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久しぶりに穏やかな気持ちで、私は二日間の週末休みを過ごした。
一日目は梨都子たちとの約束通り、清水の運転で隣県まで行き、買い物とちょっとした観光を楽しんだ。梨都子たちから「お邪魔だったかしら」などとからかわれてしまうくらい、私は拓真と一緒の外出が嬉しくてちょっぴりはしゃぎ気味だった。
二日目はのんびりと起き、のんびりと朝食を済ませた。その後もやはりのんびりと二人で掃除をしたり、洗濯をしたりと、恋人と一緒にいるという非日常の中における日常を過ごした。午後になってからは、彼が近くのスーパーで買い込んできた食材やらを使って二人して料理した。早めの夕食をゆっくりと取り、食後にはソファに並んで座り、大画面のテレビで映画を見て過ごした。
この休日の夜、私たちは先日のように肌を重ね合うことはなかった。私は構わないと思っていたけれど、拓真はキスしかしなかった。
私の顔に物足りなさでもにじんでいたのだろうか。拓真は苦笑いを浮かべた。
毎日のように抱いてしまったら、碧に溺れて他のことを何も考えられなくなりそうだから――。
そんなことを言って、彼は大切なものにでも触れるような優しさで、私の額に、頬に、いくつものキスを落とした。
たったそれだけの軽いキスだったけれど、それは温かくて優しくて、そこに拓真の私への想いが詰まっているように感じられて、胸がいっぱいになった。彼が本当に私を愛してくれているのだという安心感に包まれながら、私は彼の隣で眠りについたのだった。
週明けの朝は、拓真が起きるより先にベッドを抜け出して、朝食を用意した。特に当番だとか係を決めていたわけではなかったけれど、できる時は率先して私が準備したいと思った。
身支度を終えてテーブルについた拓真は、満足そうに朝食をお腹に納めた後、真剣な顔をして言った。
「会社で何かされるなんてことはないと思うけど、くれぐれも気を付けるように。もちろん俺もできるだけ目を離さないようにはするけど、絶対に一人にならないようにしてくれよ」
「絶対にっていうのは……」
「難しいことはもちろん分かってる。だけど、少なくとも誰もいない場所で一人になったりしないで」
私は固い表情で頷く。
「うん、気を付けるから」
拓真は私の手を握りながら言った。
「できるだけ早く手を打つから」
「手?」
私は首を傾げた。出張から帰って来た後まっすぐにリッコへ行ったが、そこで皆と話していた頃にはもう、拓真の頭の中にはその「手」とやらがあるようだった。私に話さないということは、まだ明確になっていないからなのかもしれないと思い、あえて追及しない。
「とにかく、碧が今やるべきなのは、気を付けること一択。分かった?」
「分かってる。あ、後片付け……」
「俺がやるよ」
「じゃあ、お願いしようかな。私、そろそろ行くね。また会社でね」
「本当に気をつけて」
椅子から立ち上がった私を、拓真は心配そうな顔をしながら玄関まで見送りに出る。
時間差での出勤については、昨夜のうちに話し合って決めたことだった。
この話になった時、拓真ははじめ、太田の待ち伏せ対策として一緒に出勤すると言った。途中で会ったことにすれば、特におかしくはないだろうと言う。
拓真の言葉に私は首を横に振った。それが毎日なのは怪しまれるかもしれない。また、二人で一緒にいる所を太田に目撃されてしまったら、かえって彼の神経を逆なですることになる可能性も考えられた。
だから時間差で――。
そう結論づけて、話を終わらせようとする私を拓真は止めた。そうだとしても、万が一を考えたら、一人でいる時間はできるだけ少ない方がいいのではないかと粘った。さらに、太田と付き合っていたことをこれまで周りに黙っていたのであれば、いっそのこと自分との交際をオープンにしてしまおうかとも言い出した。そうすれば、一緒に出勤してもおかしくはないだろうと付け加える。
私は反対した。
「それはやめた方がいいと思う。もしも私たちのことを知ったら、あの人きっと私にだけじゃなく、拓真君にまで何かひどいことをしてくるかもしれないもの。私、これ以上拓真君に迷惑をかけたくない」
「迷惑?例えばどんな?」
拓真に問われ、私は少し考えてから答えた。
「例えば、嫌がらせとか……」
彼は何度か目を瞬かせ、それからふわりと笑う。
「この前も、そうやって俺のことまで心配してくれてたね。ありがとう。だけど、俺のことは心配いらないよ。仮にあの人から何かさせたとしても、切り抜けられる自信がある。だから碧は、自分のことだけ心配していればいい。でもまぁ、確かに、彼は感情が激した時何をしでかすか分からない所があるみたいだし、ひとまずはあまり刺激しないようにした方がいいか。碧がまた傷つくことになるのも避けたいしな」
「ごめんね。ありがとう」
「謝る必要なんかないよ」
諦めたように言って、最後には不承不承といった体で、拓真は私の言葉を聞き入れたのだった。
さて出掛けようかとパンプスを履き終えて、出がけの言葉を言おうと拓真に顔を向けた時、彼に名前を呼ばれた。
「碧」
「何?」
訊き返したと同時に、唇に柔らかい感触があって思わず体を引いてしまう。しかし、すぐにそれが何であったかに気づき、耳が一瞬で熱くなった。
拓真は私ににっと笑いかけた。
「普通は逆なのかもしれないけどね。――行ってらっしゃい。俺も後から出るけど」
「い、行ってきます」
私はどぎまぎしながら拓真に見送られて玄関を出て、会社に向かった。
会社に近づくにつれて太田に出くわさないか不安になったが、途中で他部署の同期と会い、連れ立って出勤した。彼の待ち伏せに遭うこともなく、私は職場に無事到着する。ロッカールームで一緒になった企画部の先輩と雑談を交わしながら、管理部のあるフロアに向かった。
「おはようございます」
「やぁ、おはよ」
すでに出社していた斉藤に挨拶して、私は自分の席に座った。
デスクの上に仕事に必要なものを並べていると、拓真が出勤してきた。斉藤と挨拶を交わして席に着く。その手には紙袋を持っている。中身はお土産だ。
本当はその土産は私が持ってくるつもりだった。しかし、荷物になって大変だろうからと、拓真に取り上げられたのだった。過保護というか、なんと言おうか……。
思い出して苦笑しそうになった時、拓真が涼しい顔で私に声をかけてよこした。
「笹本さん、おはようございます」
「は、はい。おはようございます」
私の方は若干動揺していると言うのに、拓真はまったくの平常心だ。少なくともそう見えて、その役者ぶりにこっそり感心する。
「おはよう」
大槻が総務課の方へとやってきた。その後ろには田中がいる。「長」のつく二人だが、すでに出勤していたようだ。
その場にいた私たち三人は、立ち上がって挨拶した。
「おはようございます」
「おはよう。今週もよろしく」
大槻はにこやかな顔で言い、それから私と拓真を交互に見た。
「笹本さん、北川さん、先週は出張お疲れ様。支社長からお礼の電話があったことを伝えておきたくてね。笹本さんの指導が分かりやすくて良かったって、教えてもらった職員たち皆んなが口を揃えて言っていたそうだよ。結局、支社全体の事務指導になったみたいだね。お疲れ様。北川さんも支社長に同行して、色々と勉強になったんじゃないかな」
「はい、とても有意義な時間でした。ありがとうございました」
拓真はかしこまった顔で答え、それから紙袋を大槻に見せた。
「こちらを管理部の皆さんに、笹本さんと選んで買ってきました。ちょっとしたものですが」
大槻が目を丸くした。
「仕事で行ったんだから、気を遣わなくて良かったのに。でもせっかくだ。有り難くいただきましょうか。笹本さん、後で管理部の皆んなに回してもらっていいかな?」
「はい、分かりました」
私が頷くのを見て、大槻は自分の席へと戻って行った。
そこへ課の他のメンバーたちも次々と出社してくる。
朝の挨拶を交わし終えて、拓真はもう一つの紙袋からやや小ぶりの菓子箱を取り出した。
「課長、こちらは総務の皆さんに」
田中は目を見開いた。
「え、管理部とこっちと両方にわざわざ?」
補足するつもりで私は横から口を挟んだ。
「自分たちがいない分、総務の皆んなも忙しかっただろうから、と北川さんが……」
斉藤が感心したような声を上げた。
「おぉっ、さすが北川さん、気が利くなぁ」
拓真は照れたように笑った。
「入社以来皆さんにはお世話になっていますので、それも兼ねてなんですけどね。皆さんの好みが分からなかったので、選ぶのは笹本さんにお任せしましたけど」
「それなら、ありがたく頂戴するか。ありがとう。斉藤さん、これ、後で皆んなに回してもらえる?」
「了解です」
田中は菓子箱を斉藤に渡してから、改めてといった顔で、私と拓真をしげしげと見た。
「この出張で、ようやく二人は打ち解けたって感じがするね」
私は拓真と顔を見合わせた。
「いや、最初はなんだかぎこちないというか。今だから言うけど、君たち二人が出張なんて大丈夫かと思ってたんだよね。仲が悪いのかな、って思って見てたからさ」
そう見えていたとすれば、それには事情があったからだったが、意外と田中の目は侮れないなと今頃思う。私たちの今の関係にまで気づいていないことを祈りながら、私は拓真の反応が気になって彼にちらりと視線を飛ばした。
それが演技なのか、それとも本心なのかは分からなかったが、拓真はやや気まずそうに笑っている。田中に向かって軽く頭を下げた。
「ご心配おかけして申し訳ありませんでした。ですが、この出張に同行させてもらって、笹本さんと色々話をする時間もありましたから、もう大丈夫です。互いにいい同僚としてやっていけるんじゃないかと」
田中は安心したように、拓真と私を交互に見た。
「そう?なら良かったけどさ。一緒に仕事をしてるわけだし、どうせなら楽しく働きたいからね。お、始業時間だな。あぁ、まずは先に朝礼だな」
田中が時間を確認したのとほぼ同時に、大槻の声が響いた。
「朝礼を始めましょうか」
週明けの朝礼は十数分程度で終わった。毎回内容はたいして変わらない。いつもと同じように、今週の予定と各課からの連絡事項の伝達や情報のすり合わせが終わり、各自席に戻る。
私は席に着くと、カレンダーに目を走らせた。今週は少しずつ年末調整用の資料作りに手を付け始めようか。頭の中でその工程をざっと考えているところに、田苗が目を輝かせながらひそひそと私に話しかけてきた。
「それで?北川さんとの出張はどうだった?」
「どうって、何が?」
実はどきりとしている私に気づいた様子はなく、田苗が畳みかけてくる。
「何かロマンスはなかったのかってことよ」
「そんなのあるわけないでしょ?仕事で行ったんだから」
「それはそうだろうけどさ……」
田苗が唇を軽く尖らせた。
「あんなに素敵な人と一緒にいて、本当に何もなかったわけ?せめて、ときめきの一つくらいはさ」
田苗の追求に、内心落ち着かなかった。しかし表面上はなおも冷静さを保ちつつ、冗談めいた言い方で返す。
「田苗が言う所のロマンスっていうの?もしそんなものがあったんなら、私もっとうきうきした顔してると思うわよ。それよりも、ほら。田苗の内線、鳴ってるんじゃない?」
私は彼女のデスクの電話を目で指し示して田苗を追い払うと、パソコンの電源に指を伸ばした。立ち上がりを待っている時、ふと嫌な視線を感じてどきりとする。恐る恐る目だけを上げた先にいたのは、太田だった。もの言いたげな、しかし明らかに苛立っているのが分かる顔つきで私をじっと見つめている。私は仕事に集中するふりをして、彼の視線を無視した。
太田の連絡を無視し続けたのは私の意思だ。出張の日以降も、彼から執拗な電話やメッセージは続いていた。出ようと思わないでもなかったけれど、話が堂々巡りなのが分かっていたから、結局は無視する形を取ってしまった。ずっとそのことを考えないようにしていたけれど、こうやって太田と同じフロアにいると、どうすれば彼と綺麗に別れることができるのか、私を完全に諦めてくれるのかと、嫌が応にも考えずにはいられない。心が一気に重くなり、背中を冷や汗が伝う。
私の様子に気がついた田苗が怪訝な顔で訊ねた。
「笹本、大丈夫?気分でも悪い?」
私ははっとして笑顔を見せた。
「なんでもないよ。大丈夫」
「そう?ならいいんだけど。……あのさ、聞きたいことがあって。今日やる予定のこの一覧表なんだけどね」
田苗が私の前にパサッと資料を置く。
まずは仕事しなくちゃ――。
私はそれを手に取り、田苗が指さした箇所に意識を集中させた。