テラーノベル
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朝、目を覚ます前から、音はもう始まっている。
冷蔵庫の低い唸り。壁の向こうで誰かが水を出す音。遠くを走るトラックの、タイヤが濡れた路面を擦る音。時計の秒針は、部屋の隅からこちらを見張るように、一定の間隔で針を落としている。
ひとつひとつなら、きっと誰にでも聞こえる程度の音だ。
けれど僕の中では、どの音も刃物だった。
目を開ける。
カーテンの隙間から入ってくる光が、部屋の埃を浮かび上がらせている。世界は静かに見えるのに、静かではない。静かに見えるからこそ、音だけがむき出しになっている。
枕元のスマートフォンが震えた。
びくりと肩が跳ねる。
画面には、母からのメッセージ。
『今日、帰ってくる?』
たったそれだけの短い文章に、返信できないまま時間が過ぎていく。
帰る、と打てばいい。 帰らない、と打てばいい。
けれど実家には、食器を重ねる音がある。椅子を引く音がある。母が悪気なく立てる、袋の擦れる音がある。父がテレビの音量を少しずつ上げていく癖もある。
僕は家族が嫌いなわけではない。
ただ、家族のいる場所では、息をするたびに何かが壊れる。
駅へ向かう道で、子どもが泣いていた。
泣き声は、空気の中に鋭く伸びてくる。耳を塞いでも、頭蓋骨の内側から響いてくるようだった。母親が「大丈夫、大丈夫」と言っている。その声も、子どもの泣き声も、通り過ぎる自転車のベルも、信号機の電子音も、全部が一つの塊になって私を押し潰す。
足が止まった。
通り過ぎる人たちは、何も気にしていない。スマートフォンを見ながら歩いている。コーヒーを飲んでいる。笑っている。
どうしてみんな、平気な顔をしていられるのだろう。
僕は耳を塞いだまま、道端でしゃがみ込んだ。
誰かがこちらを見ている気配がした。
まただ、と思う。
変な人。 大げさな人。 子どもみたいな人。
そう思われている気がした。
本当は、誰も僕を見ていないのかもしれない。けれど、そんなことはどうでもよかった。音が鳴っている限り、私の世界には私しかいない。助けを求める声すら、その音の中に沈んでしまう。
会社では、イヤーマフを外さなければならない時間がある。
「そこまでしなくても聞こえるでしょ」
以前、同僚に笑われた。
聞こえる。
聞こえすぎるのだ。
キーボードを叩く音。誰かがペットボトルの蓋を開ける音。椅子の背もたれが軋む音。隣の席の人が鼻から息を吸う音。コピー機が紙を吐き出す音。
それらが一秒ごとに、僕の中へ入ってくる。
音は、壁を作らない。 音は、逃げ道をくれない。
昼休み、食堂で誰かがトレーを落とした。
金属が床にぶつかり、跳ね、転がった。
その瞬間、視界が白くなった。
身体が勝手に縮こまり、手が震えた。呼吸が浅くなり、喉が塞がる。周囲のざわめきが急に遠くなって、代わりに、耳の奥で高い音が鳴り始める。
誰かが「大丈夫?」と声をかけた。
大丈夫ではない。
けれど僕は、いつものように笑った。
「すみません、ちょっと寝不足で」
嘘をつくと、少しだけ楽になる。
聴覚過敏です、と説明するより。 音が怖いです、と言うより。 あなたの何気ない動作で、僕の一日が壊れることがあります、と伝えるより。
寝不足だと言えば、相手は納得してくれる。
そして僕は、また一人で壊れればいい。
帰宅すると、隣の部屋から掃除機の音がした。
ドアを閉めても消えない。壁を通り抜け、床を揺らし、胸の奥まで入ってくる。
僕は玄関に座り込んだ。
靴も脱がず、鞄も下ろさず、両手で耳を塞いだ。けれど音は止まらなかった。目を閉じても、息を止めても、世界は僕を放してくれない。
掃除機の音が、何かを吸い込んでいく。
僕の体力を。 今日一日、どうにか保っていた理性を。 明日も生きていようと思うための、薄い膜みたいなものを。
床に爪を立てた。
大声で叫びたかった。
やめて。 もうやめて。 お願いだから、これ以上、僕の中に入ってこないで。
でも声にしたら、自分の声まで怖くなる。
だから黙っていた。
音が止んだのは、しばらくしてからだった。
軽い静寂が訪れた。
けれど、静かになったからといって、すぐに楽になるわけではない。嵐の後の海みたいに、身体はまだ揺れている。耳の奥には残響がこびりつき、心臓だけが、今も逃げ続けている。
僕は暗い玄関で、膝を抱えた。
世の中には、音を楽しめる人がいる。 音楽を聴いて涙を流す人がいる。 雨音を心地よいと言う人がいる。 誰かの笑い声を、温かいと思う人がいる。
僕にとって音は、いつも突然だった。
予告なく近づき、身体を奪い、何もなかったことにして去っていく。
だから僕は、静かな場所を探す。
静かな時間を探す。
誰にも迷惑をかけず、誰にも説明を求められず、耳を塞いでいることを責められない場所を。
けれど、そんな場所はどこにもない。
世界は音を立てて生きている。
そして僕は、その世界から出ていくこともできない。
しばらくして、スマートフォンがまた震えた。
母からだった。
『無理しなくていいからね』
画面を見つめた。
その言葉が本心なのか、母が僕の苦しさを本当に理解しているのか、わからない。
それでも僕は、指を動かした。
『ありがとう。今日は帰らない』
送信する。
たったそれだけのことなのに、胸の奥がひどく痛んだ。
すぐに返信が来る。
『わかった。おやすみ』
短い文章。
音のない文字。
僕はその画面を、しばらく見ていた。
世界はまだ、完全には静かになっていない。冷蔵庫は唸り、外では車が走り、遠くで誰かがドアを閉めた。
それでも僕は、耳を塞がずにいた。
怖い。
怖いけれど、今夜だけは、音のすべてから逃げることができない自分を責めないことにした。
耐えられない僕は、弱いのではない。
聞こえすぎる身体で、今日までどうにか生きてきた。
その事実だけを、暗い部屋の中で、何度も何度も確かめた。
やがて、またどこかで音がした。
僕は目を閉じた。
消えて、と願いながら。
消えない世界の中で、明日まで生き延びるために。
耳を刺した。
コメント
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ゆろさん、読ませていただきました。 音のひとつひとつが「刃物」として描かれている感覚、とてもリアルで胸が締め付けられました。特に、周りの人が平気そうに見えるのに自分だけが違うという孤独感がひしひしと伝わってきます。「寝不足で」と嘘をつく場面、やりきれないけどよくわかる気がしました…。 ラストの「消えない世界の中で、明日まで生き延びるために」という一文が深く心に残っています。お母さんとの短いやり取りも、温かくて切なかったです。続きがとても気になります。
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