あの子の色だ。
ビルの隙間から覗く空を見て、そう思う。
あの子の温度だ。
コーヒーを注いだマグを手に取って、そう思う。
一日中そんなことばかり考えてぼーっとしていたせいか、心配した同僚たちに業務を取り上げられた。
風邪かもしれないから早く休めとのこと。
「皆さん優しいですねぇ……。」
持たされたカイロを手にそう呟く。
机に鍵を置こうとして、昨晩のまま物を出しっぱなしにいたことに気が付いた。
開けたままの通帳をしまい、紙を片手にゴミ箱のペダルを踏む。
『ご心配なさらず。』
バチカンさんの声が頭をよぎった。
思わず手を引っ込める。
『貴方様を選んだ記憶を消去して、再び眠らせます。』
ごめんなさい。元気でね。
そう言って終わりにしたはずの記憶が蘇る。
丸めた紙を開く。
おびただしい数の検算のあとが目に入る。
そのどれもが同じ数字…昨日提示されたローンが、払えないこともない金額であることを示す答えを示していた。
でも、あくまでも机上の話。
もし僕が少しでも体を壊したら?
もし人生のパートナーに出会ったら?
何か一つでもそんな「もしも」があれば崩れてしまう、余裕のない話。
だから忘れることにした。
ポケットでカサリとカイロが音を立てる。
できなかっただろう、とでも囁くように。
メンテナンスとやらをすれば、あの子は僕を忘れてしまうのだろうか。
「……8時。」
早く帰してもらったおかげで、昨晩とあまり変わらない時間。
あのお店に何か作業をするようなスペースはなかった。
ということは、閉店後どこかに連れて行くのだろう。
「行こう。」
最低限の荷物を持って、僕は外へど飛び出した。
***
「こん、ばっ……は……。」
日頃の運動不足が祟ってうまく喋れない。
抱えていた看板を下ろすと、店長さんは目を細めた。
「よかった。間に合われましたか、お客様。」
間に合った。
そう聞いて足が疲労を思い出す。
駅からとはいえずっと走ってきたのだ。
どうにか息を整えて扉をくぐる。
軽やかな足音がして、昨日より少し優しい力で飛びつかれた。
抱きしめるより早く腰に腕を回される。
「よかった……」
ぐりぐりと押し付けられる頭を撫でていると、バチカンさんに声をかけられた。
「お心のほどはお決まりになられたようですね。」
「…はい。」
飛び跳ねる心臓を抑えつけて息を吸う。
「この子を、引き取らせてください。」
バチカンさんは軽く目を見開くと、穏やかな笑みを浮かべた。
「勿論。お買い上げ、心より感謝申し上げます。」
***
「それでは、サインが必要な書類は以上になります。」
「はい……。」
一気に老眼が進んだ気がする。
ティーカップで温めた手のひらを目に当て、目頭を揉む。
「お客様。お値段は毎月こちらから引き落としさせて頂きますので、今一度ご確認頂けますか。」
「はい。」
こちらになります、と机の上を滑ってきた電卓に目を見張る。
「あの、失礼かもしれないんですが……これ、間違いじゃ…?」
そう。一晩経っただけでゼロの数が数個減っていたのだ。
バチカンさんは小さく笑うと首を振った。
「失礼なのは私の方です。昨晩ご提示した金額は、プランツを大切に扱って頂ける方なのかを見極めさせて頂く意も込めて設定しておりましたので。」
「……経済力を試されてたってことですか?」
「それだけではございませんよ。これは私なりの感謝と誠意です。」
そこで言葉が止められる。
蜂蜜色の瞳の先には、除け者にされて不満そうな少年。
「本当は今朝メンテナンスに出す予定だったんです。ですがあれが酷く暴れましてね。……それでどうにか、一日期限を伸ばすことで妥協したんです。」
ようやく自分に話が回ってきたことを察したのか、プランツはにっこりと笑った。
それはもう酷い暴れ方でした、とバチカンさんが遠い目で続ける。
「こんなことは初めてでしてね。主神にお導きを受けられたお客様なのではと。」
「お導き……?」
「えぇ。『キツネには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕する所もない。』人に家が必要なように、プランツには愛情を注いでくれる所有者が必要なのです。」
「でなければ枯れてしまいますから。」
先ほど読んだ誓約書の注意点が頭に浮かぶ。
プランツドールは愛情が不足した場合が続くと、枯れてしまいます。この場合当店は一切責任を持ちませんのでご注意ください。
確かそう書いてあったはずだ。
『枯れる』というのは文字通り植物のように朽ちてしまうということだろう。
「もう既に、それは十分幸せそうですので。」
バチカンさんは小さく笑うと、こちらもサービスです、とミルクと数枚の衣装を持たせてくれた。
***
「どうぞお気を付けて。」
そう言ってバチカンさんが頭を下げる。
ふわふわと夢見心地のまま歩き、路地の出口に立ったところでようやく足を止める。
早くいつもの道に戻らないと、この手の温もりが幻になってしまうような気がしたのだ。
「これからよろしくお願いします、…えーっと……」
そういえば名前を聞き忘れた。
どうしようと視線を彷徨わせていると、プランツはポケットから何やら紙片を取り出した。
手のひらに落とされたそれを開く。
シルクのような手触りのメモに、流れるような筆記体で『America』と記されている。
アメリカ……何だか昔の探検家に似たような名前の人がいたような気がする。
「……アメリカ、くん?」
コクコクと激しい首肯。
英語に自信がなかったが、どうやら正解できたらしい。
「それじゃあ帰りましょうか、アメリカくん。」
キラキラと真夏の海のように光る両目が、いたずらっ子のような弧を描く。
小さな手は、離さないとでもいうようにしっかりと僕の手を握ってくれた。
(続)
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