめでたい感じはしない。だが、きっと依頼も来ないだろうからその日ぐらいは開けておくかとも思った。
神津が海外に行くまでは毎年祝ってくれていたが、空白の十年間、あいつが俺に祝いのメッセージを送ってくることはなかった。忘れていたというわけではないだろうが、今になって祝いだした神津に少しいらだちすら感じる。
ちらりと横を向けば、「春ちゃんの誕生日どうしようかな」などと呟いている神津の姿が見えた。
まあ、祝ってくれるだけ嬉しいと思えばいい。と、俺はハルジオンを握りしめた。
「春ちゃんは欲しいものある?」
「誕生日にか?」
「それ以外あるの? まあ、誕生日じゃなくても、僕は春ちゃんにたーっくさん貢ぎたいんだけど」
「金の無駄だ。それに……」
「それに?」
と、顔をのぞき込んでくる神津。
俺は目を逸らすと、 何でもねえよ。と返そうとも思ったが、神津の若竹色の瞳にじっと見つめられれば、言わざる終えなくなった。
「……お前が、いるだけで…………それで、いいから」
「春ちゃん!」
「おい、くっつくな、危ねえだろ! ベランダから落ちたらどうすんだよ!」
言い終わる前か、言い終わったその瞬間神津は俺に抱きついてきた。突然のことでバランスを崩しかけ、手に持っていたハルジオンはベランダの外へ放り出された。
「僕も、僕の誕生日も春ちゃんが隣にいてくれるだけでいいから! ううん、これからもずっと春ちゃんが僕の隣にいてくれれば、それ以外は何も望まないから!」
「お、おう……」
ギュッと俺を抱きしめる神津の背中に腕を回し、彼の背中を優しく叩いた。
神津の誕生日はまだ数ヶ月も先なのに……と思いつつ、たいしたことを望まない神津に、いいや、俺たちにとってはとても大きな事を望んでいる神津に俺は苦笑した。
そして、神津の耳元で小さく囁いてやる。
俺の言葉を聞いた神津は一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「うん、約束する。春ちゃん」
もう遠くに行かない、ずっと隣にいるから――。