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警視庁。コンクリートの冷たさが染み出したような廊下を歩きながら、私はまだ手のひらに残る、手錠をかけた瞬間の嫌な感触を振り払えずにいた。
捜査一課のオフィスに戻ると、怒号のような電話の音と、積み上げられた書類の山が出迎えてくれる。
「……小宮さん。あの柊という人は、一体何者なんですか」
デスクに座り、ようやく一息ついた教育係の小宮さんに、私は溜めていた疑問をぶつけた。小宮さんはネクタイを緩め、コーヒーを一口啜ってから、重い腰を上げた。
「あいつか。柊渡。……あいつは元詐欺師だ」
「詐欺師……。犯罪者ですか! そんな人間を、どうして現場に?」
「奴の専門は『嘘全般』だ。投資詐欺、霊感商法、結婚詐欺。あらゆる嘘を構築し、人の心理を操って金を巻き上げてきたプロだよ。……数年前に自首して、今はある『条件』と引き換えに、警察の捜査協力者として飼われている」
小宮さんの声はどこか苦々しい。
「奴の仕事は、容疑者の嘘を暴くことだけじゃない。容疑者が『嘘をついているという事実』を、剥き出しにすることだ。今日の事件もそうだ。あいつは証拠を見つける前に、旦那の演技に綻びを見つけた。……警察のやり方とは相容れないが、奴にしか見つけられない真実があるのは確かだ」
元詐欺師。人を騙して人生を狂わせてきた人間が、今は警察の側に立っている。その歪な関係性に、私の正義感は激しく拒絶反応を示していた。
「……南さん」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、いつの間にか柊がそこに立っていた。グレーのコートを腕にかけ、相変わらず掴みどころのない表情でこちらを見ている。
「あ、柊さん。……先ほどは、その、ありがとうございました」
「礼には及ばないよ。こちらの方こそありがとう。さっきはカッコつけたが、怪我をせずに済んだよ」
柊さんはそう言って、ひらひらと手を振った。その仕草一つをとっても、どこか芝居がかっているように見えてしまう。私は、先ほど小宮さんから聞いた「元詐欺師」という言葉を反芻し、彼との間に見えない壁を築くように一歩下がった。
だが、柊さんの瞳は逃がしてくれなかった。彼は私の顔をじっと見つめるわけでもなく、かといって逸らすわけでもなく、まるで風景の細部を点検するように私の全身に視線を走らせた。
「……ところで南さん。詐欺師と組んで仕事をするのはやはり警察官のお父さんが許してくれなさそうかな?」
心臓が、ドクンと跳ねた。
「え? な、何でそれを」
「君という人間はあまりにも饒舌に、僕に向かって自己紹介をしているんだよ」
柊さんは私の左手首を指差した。
「君の腕時計……ベルトは女物だが肝心の文字盤が少し古いデザインの男物だ。父親からの贈り物かな。父親と仲がいい。違うかい?」
「合って……ます」
「さて、どんな父親か。さっき見せてもらった柔道技。もちろん警察学校でも習うだろうが、君の耳の形を見るに子供時代から習っている。あと、言葉遣い。正義感にあふれたもので自信もあった。ずっとそう教育されていたんだろう。自衛官の娘の可能性もあったが、まぁ警察官の娘ってところだろうと推測した」
私は反射的に耳を触る。そこまでひどくはないが、いわゆるカリフラワー状の耳だ。
「耳だけじゃない。君の姿勢だ。重心が常に足の内側にあり、肩のラインが水平を保っている。幼少期から道場に通い、かなり厳格な指導を受けてきたんだろう」
一息にまくし立てられた言葉のどれもが、図星だった。
この男の前では隠し事は無理なのだろう。丸裸にされている。警察官として身につけたはずの鎧が、薄い紙のように剥がされていく感覚。
「……失礼ですね」
私は精一杯、声を絞り出した。だが、柊さんは意地悪く笑うこともなく、ただ退屈そうに廊下の先を見つめている。
「失礼なのは、君の体だよ。詐欺師にとって、人間の微細な動きや持ち物は、声よりも正確に真実を語る。君は嘘がつけない人間だ、南さん。君の歩き方、視線の動かし方、さっき一般的なパーソナルスペースより広めにとった僕との距離感……そのすべてが、僕にとっては一冊の教科書みたいなものなんだ。読み進めるのが、少しばかり退屈なくらいにね」
柊さんはそう言うと、今度こそ軽く手を振って歩き出した。
「私も一つわかりました。あなたは自分の観察眼を小道具に使っている」
立ち止まり、振り返る柊さん。
「小道具?」
「あなたの方こそ、他人と距離を取りたがっている。かなり広いパーソナルスペースが欲しい。だから観察眼でなんでもお見通しという風に装って、相手のことをここまで見ているという不気味さを演出しつつ、相手に距離を取らせるという作戦。自分の力を自慢したいだけなら謎解きまではしない」
「ふむ、面白い着眼点だ」
私は、去っていく男の背中を見送りながら、左手首に残る腕時計の感触を確かめた。今まで誇りだと思っていたその重みが、今はなぜか、私を地面に縛り付ける鎖のように感じられた。
小宮さんが言っていた「剥き出しにする」という意味が、ようやく分かった気がした。
彼は証拠を見つけるのではない。私たちが無意識に積み上げる動作や言葉を、ただ、淡々と解体していくのだ。
私は、騒がしいオフィスの中で一人、自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。
あの男の隣で、私は果たして「私」であり続けられるのだろうか。
「南、何突っ立ってるんだ。報告書はどうした」
小宮さんの叱咤が飛んできて、私は我に返った。
「あ、すみません! 今すぐやります!」
私は慌てて席に着き、キーボードを叩き始めた。だが、心の一部はまだ、あのグレーのコートの主が残していった冷たい言葉の余韻に囚われていた。
窓の外には、タワーマンションで見たのとは少し違う、喧騒にまみれた夜景が広がっている。その光の一つ一つが、誰かの隠し事を照らし出す鋭い針のように見えて仕方がなかった。
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